崖から飛び降りるような気持ちで「折り入ってご相談が……」と昨日中也さんに打診したら、「明日なら」と返ってきた。つまり今日。
 ソファに座っている彼の頭を挟むようにして、両手をそれぞれ背もたれに掛ける。彼の膝の間に己の膝をついて、より一層体を近付けた。
 すっと鼻腔に入り込んでくる二つの香りは喧嘩することなく調和していて、私の羞恥を煽ってくるようだった。香水ならいざ知らず、恐らくシャンプーだろう香りから彼の生活を想像してしまいそうになる。口を閉じ、そんな思考を戒めるように内側から頬の肉をぎゅっと噛んだ。
 室内という水槽を満たす沈黙と感情の読めない彼の目が、私の次の挙動を待っている。
 一時間くらいなら話を聞ける、と都合を付けてもらい今に至るわけだが。
「あ、う……顔が! 無理!」
「……急ぎの用件かと思って時間作った俺に随分なこと云ってくれンじゃねぇか」
 耐えかねて顔を上に向ける。蟀谷こめかみをひくつかせる彼から素早く体を離せば、ぐるぐると空回りしていた思考が落ち着いていく。
 今までは標的ターゲットに接触せず遂行できる任務が主だった。だが今回は、欲しい情報は標的の脳内におさまっている。警戒心という第一関門を突破してから引き出しを開けさせなければならない。急浮上した可能性に内心で歯噛みした。知識は豊富にあるが色仕掛けの経験が無い。もしそういう雰囲気になったとして、いきなり本番で上手くいくとも思えなかった。せいぜい手を絡ませてしな垂れかかる、くらいで終わらせたい。接吻だってしたくはないが、状況によってはそれ以上もあり得る。私情を介在させる余地はなかった。
「首領と紅葉さんから、『その辺の男で練習するよりは、中也君との一度の練習の方が格段に質も好いし飛躍的進歩に繋がるよ』って云われまして。もっと耐性をつけるべきだと」
「そんなご推薦ちっとも嬉しかねぇよ」
「経験豊富だからじゃないんですか?」
「豊富なわけあるか!」
「え……もしかして」
「もういいだろ! そこんとこ掘り下げんじゃねぇ! 続きやるのかやらねぇのかはっきりしろ!」
 二人の推薦だからというのもあるのだろうが、柳眉を逆立てていても彼は結局練習に付き合ってくれる。いくら声が荒波のごとく飛沫を上げようとも、本気で怒っているわけではないので平気だった。
「つかよ、んな体たらくで大丈夫なのか?」
「中也さんに慣れてたら、標的なんて芋にしか見えないから大丈夫ですよ」
「芋ってお前……先刻俺の顔無理って云ってただろ」
「ああ、あれは『格好よすぎて』って意味です」
 嫌悪と勘違いさせてしまっていたのを訂正すると、彼は鳩が豆鉄砲を食ったようにきょとんとした。丸く見開かれていた目が私の言葉を噛み砕くようにすぅ、と細まっていく。
「……何だ、相手を喜ばせる言葉知ってんじゃねぇか」
 コインの表裏をひっくり返したみたいにがらりと彼の雰囲気が変わった。口端が上がり、彼の手が伸びてきて私の右手首を掴んだかと思えば腰にも回される。驚く間もなくソファに座らされ、私の視界は彼一色になった。頭の両側に置かれた手が檻のように私を囲んでいる。
「あ、あれ? 私仕掛けられる側ですか……? え?」
「どうすンだ、こんな風に迫られたら」
 形勢逆転だな、とでも云いたげな顔で彼が挑発的な笑みを浮かべている。仕掛けるには仕掛けるが、必ずこちらからアクションを起こすわけではない。彼の云うように相手から迫られることも念頭に入れておくべきだろう。あくまでもフリとはいえ、いきなりの練習再開に私の頭は混乱をきたしていた。
「急所を蹴り上げます!」
「うん、まァ……間違っちゃいねぇけどな? 情報聞き出すのが先だろ」
「そ、そうでした! 情報を聞き出してから急所を思いっきり蹴り上げます!」
「如何あっても蹴り上げるってか。穏便に済ませられるならそれに越したこたァ無ぇけどよ……危機意識持ってる方がまだ善いか……」
 蹴り上げていい筈はない。夜に身を溶かすように消えなくてはならないのに、禍根を残してどうする。その後の処理が面倒なだけだ。私の微妙な返答に無理やり点数を付けようとしてくれるのだから優しいなと思う。
 この場合、どうするべきなのだろう。私も何かしら相手の情欲をそそるような行動をしなければならないのに、てんで頭が働かない。また香水とシャンプーの匂いが近くで香る。
 檻の一つが外されて私の左頬へ宛がわれる。皮手袋のしっとりというかぺたりというか、人の皮膚とは違う感触に意識が持っていかれる。皮膚に引っ掛からないようにと加減された力で、彼の親指が頬を撫でた。緊張で強張った私の表面から混乱という膜を剝ぐみたいな動きだった。
 彼の顔がゆっくりと降りてきて、右耳のすぐ傍で止まる。
「あのなァ……されるがままだと練習になんねぇだろ?」
「そ、それはそうなんです、けど……その、どう、応戦? したらいいか判らなくて……」
「怖ぇか?」
「ちがい、ます……だって前に練習付き合ってもらったときは、ちゃんと、」
「……俺が最初じゃねぇのか」
「え?」
 黒雲のように重たい声が首にまとわりつく。また、雰囲気が変わった。コインの表裏なんてものじゃなく、色が変わったとか材質自体が変わったとかそんな感じだった。
「そいつとは何処まで練習した?」
「肩に手を置いて、顔を近付けて接吻キスするふり、まで、です」
 ちゃんと出来たか? と右耳を支配するその声が問う。努めて平淡であろうとするような声音の尾から、ビリ、と小さな稲光が走った気がした。ちゃんと出来ました、と云ったけれど声が出ていたか定かではない。
 不思議だった。彼相手だとどうしてこんなに緊張してしまうのか。前回と同じようにさらりと仕掛けられると思った。一度実践を経ているから、と高を括っていた私は馬鹿だ。だって相手は五大幹部に名を連ねているひとなのだ。その人から発される何かに気圧されたのかもしれない。でも、それだけじゃない。喉に小骨が刺さったような違和感が拭えない。
「怖くねぇのにちゃんと出来ねぇってんなら……相手が『俺』だからか?」
 思わぬことを云われ、目を瞬いた。左頬から彼の手が離れて、二の腕を伝い手の方へ降りていく。
 彼は上司だ。心の底から尊敬している。敵を薙ぎ払う無類の強さに憧れてもいる。たまに食事に連れて行って気晴らしさせてくれるところ。私の様子がおかしいと感じればさりげなく声を掛けてくれるところ。どんなに忙しくて荒んだ顔をしていても、私の名前をぞんざいには呼ばないところ。好きなところを列挙しだしたらキリが無い。
 同じく部下である同僚と練習をしたとき、彼が云っていた言葉もずっと引っ掛かっていた。『確かに幹部は優しいが、ミョウジには特に目を掛けている』『練習相手になってるなんてバレたら自分は殺されそうだ』と。どうして殺されるの? と問い返せば『本当に判らないのか』とわざとらしく肩を竦められた。
 中也さんだから、周波数がなかなか合わないラジオのように、こんなにも思考を乱してしまうのだろうか。
「こういうのは考え込んだって答えは出ねぇ。……俺に近付かれるのは嫌か?」
「い、いいえ」
「嫌じゃないならどこまで近付いてもいいか、触れても大丈夫か、直感に従え。手を握るのは?」
 するすると降りてきた彼の手が、私の指と指の間を埋めていく。手のひらも隙間なくくっついて、私はぎゅっと目を瞑ったと同時に彼の手を握り返した。
「だい、大丈夫、です」
「抱き締めるのは?」
 間髪入れず次の確認が入る。繋がれた手はほどかれず、すとんと私の横に腰掛けた彼によってふわりと抱き締められた。
 頭に銃口を突きつけられたときが人生で一番心臓がうるさかった。だが今は、それを凌駕するくらいのうるささで脈を打っている。彼と私の間にあった空間がゆっくりと押し潰されて手のひら同様、体もぴたりとくっついた。
「大丈夫、です」
 譫言のように言葉を紡ぎながら、彼の体温が波のように意識に覆いかぶさってきて、急に呼吸が下手くそになった。彼の髪の毛が鼻先にあたる。次に確認されるのは、何だろう。くっついていた体が離れ、繋がれていた手もほどかれる。俯いたままの私の顎を掬うように、彼が問いを口にする。
「……接吻は?」
 フリの筈だ。と、傾きそうになる意識を立て直しながら、彼を見た。だんだんと焦点が合わなくなる。唇と唇の間が限りなくゼロに近付いていく。大丈夫かどうか答えようと口を開いても、ぶつからないよう身を引こうと僅かでも身じろぎをすれば触れてしまう、そんな距離まで。
 同僚の彼とのときとは比べようもなかった。心の中で感情が乱雑に散らかっている。
 彼の吐息が唇にかかって、八方塞がりだと観念した私は息を止めた。だってそうしないと、私の吐息が彼の唇にかかってしまうから。
 『大丈夫』も『嫌じゃない』も適切じゃない。
 私が息を止めたのが判ったのだろう彼が、ゆっくりと体を離した。
「ははっ、初めて見た。手前が真っ赤になるとこなんて。……仕舞いだ。練習になったかどうかは定かじゃねぇが」
 自分が赤面していることさえ気付かなかった。二の句も継げず、体が離れて漸く理解する。ぐつぐつと煮立った鍋のようで、熱さはすぐには引かない。
 隅から隅まで散らかって初めて、隠れていたのだろう感情が姿を現した気がした。
 むしろ私はあの先を『望んでいる』。これが最後の問いに対する答えだった。
 今度こそ本当に練習はお仕舞なのだろう。見えない壁でも隔てているように、彼が私へと触れてくる気配は無かった。
 立ち上がった彼はポールハンガーから外套を取って羽織る。
 こちらを振り返った顔からは、明かりを落としたように笑顔が消えていた。
「……正直云って俺以外の奴と練習したのは気に食わねぇ。任務で仕掛けなきゃならねぇのも複雑な気分だ。けど……自分のことを棚に上げて、俺が云えることじゃないのも判ってる。……それにこれは仕事だからな」
 挟んではならない私情をてらいもなく私にぶつけてくる。首領に忠誠を誓い、組織に属するものとして仕事を何よりも優先するのは当然だ。
「もう一度聞く」
「は、い」
 あやふやなまま、見逃してはもらえないようだ。弓に矢をつがえてキリキリと引き絞る。
 そして、放たれる。
「相手が『俺』だからか?」
 私の中で密やかに結晶化していた好意はまるで氷砂糖のように甘く光る。彼によって与えられた熱が皮膚を通過して伝わる。じわじわと溶けていくそれに口付けるように、彼は凄艶さと勁烈さを同居させて、再び笑った。
「そうだっつったら、もう遠慮はしない。手前が自覚してようがなかろうが。ここまで煽られて黙ってられるタマじゃねぇンでな」
 私を捕まえるように彼の目が細まっていく様が好きだと思った。
 手を繋ぎながら抱き締められたあの短い時間は確かにもう過去のことだけれど、高解像度でちゃんと思い出せる。
 小さなひとつぶのルビーみたいな、奥底で縷々として燃え続けるこの温度を、私は生涯忘れないだろう。