馴染みの店に顔を出したけれど、購入しようか迷っていたバイクが売り切れていた。
 縁が無かったと自分に言い聞かせるも、落胆の気持ちが消えないまま帰途に着く途中だった。
 太陽から隠れるように影に入り、店のドアをくぐろうとしている人物にふいに目が止まる。そこだけ風景が切り取られたみたいに。
 そしてそれが誰かを認めた瞬間、服の裾をついと引っ張るような声が出てしまった。
「お」
「あ!」
「よう」
「お久しぶりです中原さん!」
 風に攫われれば消えそうなくらいの声量だったと思う。発したのも母音で、独り言だと聞き流されてもおかしくないのに、彼女は中也の声を拾い上げて、パッと嬉しそうな笑顔を灯してこちらへ歩いて来た。
「相変わらず忙しそうだな」
「中原さんこそ。珍しいですね、今の時間帯にこの通りにいるの」
「今日は仕事じゃなくてプライベートだ。欲しい物があったんだが、売り切れちまってた」
「それは残念でしたね」
「仕事だったんだろ。邪魔しちまったな」
「いえ、ただの買い出しですのでお気になさらず」
 斜陽が彼女の顔にかかって、上から光でなぞったみたいに髪や顔の輪郭が淡くなる。瞬きするたび睫毛から光の粉でも舞いそうだった。眩しそうに目を細めている彼女から太陽を隠すように、つとめて自然に移動する。
「うちの社長が森さんと会いたがってました。お酒の美味しいお店を見つけたらしくて。宜しければ他の皆さんも交えて食事でも、と申しておりました」
「首領に伝えとくよ。お互い忙しいから中々予定合わないんだろうな」
「仕事を恋人にした覚えはない、って毎日嘆いてます」
「ははっ、またそのうち世話ンなると思う」
「いつも御重用いただきありがとうございます」
「嘆きに磨きがかかるかもな。アンタんとこの情報で間違ってたことは一度もねぇ。首領が信頼するだけはある」
「勿論です! 全国飛び回って体張ってますから」
「程々にしろよ」
 得意げな顔をしながら、茶目っ気たっぷりに力こぶを作って見せる彼女に笑みがこぼれる。
 だが、こぼれた笑みは彼女の左手薬指にある物を見て凍り付き、瞬く間にボロボロと崩れていった。
「なァ、アンタ相手居ねぇって云ってたよな……?」
 心が氷点下にまで下がる。気付けば中也は彼女の左手首を掴んでいた。
「何でだ」
 ここ数ヶ月仕事で忙殺されている間に、気になっていたひとの薬指には、いつの間にか真新しいシルバーリングが鎮座していた。その輝きを今すぐにでも曇らせてしまいたい。最近結婚したっていうのか。
 こちらの好意は隠していたとはいえ、あまりの衝撃にバイクへの落胆は吹き飛んでしまった。
 彼女の手首を締め上げないようにと、加減をすればするほど、眉間に深い谷のような皺が刻まれる。苛立ちと焦燥で歪んだ視界には、訳が分からないという表情をした彼女が映っている。
「中原さん、どうかされましたか……?」
 奥歯を噛み締めて何も発さない中也の視線の先を辿って、彼女はもう少し踏み込んだ疑問を口にした。
「えっと、ゆび……?」
「……」
「わー!! あの、違います、これは今日仕事で使った物で!」
 失態だとでも云うように、彼女は慌てふためいてそれを外そうと躍起になる。
「仕事ってどんな」
「夫婦を演じなきゃならない場面があったんです! うっかり外し忘れてました……」
 相手がいない、という以前得た情報から更新はされていないことに安堵した中也は、肺が空っぽになるほど息を吐いた。
 手首を離さない中也にただ困惑しているだけの彼女の目を見詰める。この様子だと、まだ恐らく伝わっていない。
 手首を握る手から力を抜いて、今度は添えるように優しく彼女の手を自分の手の上に置いた。そして、指輪をゆっくりと外していく。
「え、あ」
「紛らわしいモン着けたままにしてンなよ。心臓に悪ぃだろ」
「す、すみません……?」
「先刻の食事の誘いだが」
「は、はい」
「それとは別に、アンタ個人を誘うのはアリか?」
「へ?」
 思わず脱力してしまいそうな返事。まだ、伝わっていない。ガードが固いというより、こういった感情に対してアンテナが鈍いのだろう。
「アンタを他の誰かに取られちまうのは、御免だからな」
 冷えた心臓に温度が戻って、一度は摘まれたと思ったそれが、再び根を広げていく。
 じんわりと熱を帯びた彼女の頬と耳が、中也の意をやっと理解したと示している。
 はっきりと真っ直ぐに、障害物なんて蹴散らすように言葉を届ける。
 ようやくお互いスタートラインに着いた。うかうかしていた心を引っ掻き回し、火を点けてくれた指輪を彼女へ返して、中也は挑戦的な笑みを浮かべた。