七つ下がりの雨に打たれながら、私は道路に広がる赤い色を見て呆然としていた。その道筋を辿れば、赤がどんどん色濃くなっていく。その中心に同僚が仰臥している。盛大にワインでも溢したのか、トマトを抱えていて潰してしまったのか。白いシャツの胸元を染めている赤を見ながら、そんなことを思った。思って、彼女の右手にある拳銃を見て、弾かれたように私は駆け出した。
 雨は綺麗で好きだと云っていた彼女の頬を雫が次々と流れて行く。数少ない同性の同僚だった。仕事を共にする機会も多く、親しくなるのに時間は要さなかった。
 私は彼女の傍に膝をついたまま、そこから一歩たりとも動くことが出来なかった。
 しとしとと肩を叩くように一定間隔で降る雨音が彼女の存在感も、周囲の気配も希薄にさせていく気がした。遠くでは微かに車のクラクションが鳴っている。頭上では気忙しく雷鳴が走っている。それが今唯一私を現実に繋ぎとめていた。
「何時までそうしてる」
「え、あ……! も、申し訳、ありません!」
「風邪引くぞ。体調管理も仕事の内だろうが」
 雨音のカーテンを裂いて突如そこに顕現したかのようだった。何の気配も感じなかった。彼女の死に全てを持っていかれて油断していた私は、真後ろに立っていた上司である中原幹部に平伏する。職務怠慢だと罰を受けるのは即座に覚悟した。
「責めてるわけじゃねぇ。んなことたァしなくていい」
 彼の手が私の頬を通って顎に触れる。そして、そのまま持ち上げられる。
 私と同じように濡れ鼠になった中原幹部は、何かを堪えるように眉根を寄せていた。顎から離された彼の手は、音がしそうな程キツく握り込まれている。死を悼んでいると云わんばかりに。たかが部下一人消えたところで、代替えが利く。末端の人間に見せる表情じゃない。
「弔うな、とは云わねぇ」
「で、でも」
「ダチか?」
「そう、です」
「なら、手前の弔いは此奴にとって、きっとどんな花束より贅沢な手向けだろうよ」
 雨とは違う雫が、冷えた頬を濡らした。傍から見れば雨か涙か分からないだろう。涙にも、温度ってあるんだ。
 彼女の死を認識した瞬間にあらゆる感情を押し込めて蓋をした筈だった。分厚い辞書なんかじゃ足りない。到底溢れてしまうから、巨岩でも乗せるようなそんなイメージで。
 彼が言葉で触れた蓋はいとも簡単に浮かび上がって砕け散る。際限なく溢れてくる涙はもう止められない。雨と血と涙と鼻水とでぐちゃぐちゃな顔を上司に晒している情けなさも、友人を失った辛さも、彼の優しさによって全て肯定される。
 バサリ、と音がして私の視界は暗くなった。雨音が遠ざかる。
「此れも濡れてっから雨避け、になるかは甚だ疑問だが、顔隠すには打って付けだろ?」
 雨を含んでズシリと重いコートが私の心を落ち着かせるように包んでいる。顔だけじゃない、たぶん私の恰好を気遣ってもくれたのだろう。
「俺は先に戻る。まだ片付けなきゃならねぇのが残ってるからな」
「な、中原幹部! ……ありがとう、ございます……」
「生きろ。そいつの分まで。俺は一人だって部下を失いたくねぇんだ」
 帽子を目深に被り直し、踵を返した彼の表情は見えなかった。男性にしては小柄な方だろう。でも誰よりも懐が温かくて大きい背中に見える。
 あれが中原幹部。多くの人から慕われているらしい、と云うことは伝聞で知っていた。そして彼女も彼を慕っていたその一人だった。
「……貴女の云う通りの人だった。こんな形で教えて貰えるとは思ってなかったけど」
 彼女の冷たい左手を握る。あと、一分だけ。全力で貴女を弔わせて。そうしたらまた、立ち上がって歩けるから。
 
§
 
 五大幹部として飛び回る彼に借りたコートを直接手渡せる機会は無く、彼とよく関わりのある他の人にお願いしてお礼と共に返却してもらった。
 私が彼と再会できたのは、約半年後だった。
「ミョウジか。話は聞いてる。黒蜥蜴に入ったんだってな。大出世じゃねぇか」
「中原幹部のお陰です。あなたがあの時云ってくださった言葉が、今も私を生かしています」
「俺は何もしちゃいねぇよ。そういや手前に貰ったあの酒美味かったぜ! ありがとな」
「お口に合って何よりです」
 艱難辛苦を味わうことを選んだこの半年間の記憶の大半は、血と泥に塗れている。自らの異能を役立たずと卑下していた頃の自分は殺した。何回骨が折れ、腹に風穴が開いただろう。それでも私は誰よりも彼の役に立ちたかった。
 座椅子に凭れてお酒の話をする彼は、得意げに目を輝かせている。お酒が好きだという情報を入手していたから猛勉強もしたし、色々な種類を飲み比べて舌も鍛えた。厳選に厳選を重ねた物を気に入ってもらえ、努力も無事報われた。
 彼のように強くなりたい、認めてもらいたい。彼のことをもっと知りたい。抱いた憧憬の念は蛹に過ぎなかった。そして今それは、殻を破って恋心へと変貌を遂げている。
「幹部は、その……」
「ん?」
「恋人はいらっしゃいますか……?」
「あ? んなモンいねぇよ。それがどうした」
「ほ、ほんとですか?」
「嘘付いたって如何すんだよ」
「じゃあ私にも好機チャンスありますよね!」
「好機……? なんの……って、はァ⁉」
 ガタン、とひと際大きな音がした。どうやら机で強かに膝を打ち付けたらしい。若干涙目になりながら、顔を赤くして私を恨めしそうに睨んでくる彼へにっこりと笑い返す。
 ゼロから一へ。ひとまず絶望的な状況からは脱した。
「私頑張りますので!」
 私に生きる力をくれた人。永遠に降り続く雨は無いと教えてくれた人。
 この頑張りが報われるかは判らないけれど、それは二の次なのだ。
 例えば一つだけ願い事を叶えてもらえるのなら、きっと私は彼の生を、幸を一番に願うだろうから。