机上にたんまり積まれている頭痛の種は、処理しても一向に減る気配が無かった。どうしてこうも次から次へと問題が起こるのか。解決したばかりの書類へ判を押して、コーヒーを啜った。ぬるい。集中力の残量がもう無いのは明白で、中也は頬杖をつき改めて書類の山を睥睨した。
「ん? 何か挟まってんな……」
 絶妙なバランスを維持している山を崩さないよう注意しながら、淡い水色の封筒を引き抜く。郵便物でも紛れたのだろうか。ふわり、と広がって鼻先に触れた香りには覚えがあったけれど、上手く思い出せない。
 宛名は無し。くるりと裏へひっくり返せば、左下に小さく三年前の今日の日付が記されていた。封はされていない。自分宛なのかそうじゃないのか判然としないが、こうして手元にあるのだから、もしかしたら自分宛かもしれない。勝手に見るのは気が引けるけれど、見ないことには判断のしようが無かった。短い逡巡と葛藤を終え、中也は封筒を開けて便箋を取り出す。

拝啓
 三年後の私へ。ちゃんと生きてて偉い!
 前置きすると長くなるので、まずは結果から聞きます。
 目標は達成しましたか? 三つのうち、二つは頑張り次第で何とかいけるかと思います。一番難易度が高いのは三つ目ですね。目標と云うより願望に近いけれど。
 忘れてはいないと思いますが、念のため書いておきます。

一つ、強くなること。
一つ、中原さんから名前を呼んでもらえるようになること(まずは認識してもらう)。
一つ、中原さんと両想いになりたい。

 これを読んだらまた数年後の自分に手紙をしたためてください。
 過去の私の頑張りを、他でもない未来の私がちゃんと理解して、絶対忘れないでいてください。
 死なない程度に無理をすること、水ばかり飲んでもお腹は膨れないので、何でもいいからとにかく食べること。この手紙を読んでいる私はきっと強くなって、生活も多少は潤っているでしょうから心配は無いと思いますが。生き抜いてね。健闘を祈ります。
敬具

 風に揺れる藤の花のように嫋やかで、強い意志を感じさせる筆跡の持ち主を中也は知っていた。それと同時に先刻の香りが再度広がって結びつく。
 目標に焦点を当てている明るい文面にところどころある影の部分を、中也はようく理解できた。同じ世界に身を置く者として。死に近い場所で藻掻いて、戦って傷付いてそれでも尚、死という沼に足を取らせないその人物の顔が浮かんで、中也の表情を緩ませた。
 三年も前からか。掲げてある目標の内半分以上が自分のことで占められている。思わず頬が上がり口の両端が引っ張られる。強くなることが最優先なのは判るが、その短い一言に覚悟と決意が詰まりすぎている。
 そうだな、と胸中で同意しながら『生きてて偉い』の文章を労うように指でなぞった。
 三年前の手紙の主と対峙している気分でいると、沈んでいた思考の海に、焦燥感の滲んだノックの音が落ちてくる。中也は意識を引き上げた。扉の先にいる人物には心当たりしかない。恐らく手紙が無いことに気付き、急いで来たのだろう。
「失礼しま、あ! そ、それ」
「やっぱ手前のか」
 持ち主である彼女の顔から感情という感情が引いていき、干からびたように固まってしまった。触れたら砂にでもなって消えてしまいそうだ。
「読みました……?」
「……」
「あ、あの怒ったりとかしないので……」
「……読んだ」
 今から読むところだったと気遣いの嘘をつくことも出来たが、逆効果になりそうだったし、知ってしまったからにはいつか襤褸が出る。恥の上塗りはしたくない。
「お渡しした書類に混ざってたみたいで……すみません……」
「何で手前が謝る。勝手に見ちまった俺が悪い」
「宛名も無いし、自分の手元にあったら私でも見てしまうと思います」
 鏡でも見ているみたいに、お互いが同じようにバツの悪い顔をしている。するつもりの無かった告白をしてしまった彼女の方が深刻そうで、このままにしておいたら壊れた蛇口の如く延々と謝罪を垂れそうだったので、中也は手紙の趣旨を問うてみた。
「未来の自分へ手紙を書いてみようっていうのを雑誌で見かけて。死なないための動機は多い方がいいなと思ったんです。過去の自分からの手紙って何となくわくわくしませんか」
 暗い表情から一転して照れの色を浮かべながら笑う彼女に、中也は静かに頷いた。どんなに些細なきっかけでもいい。生を手放さないという気持ちは大事だ。
「ナマエ」
「なんでしょう」
「全部叶って好かったな」
 死なないための動機に自分も入っている。その事実を咀嚼した瞬間、殊更優しい声音が出て自分でも驚いた。
「ぜん、ぶ……?」
「もう用は済んだろ、とっとと仕事戻れ」
「え? まって中也さん、全部ってそれどういう」
 いつからか、なんて判らない。どんなに仕事で忙しくとも、ふとしたとき僅かな思考の隙間を見つけては、彼女が今何をしているのか考えてしまう。心に生まれる淡い熱の消し方を探したこともあったけれど、結局消せなかった。
「新しい目標立てないとだな」
 返した封筒を大事そうに胸元で持つ彼女へ顔を近付ける。同じ香りを放つ封筒は、彼女の一部みたいにすぐ馴染んだ。
 戻らないなら触れてもいいか、と目で許しを請えば、中也の答えを彼女もまた咀嚼して嚥下し、やっとのことで頷き返す。
 首まで赤くなっているその様が、あまりにもいじらしい。
 共に築いてきた時間の年輪はたまに削られながら、これからも厚みを増していくのだろう。
 不確定な未来へ思いを馳せることを執着と呼んだっていい。今を生きる理由になるなら。