遠い記憶を掘り起こされ、童心に帰った私は近くに落ちていた枝を手に取った。地面と云う広大なキャンバスには、小さい頃から馴染みのあるキャラクターや、大小さまざまな丸、本人たちにしか判らないルールで引かれたであろう曲線などが描かれている。
ところどころが錆びてペンキが剥げた滑り台、乗れば耳を劈く悲鳴を上げるブランコが物悲し気に佇んでいる、薄暮の時間が満ちる公園には私しかいない。
とにかく足が疲れて座る場所を探していた私は、仕事終わりの体を引きずり、這う這うの体でこの公園のブランコに腰掛けていた。枝を拾ったのは、隅っこにあった青い春を彷彿とさせる落書きを見たからだ。疲労がパンパンに詰まっている今の私の脳に恥じらいというものはない。
ブランコから腰を上げて何も描かれていない場所へ移動する。休憩したお陰か、足の疲労も大分ましになっている。
「久しぶりに描くなあ、何年振り? え、怖いから数えるのやめとこ。私にもこんな時代があったんだよね。それが今やマフィアって……」
独り言を撒きながらガリガリと地面を削って、縦横斜めに直線を描いていく。最後の仕上げに頂点へハートマークを置いたら相合傘の出来上がりだ。生まれてから現在までの回想はものの十秒程度で終わった。
男女の関係を表す悪戯書き。片想いの相手を書いて成就を夢見るおまじないのようなものでもある。黒板にこっそり描いては友達とはしゃいでいた。霞のように曖昧な記憶でも、その時の浮つくような、秘密同士が織りなす淡い光のような純粋な感情はまだ鮮明に覚えていた。
左が好きな人だったっけ。右? 全然覚えていない。まあでも気まぐれな唯の落書きだし、誰に見せるものでもないから適当でいい。とりあえず自分の名前を右に書いてみた。
実際書いて目にすると、恥じらいは無かった筈が取って付けたように湧き上がってくる。
「うわっ、待ってやっぱり恥ずかしいから消そ、」
「んで、こっちには誰の名前書くんだ?」
「ギャー‼ 出たー‼」
「人を虫扱いすんな!」
「じゃあ幽霊?」
「死んでんじゃねぇかコラ!」
目の前に革靴の爪先が降りてくる経験なんて、人生でそうないだろう。歩いてきて視界に入るなら判るが、ふわっと重さを感じさせない優雅な着地だった。
わざわざ頭上から登場した中原中也――その人に向かって「心臓に悪いです!」と抗議する。
「異能の無駄遣い」
「丁度飛んでた」
「無理がありすぎる……鳥でもあるまいし」
「薄暗い公園でブツブツ喋りながら地面に何か描いてんの面白、……心配すんだろ」
「言い直す必要ありました? というかよく近付こうなんて思いましたね?」
通りがかった人たちから見れば、私は完全に不審者だ。
この気緩い感じを見るに、中原さんも仕事帰りだろうか。この辺でとは聞いていなかったけれど。面倒そうなことはスルーする人なのに。
だが正直話しかけて貰えたのは嬉しい。何せ彼は私が相合傘の左側に書こうとしていた人物だからだ。
もし中原さんの名前を書いているのを見られていたら、私はいろいろな意味で終わっていた。まず困るのは表情と態度だろう。いつも通りが罷り通らなくなる。
「これから帰るんですか?」
「嗚呼、ちょっと顔出してからな」
「そうですか、じゃあ私も帰ります」
「おっと」
「え」
立ち上がりつつ、どさくさに紛れて落書きを消すつもりだった私の足は、彼の足によって阻止された。
「まだ質問に答えてねぇだろ」
「う、……その、意外でした」
「何が?」
「この絵の意味知ってるんですね。もしかして描いたご経験が……?」
「莫迦云え、んなわきゃねぇだろ。……昔、壁に描いてあったのを見たことがあるってだけだ」
「ああ! 中原さんは名前書かれた側ってことですね!」
苦し紛れでも答えをはぐらかせるなら、と時間稼ぎの為だけに放った疑問は、刹那彼の過去を垣間見せた。僅かに細められた目に浮かんだ懐古は、瞬き一つで掻き消える。
「俺の知ってる奴か?」
「知ってるもなにも」
本人です、と続けそうになる口に急いで封をする。
「……ふーん?」
「あ、……も」
「黙秘権は無しだ」
あえなく行使失敗に終わった。ぐうの音も出ない。見逃すつもりは毛頭無いらしい。
彼に、『私の想い人を白状させる遊び』に興じるような暇は無い。あってもここまで意地の悪いことはしないだろうけれど。躍起になる理由は何だろう。
帽子のつばを摘まみ乍ら、ふいに彼が寄越した目配せは、薄暮の隙間を縫ってとすん、と私の胸を衝いた。軽やかな所業。刺さった確信めいた視線は、返しの付いた棘のように抜けない。
「手前にとって、不利益になるようなことは無いと思うぜ?」
「!」
唐突に理解した。彼は知る為に聞いたのではなく、自分の中にある答えを確かめる為に聞いたのだと。そして、恐らく私は隠し続けていた好意を先刻見せてしまった。封じた言葉の続きを彼は読み取ったに違いない。
誘導尋問じみたこれが遊びじゃないなら。叶わないと仮定して目を伏せ、憂えていることを不利益と表現しているのなら。それは。
彼がややバランスの悪い不格好な相合傘を指差す。
後ろを向いてほしいと彼に伝え、私は諦めにも似た気持ちで枝を引っ掴んだ。
「十秒経ったら振り向いていいですよ!」
しんと静まり返る遊具と、子どもたちの残した落書きが見守る中、二人の大人がいる公園には地面を引っ掻く力任せでやけくそ気味な音だけが響いている。
もう少し猶予を延長するべきだったかも。今にも駆け出したい気持ちのまま、この名前を雑に書きたくはなかった。かと云って丁寧に書いていては、私がこの場を離れるには残り時間が短すぎる。
日が完全に暮れても夜に慣れた目には問題なかった。
霞のような青い春の記憶を凝縮したのなら、ビー玉みたいに輝いているのだろうなと思う。今はもう、失ったものが多すぎて光れはしない。だが、輝度は無くてもかまわない。
最後の文字を書き終えたと同時、足に思い切り力を込める。こんな想いの伝え方、無駄な足掻きもしたくなるだろう。出来るだけ遠くへ、一瞬で飛んで行けたらいいのに。
そして私は、ここ最近で一番のスタートダッシュを決めた。
「ははっ! もっと逃走に時間割きゃあいいのに、奇麗に書きやがる」
彼が振り返って答え合わせをした瞬間、確実に今までの何もかもが罷り通らなくなることを覚悟しながら。
「名前書かれたのは、手前が初めてだ」
凪を纏って降り立った彼は、春の嵐へ姿を変える。