真昼の光を背負っているのに、その人は確かに夜陰を思わせた。月が揺らめく湖畔の青のような怜悧な目に捉えられたとき、心臓が一瞬拍動を止めたかと錯覚した。そして視覚以外の五感が停止した。ただひたすらにその人の存在を心へ刻み付けるように。

 毎月十五日の午後一時に来社する人がいる。その人について知ることはタブーなのだろうと察しが付いていた。名前を聞いても「約束してる者だ」としか云わないし、内線すれば社長自らが重い体を揺らして揉み手をしながら現れるからだ。
 個人経営の会社だから社員は少ない。大手企業のように受付嬢がいる訳もなく、来客があれば私か同僚である彼女が応対していた。その日も同じように真っ黒な外套を靡かせ、革靴がカツンと無機質な音を立て来訪を告げる。彼にかかると、くすんで草臥れた床が大理石にでもなったかのように、その場の空気も景色も一変する。
「少々お待ちくだ」
「ご案内いたしまぁす」
「あの、社長に確認を」
「いらしたらご案内するように云われてるのでぇ」
 間延びした話し方が癇に障る。生理的に受け付けない。黒板を爪で引っ掻いた音を脳内で再生してしまい、鳥肌が立った。社長のお気に入りである彼女は勝ち誇ったように私を見て立ち上がる。私達のやり取りを興味なさげに聞き流しながら無言で佇んでいた彼を、普段より数倍きびきびとした動きで客間へと誘導していった。
 彼女の真意に気付いて辟易する。彼とお近づきになるために、社長に頼んで毎回のお茶出しだけでなく、今回は案内役も買って出たのだろう。浅慮な思惑が透けて見えることをみっともないと毛ほども思っていないらしい。自分ならば落とせると自負している。こてんぱんにされればいいのに、と意地の悪いことを思いながら、かかってきた電話を取った。
 戻ってきた彼女の顔色は正直云って心配になるレベルだった。力なく腰掛け、膝の上で握り締められた両の手は寒さとは別の理由で震えている。不快なものに一刺して溜飲を下げるような、軽口めいたあれが呪いにでも転じてしまったのだろうかと狼狽えてしまうくらいには。
 電話はひっきりなしに鳴っていて、丸投げ専門の上司からはかぼそい声で進捗を尋ねられている。とりあえずこれは聞こえないふりでいい。電話も私が取らないと判れば、暇そうにしているお局様が取るだろう。馬が合わないからと放っておくことは出来なかった。
「何があったの」
「……える」
「え?」
「帰る……これ……渡して、おいて」
 芯を抜き取ったように声に力が無い。震える手で取り出した辞表を私に押し付けて、彼女は私物を鞄に詰め込んでいく。そして、全容に触れることを許さず、只事ではないという事実だけを残しフラフラとした足取りで会社を後にしてしまった。
 引継ぎも無しにいきなり辞職を願い出た彼女の分の仕事も捌かねばならず、無粋に憶測も出来ない程忙しかった。
 パソコンと睨めっこをし過ぎて目が痛い。目薬を差そうとしたとき、視界の端で黒が翻る。彼だ。
 好き勝手に振る舞っていたものたちが整列するみたいに空気が引き締まる。何も聞いてはならないと不文律として定めていたのに、私の口は恐れ多くもそれを破っていた。
「あの」
「何だ」
 威圧、威嚇、拒絶。恐ろしいまでに澄んだ感情が私の口を封じようと矛先を向けている。けれど震えあがるような恐怖は感じない。
「彼女が何か粗相を……?」
 これだけは確認しておかねばならないと思った。彼女がもし失礼を働いていたとしても謝罪はしていないだろう。普段から自分の非を認められない人だったから。
 ナイフのように尖っていた目から剣呑さが消え、私の質問が意外だったとでもいうように彼が目を見張る。
「あー、その……茶が」
「お茶、ですか?」
「最初は御宅の社長が淹れてたんだが、飲めたもんじゃなかった。んで代わりに淹れて貰ったそれも渋くてよ。要らねぇってつっても聞きやしねぇ。変に押しが強えっつうか」
「それは、申し訳ございませんでした……!」
「まァ、茶だけじゃねぇんだけどな」
 二人してやらかしているにもかかわらず、それを許容している彼の心の広さを知る。他にも何か――きっとそれが只事ではない事情に直結している――と、開こうとした口は「そのうち判るだろうさ」と未来を見るように視線を遠くへ飛ばす彼を見て閉ざすしかなかった。
「そうだ、今度からアンタが茶淹れてくれねぇか?」
 刺すような冷たさから一転して、委縮した私を気遣うように雰囲気を緩くほどいた彼に、今度はこちらが目を見張る番だった。徹底して拒絶するかと思えばそうでもない。けれど踏み込ませはしない。
「美味いの頼むぜ」
 見送りは要らない、と後ろ手に手を上げて去っていく背中に、「よく、判らない人だ……」と無意識に独り言を溢していた。

§

 私が淹れるようになってから今日で四回目を迎える。
 最初より緊張しないとはいえ、失敗は許されないという強迫めいた思いは消えないままだ。今まで通り淹れればいい。渋いと云われたことは無かったし、自分で飲んでいても渋いとは思わなかった。帰りがけに「美味かった」と及第点を貰ったこともあるのだから大丈夫だ。
 ドアをノックすると電源を落としたみたいに会話が止んだ。
 沈黙の中、溢さないよう注意を払いながらお茶を置く。
「ふっ」
「えっ」
 じっと無表情で私の手元を観察していた彼の表情がにわかに崩れて、固い沈黙を柔らかくする。
「なァんか嬉しそうな面してんなと思ったら、茶柱が立ってたからだと思ってよ」
「す、すみません……顔に出てたなんて」
 心の中で密かに得意げになっていたのがバレて顔が火照る。社長にもお茶を出して早々に退散した。
 給湯室へ戻ってお盆を置くと、体から一気に力が抜けてしまった。座り込みながら先程の彼が見せた笑みを思い出す。言葉を掛けてくれるようになっただけでも嬉しいと思っていたのに。表情をしっかり見られていたこと、その理由に気付いてくれたこと、以前とは違って拒絶するような目をしなくなったこと。
 知るほどに変化して膨らみ、色付いていくこの気持ちに戸惑うばかりだ。
 反芻するように目を閉じる。人好きのするあの笑顔をひとたび見せられてしまったら、皮膚が凍てついてしまうような冷たさにはもう耐えられないだろう。
 席に戻り、雑念を振り払うべく仕事を片付けていく。彼女が辞めてから暫くは残業続きだったが、最近漸く落ち着いてきた。
 領収書の束を見ながら、そういえば経費が減ったな、と今更ながら思った。そして、以前の彼の言葉が疾風のように駆け抜けて私はあんぐりと口を開けてしまった。経費が減った時期と、彼女の辞めた時期が合致していた。考えたくもないがその仮定はきっと合っている。一時窶れていた社長の頭を殴りたくなった。
 名前だけでなく、この会社との関係性も知ってはいけないのだろう。小さな会社にしては給料は高い方で、取引先もどことなく訳ありな感じがする。
 客間のドアが開く音がして、彼と社長の声が聞こえる。考えては駄目だ。何も知らないまま入社した私でいるべきなのに、思考するのが止められない。
「今日の茶も美味かったぜ」
「あ……ありがとう、ございます」
 前回同様、感想を伝えてくれた彼に云い淀んでしまう。すぐに去ってしまうのに彼は思案顔になったあと、「見送り頼めるか」と親指で出入口を指し示した。
 外に出れば黒塗りの車が、彼の帰りを待っていたかのように会社の目の前に停まる。
「……俺のことを知りたいと思って貰えンのは光栄だが、これ以上アンタの興味が育っちまう前に云っとく」
 降り注ぐ光を根こそぎ吸収してしまうような黒を纏う彼が振り返った。その目に映る私は、情けない顔をしているんだろう。
「深入りはよせ。……それにな、自ら進んで悪ぃ男に引っ掛かるこたァねぇよ」
 諭すような優しい言葉で境界線を引かれて初めて判った。
 月に一回だけ会える人。少ないやり取りの中で増えて行く彼の好きな物たち。時折見せる笑顔。心臓をやすりにでもかけたみたいだ。痛い。喉がひりつく。
「ごめんなさい……」
「……」
「もう、好きになってしまってたんです」
「……そこで謝んのかよ」
 好意を大義名分に、安易に踏み込んではならない世界が昏い口を開けている。
 何も悪くない筈の彼は、一夜だけの夢をと願う私の心も見透かして、眉をこれでもかというくらい下げている。どうやったら諦められるのだろう。
 縋ってしまいたかった。
 思い出にさえできないこの恋の終わらせ方を、どうか教えてほしいと。