冷蔵庫でよく冷やした林檎みたいに太宰さんの頬は冷たい。わたしの両手のひらには彼の柔らかなほっぺたが首尾よくおさまっている。
他のメンバーは皆出払っていて、わたしと太宰さんしかいない事務所は閑散としている。命から発せられる活気でいつも賑わっているのだなと思った。わたしと太宰さんだけじゃ、どこか物足りない。焼け石に水のように、二人分の呼吸は静寂の透明な炎の前で蒸発していく。
全身から水を滴らせて現れた太宰さんに着替えをさせてソファに座らせ、タオルで髪を拭き終わったところだった。太宰さんはわたしの手からタオルを抜き取って、隣に座るように促したあと、左右の人差し指で自身の頬を無邪気に示す。こうなったら梃子でも動かないことを知っているので、わたしは何も言わずに彼の意に従う。ここまでがルーティンになりつつあった。厄介で難儀なこのルーティンを、わたしはすげなくあしらうことが出来ない。
床には太宰さんが付けた水の足跡が付いている。国木田さんが頭から湯気を立てている様が目に浮かんだ。太宰さんに怒りをぶつけたあとは必ず「甘やかしすぎだ!」とわたしが説教をされるのだ。
「川の流れ心地は如何でしたか?」
「いやー、今日も好い入水日和だったよ」
「そんな日和はありません。またこんなに冷えるまで水遊びして」
「水遊びだなんて心外だな。これでも真面目に」
「清く明るく元気な自殺? 確かクリーン、もじゃなかったですか?」
「そうだとも! 誰にも迷惑はかけていないだろう?」
体を反らして得意げにのたまう彼の頬を包んでいる自分の手に視線を落とした。
「じゃあ、これは?」
「ふふ、迷惑かい?」
「……いいえ!」
「ふぐぉ……! ナマエちゃ、しゃべれにゃいぃ」
可愛らしく小首を傾げてわたしの心をお手玉みたいに弄ぶ太宰さんの頬をぎゅうと両手で挟み込んだ。惚れた弱みにひとさじ憎らしさも混ぜて。
入水して体を冷やしてくるたびに、こうしてわたしの手で暖を取る。わたし自身、そんなに体温は高いほうじゃないし、なんなら冬は冷え性を発揮する。それでも彼の方が冷えているからか、わたしの手があたたかく感じるらしい。冬は洒落にならないので、本当にやめてほしいのだけれど。
ただ黙って影のある表情をしているときは得も言われぬ怪しさが彼の美しさを際立たせる。高い鼻梁は上品ささえ感じるが、わたしの手の中で蛸のように口を突き出している彼を見ていると、同一人物だろうかと疑ってしまう。もう一つ人格があると云われても納得してしまいそうだ。
ふと、懸命に動かしている彼の薄い唇がいつもより青褪めている気がした。
「寒くないです? 少し色が……」
唇も冷たいのかな。挟んでいた頬を解放しながらわたしがそう思ったのと同時に、太宰さんの口元が誘うように弧を描いた。
「確かめてみるかい?」
彼の笑顔には魔力でもあるのだろうか。
オレンジ一色に染まった事務所の中で、空調は無味乾燥な音を響かせているばかりだ。蜜を溶かしたようなこの噎せ返る空気をどうにかしてほしい。水彩画のような空に白のクレヨンで無造作に描いたみたいな飛行機雲は、もう輪郭がぼやけてきていた。滲んで溶けて、空に馴染む。
彼は、どの角度からきても受け止める、とでも云っているみたいに余裕たっぷりの表情を浮かべている。
「お好きにどうぞ」
わたしのことを知り尽くしている、なんて、そう思っているのなら傲慢だ。いつだって薄い皮膜の向こうからしか微笑まないくせに。
「ここも、ひんやりしてる……」
わたしは彼の唇に自分の指をあてがい、その上から口付けた。
「っ!」
ゆるゆると見開かれた太宰さんの目に、彼の鼻を明かせたことを知る。彼の唇から手を離せば、ぽかんとした表情でわたしの顔を穴の開くほど見つめた後、くしゃりと控えめに笑った。
「参ったな……」
「そう簡単にはこの距離を飛び越えないよ、わたし」
「……君はお行儀がいい。もっと奔放でも構わないのに。嗚呼、勿論私の前でだけ、ね」
「太宰さんは奔放すぎです」
美しい女性を前にした彼を幾度も見てきて、幾度も胸の奥をナイフで抉られてきた。心を何処に置くかは太宰さん次第だけれど、彼は一向に安住の地を定めようとはしなかった。花から花へと移動する。蝶かな、蜂かな。蜂ならだいぶ物騒だけれど例えるなら彼の叡智は針かもしれない。
「……わたしのことなんて暇つぶし、」
「おっと、そこまでだ」
ほだされて、絡まりそうで絡まない糸がわたしと彼の間を漂う。
希死念慮を抱いているのに、わたしの体温に浸れるならば死に損なっても悪くない、なんてとんでもない口説き文句で否応なしにわたしを縛る。
恭しい所作で太宰さんはわたしが先刻口付けた指先へ唇を寄せた。
「私はね、ナマエちゃん。君のことを路傍の花だなんて思ったことは、唯の一度もないのだよ」
針の先から注がれるのは、なんだろう。嘘だと糾弾したかった。でも彼の目が否定を許さなかった。純然たる事実であると、何も難解なことは無いと言葉に優しさを灯して、捏ねようとした駄々を取り上げてしまう。
ちょっと味見をして飛び立つような、一見理解し難い彼の行動すべてに意味がある。大抵それは仕事絡みだ。理解しているつもりでも、ままならない感情に首を絞められて喘いでしまう。
今度こそわたしは体中から力が抜けて、太宰さんの胸に額を預けた。
「どうか私を、君の心へ招き入れておくれ」
手当てでもするように、彼の存在がわたしの心に触れる。包帯の扱いはきっと誰よりお手の物なのだろう。
わたしに彼の安住の地がつとまるだろうか。
一度招き入れたら、厭だと云っても絶対出て行かないのだろうなと思いながら、目を閉じて潮鳴りのような彼の心臓の音に耳を澄ました。