執務室を訪ねたら上司がソファで横になり、うたた寝をしていた。よく磨かれた革靴がすましたようにツンと天井を向いている。顔には光を避けるように帽子が乗せられていた。控えめなクラシックでも聞こえてきそうな優雅な午睡だった。
 奥にある仮眠室で寝ないのは珍しい。そこまで行くのも億劫だったのだろうか。起こしてしまわないよう、カメラのレンズを絞るように足音と気配を最小限にする。
 耳を澄ませば規則的な寝息が聞こえた。何か掛けるものを、と思ったがわたしのジャケットくらいしかない。仮眠室に許可なく入る選択肢も消去。寒くはないから、世話を焼くことも無いだろう。急ぎの用事ではないので、また時間を置いて訪ねることにした。
 ゆっくりと上下している彼の胸を見ながら、これだけ熟睡していれば帽子を取ってもバレないのでは、と思った。そう思った時にはもう、わたしの思考は悪戯心に支配されつつあった。
 上司の寝顔を見られる千載一遇のチャンスを棒に振るか、バレて激怒されるか。
「……」
 扉の方へ向けていた足を方向転換し、息を止めてわたしは帽子に手を伸ばした。激怒に関しては耐性があるため、あっさりと好奇心の方へ秤が落ちる。
 尖った表情の割合が圧倒的に多い彼の、感情という服を脱いだ寝顔はどんなふうなのだろう。
 ごくりと生唾を飲み込む音でさえ五月蠅いと感じた。
 彼へ近づき、身を屈める。そろりと伸ばした手が帽子を掴む。スローモーション再生の映画のように帽子を持ち上げる。あともう少し。そして。
「ひっ……‼」
 ガン開きした彼の青眼がこちらを見ていた。ちょっと驚かせようなんて軽々しいものではなく、虚無が質量を持ってわたしを弾劾でもするかのようだった。
 持ち上げた帽子を勢いよく顔面へ返却する。勢いが良すぎて彼の顔の上で帽子がペシンと僅かに跳ねた。
「ってぇな! コラ!」
「起きてるなんて普通思わないじゃないですか! 怖すぎです!」
「無遠慮に人の寝顔見ようとすっからだろ!」
「大変申し訳ありませんでした!」
 出会いがしらに手榴弾でも投げ込まれたみたいだった。心臓が体の中で暴れ回っている。素直に謝罪するどころか、半ば叫ぶように言葉をぞんざいにぶつけてしまった。
「ぷっ、お前の驚いた顔傑作だったぜ」
「寝息の演技までしておいて、それは性格悪」
「あ?」
「くもなくもないです」
「悪ぃんじゃねぇか」
 緩やかに上下していたあの胸は彼渾身の演技だった。あそこがわたしの運命の分かれ道だったらしい。ちょっとしたスリルの後に待っていたのは、ホラー映画さながらの展開だった。
「怒っちゃいねぇよ。俺も試すようなことしちまったし。真逆本当に引っ掛かるとは思わなかったけどな」
 わたしの態度に気を悪くした様子もなく、彼はソファから身を起こし思い出し笑いをしながら、愉快そうに声を立てる。虚無を貼りつけたあの目に付加された謎の迫力。夢に出来てきたらどうしてくれる。軽くトラウマものだ。
「次はちゃんと寝ておいてやるよ」
「もう引っ掛かりませんので!」
「如何だか。手前は付け入る隙が多すぎる」
 わたしがそっぽを向くのに合わせて、髪が不貞腐れたように揺れる。
「……今だって俺に何の警戒心も持っちゃいねぇ」
 やけに真剣みを帯びた声に振り向こうとしたとき、手首を掴まれ引き寄せられた。もう片方の彼の手が、わたしの髪をひと房掬ってゆるく握る。
「もし次また俺の寝顔拝もうってなら、気を付けろよ」
 わたしの落とした影が彼を覆い、青眼にグレーが混じった。爛々とした光が目の奥で牙をちらつかせる。
「好奇心は猫をも殺すって云うだろ?」
 謝罪も許しも受け付けねぇ。云い逃れごと全部喰ってやる。
 彼の口は開いていないのに、警告じみた低い声がそう云っているのが確かに聞こえた。
 二度目の化かし合いを制するのは、いったいどちらだろうか。