出会った当初の『十五歳』という年齢だけで見れば、男の子という表現をするのが自然だっただろうけれど、躰の真ん中に一本の強靭な芯を宿している青い鋼のような目には似つかわしくないなと思った。太宰くんとよく云い合いをしているところを見れば、年相応の少年にも見えたけれど。
「紅葉、この後は二件会合が入ってる」
「爺共の機嫌取りになぞ行きたくはないが仕方ないのぅ。早く代替わりすればよいものを、なかなかしぶとくてかなわぬ」
しゃなり、と髪を飾る紅い紐が揺れる。着物の衣擦れの音さえ艶やかで、伸びた背筋からは気品が香る。
光を浴びて廊下に溶けだしたステンドグラスの色の海を優美に進んでいく彼女の口からこぼれた悪態は、音も無く吸い込まれた。
上司であると同時に、姉のような存在でもあり、気の置けない友人でもある彼女の補佐をずっと務めている。
傍に居たから判る。憎悪と悲哀だけが感情の全てだった彼女のこと。わたしに分けてはくれなかったけれど、抱き締めることを許してくれたこと。間接的に死ねと云っている彼女の言葉を宥め諫めるわたしの反応を見て、鈴を転がすように笑う。組織の変遷を思うと、彼女同様わたしも今のポートマフィアが好きだった。
「姐さん、ナマエさん」
ビロードのような手触りの滑らかな声に名前を呼ばれて、彼女の横顔に注いでいた視線を正面に向ける。溢れかえる色彩の中で、そこだけがぽっかりと黒で塗りつぶされているみたいだった。
「すれ違いにならなくて佳かった。お二人にお渡ししたい物があったんで」
「毎度毎度健気よのぅ、中也。私が仲を取り持つことは無いと判っているであろう?」
「何のことですか、姐さん」
仕事で県外へ赴くと彼はこうしてお土産をくれる。相手が負担に思わない程度の頻度で。含みのある物云いの真意を探ろうにも情報が不足していた。彼女の言葉をひらりと受け止めて、卒なく流す彼には心当たりがあるらしい。堂々と置いてけぼりを食らっているが、二人の間に割って入ることは躊躇われた。水面下で応酬でも繰り広げているのだろう。潜れば見えないこともないんだろうか。
「どうぞ」
「ありがとう、中也くん」
京都から帰ってきたばかりの彼から、滲み絵が描かれた和紙でくるまれている小包を受け取る。その柔らかな色合いにほぐされたように頬が緩んだ。彼女も彼から包みを受け取って、透視でもせんばかりに手元をじっと見詰めている。
そんな彼女の前に彼が突き立てたもの。それは捉え方によっては姿を変える多義図形のようにも感じられた。
「欲しいモンは自分の力で手に入れますよ」
宣戦布告のような、手扶けは不要だと告げているような、はたまた切り拓く決意の表れのような。込められている本物の意味は彼にしか判らない。
「やって見せよ、とも云ってはやらぬ」
「手厳しいこって」
帽子を被り直しながら彼が苦笑する。二人の顔を行き来して事の成り行きを見守るわたしをよそに、会話は終了したようだった。
わたしの後ろに回った彼女が肩に手を置いて歩みを促す。何も云わず立ち去るのは、と通り過ぎざまに横を見た。流し目で寄越された蜜を含んだ視線に当惑する。また、その目。微笑む口元が殊更惹きたてて、わたしの四肢を縫い留めようとする。
止まりそうになる足はしかし、後ろから押される力によって止まることはない。縫い始めの糸を引きちぎるように、彼女とともにその場をあとにした。
§
わたしを見る彼のまなざしは、いきなり変わったわけじゃない。ゆっくりゆっくりと時間をかけて移ろう夏の夕暮れみたいに彩度や濃淡を変えていき、あるときふと、そのことに気付いたのだ。
積み重なる時間とともに増すその重さに怯むこともなく、組織になくてはならない存在にまでなった彼の大きさというものを、そのとき初めてわたしは理解した。
年下扱いはもう卒業してください、と云われたような気がした。
彼から貰ったお土産を開封できたのは五日後だった。楽しみも焦らされれば、忙しいことに対してのいらつきに変わってしまう。夜になってやっと一段落し、執務室へ戻ってすぐ引き出しからそれを取り出した。和紙を破かないよう、注意しながら包みを開いていく。
中から出てきたのも、和を彷彿とさせる絵が彫られた木箱だった。木のいい香りに目を細めながら蓋を開ける。
「きれい……」
小さなキャンバスを彩るための小瓶には、季節を思わせるような和の名を冠すこっくりとした鮮やかな色がぎゅっと詰まっていた。嬉しさのあとにじわりと驚きが湧き上がってくる。わたしが欲しいと思っていた色。同じブランドのハンドクリームも入っていて、彼らしい細やかな気遣いに心があたたかくなる。
話したことあったかな。でもわたしが稀に爪へ色を施すことを彼は知っているから、たまたま選んでくれた色がそうだっただけかもしれない。偶然でも、嬉しいことに変わりはない。
家に帰ったらさっそく塗ってみようと、マニキュアを木箱に戻してバッグへ入れる。その前に寄らねばならないところがあったのを思いだして溜め息が出そうになったが、せっかくの気分を下げたくなかったので肺の中に戻した。
お店のドアを開けると、見知った背中が三つカウンターに並んでいた。
「君も一杯飲みに来たのかね?」
「ナマエさん、お疲れっす!」
「広津さん、立原くんお疲れ様です。いえ、今日は頼んでいた物を受け取りに」
「そうか」
このバーで受け取る物は『情報』と決まっている。理由を察した二人は、また自身のお酒に口を付け始めた。
「ええっと、中也くんはもう……?」
「つい先程、突っ伏したところだ」
三つ目の見知った背中は、カウンターに上半身を預けており、その背中は息を吸う度なだらかな山を作り、吐く度平らになるのを繰り返している。広津さんと立原くんは、幹部のおもりもなかなかに大変だ、と呆れたように笑っている。
彼の横へ行き、店主に声を掛けた。「少々お待ちください」と云って奥へ消えていく。戻ってくるまでの間、立っているのもあれなのでそのまま腰を下ろした。
すぴー、と効果音でも聞こえてきそうな安らかな寝息。腕に額を付けて寝ているので残念ながら顔は見えない。
飲みかけのお酒は汗をかいている。あまり強くない話は聞いていた。実際に酔い潰れているのを見るのは初めてだ。彼を挟んで広津さんたちと談笑していれば、奥から店主が戻ってくる。封筒を受け取るまでが今日の仕事だった。リセットされて、明日にはまたタスクの数字が膨らむだろうけれど。
眠りの沖へ漕ぎ出している彼には聞こえないと思いつつも、「またね、中也くん。程々に」と耳に口を寄せてそっと声を掛けた。
「それじゃあ、わたしは失礼しま――」
す、と最後まで言い切ることが出来なかったのは、わたしの腕を誰かが掴んだからだ。「え、」と思わず出た声が疑問の形を取るより早く、わたしの体は彼によってホールドされていた。腰周りに腕がぐるりと巻きついて、お腹のあたりに彼の顔が埋まっている。
「ち、中也くん!? あの、いつ起きて」
「ナマエ……? こいつァ夢か?」
座ったまま顔を上げた彼が、こてんと首を傾げてわたしの名前を呼んだ。普段は絶対さん付けで、敬語も崩さないのに。酔っているからだろうか。それにしても、こんなタイミングで起きるなんて信じられない。
広津さんと立原くんも目を剥いている。
「ゆ、夢じゃないよ。ちゃんと現実。ほら」
幼子をあやすように両手で彼の頬を包む。下手に逃げようものなら、腕の力が増すと思ったからだ。ぽけ〜と漂うような表情からさらに力が抜ける。
「ふ、あったけぇな。ナマエの手」
ふにゃ、と嬉しそうに笑った彼の笑顔に思わず心臓が縮こまった。逃げないと理解したのか、彼は腰に巻きつけていた腕を解いてわたしの手を握る。「……まだ、塗ってねぇか」と、少し残念そうに指先へ視線を落とす彼の云わんとしていることが判って、慌てて言葉を繋いだ。
「お土産ありがとう。わたしの好きな色だった。それに、欲しいなってずっと思ってた色だったの。すごく嬉しかったよ。大事に使うね」
「前に姐さんと話してるの聞こえちまって。そんで、それにした。俺がアンタに塗ってほしい色にしようかとも思ったけど……アンタが欲しい色の方が、喜んでくれると思ったんだ」
ふわふわとしている意識の中で、彼が訥々と語った理由に心臓が軋んで苦しくなる。彼の好きな色をわたしに着させたかったこと。彼がわたしに似合うと思って選んだ色も知りたいと思った。最終的には、わたしの好きな色を選んでくれた彼はどこまでも相手のことを想えるひとだ。
とろりとした目で彼がじっと見詰めてくる。
「どうしたの……?」
「何でそんなに可愛いんだ?」
「へ?」
なんの脈絡もない、突然の褒め言葉にたじろいでしまう。
「笑ってるとこは特に可愛い。驚いてる顔も困ってる顔も怒ってる顔も……怒ってンのは見たことねぇが……泣いてる顔、は出来れば見たくねぇ」
勿論彼に攻撃の意図はないわけで、だが別の意味でダメージを受けそうだ。心底そう思っている、という表情が困惑に輪をかける。
「髪型も可愛い。まとめてんのも、ハーフアップもポニーテールも……今日はおろしてるんだな。すげぇ可愛い。けどあんま可愛いのも困る……虫が寄ってくるだろ。普段からどれだけ俺が気ィ張ってると、」
機関銃のように『可愛い』が止まらない。『奇麗』や『似合ってる』は、何度かもらってきたけれど、社交辞令だと思っていたしここまでじゃなかった。
羞恥に蝕まれながらほとほと困り果てたとき。
「立原、手伝え」
「わーってるよ。中也さん、そこまでにしときましょ!」
「あ……?」
「ほら、許可なく女性に触れちゃ駄目っすよ。ナマエさんに嫌われてもいいんすか?」
「よくない」
「そう、よくない」
広津さんと立原くんがさっと立ち上がり、わたしから彼を引き離してくれる。
「今の内に行きなさい」
「は、はい……! すみません、失礼します」
立原くんに諭されて大人しくなった彼をちらと見やり、また捕まってしまう前にと急いでバーを出た。
ようやっと解放された安心感より、明日以降彼と接するとき、どんな心持ちでいればいいのだろうという不安のような気持ちの方が大きくて、帰路を辿る足取りは鈍くなる。
心地よい夜風は今日だけ生温く感じる。どんなに時間の遅延を願っても朝はやって来るし、すれ違いになりたいときに限って機は合う。
そして、昨日の今日で彼と顔を合わせることになるのだ。
「おはようございます、ナマエさん」
「お、はよう」
あまりにも普段通りの彼に動揺して、ちょっとした段差で躓いたときみたいに、挨拶が喉につかえてしまった。 紅葉の執務室へ向かう途中だったが、彼ら――中也くんと黒蜥蜴の三人――に鉢合わせるとは思わずすっかり油断していた。
「如何かしましたか?」
目敏い彼がわたしの躓きに気付かない筈がなかった。けれど、昨日のことなどさっぱりシャワーで流しました、というくらい彼の目にはわたしを純粋に心配する感情しか読み取れない。真逆。
「……おぼえて、ないの?」
広津さんと立原くんが同時に額に手をあてた。銀ちゃんは不思議そうに瞬きをしている。
「ん? やっぱりどこか具合でも」
なおも云い募られる。けれどその気遣わしげな視線は、今のわたしにとっては肌を薄く削るような痛みを伴うものでしかなかった。
昨日だけでわたしのキャパは限界値を超えた。腰に抱き着いた腕の力。彼がわたしに移したあたたかさ。底抜けに嬉しそうな笑顔。お土産にマニキュアを選んでくれた理由。普段とは違う呼び方と話し方。それに抱えきれないくらいの『可愛い』の花束。
自分だけ忘れてしまうなんて、だったらわたしは持て余したこの気持ちをどうしたらいいのだ。
「中也くんなんて、もう知らない」
怒りも綯い交ぜになって低い声が出た。駆け出したわたしを追う人はいない。正直そっとしておいて貰いたかった。
「え、ちょっ! ナマエさん⁉」
「……うーん、これは……」
「……やっちまった、って感じっすよね」
「嘘だろ、俺何かしちまったのか……?」
「あ――、昨日、その……聞きます?」
「…………聞かせてくれ」
あんな幼稚な癇癪を起すだなんて、と冷静になればなるほど恥ずかしくなる。いくら幹部といえども彼はやっぱり年下であって、わたしは年上だ。それは天地がひっくり返っても変わることは無い。
今日のスケジュールを確認し終え、気を紛らわすように以前から気になっていたことを彼女に聞いてみた。
「紅葉は中也くんから何を貰ったの?」
「これじゃ」
「酉と兎の、ガラス?」
「いいや、水晶じゃな。あやつもなかなか粋なことをする」
「もしかして干支に関係してる? 紅葉確か兎年だったよね」
飾り棚で睦まじく寄り添うその二つを手に取り、わたしの手のひらへと乗せてくれる。
「自分の干支から数えて七番目のものを持つと、御守りになると云われておってな。向かい干支は相性が好いとも云われておる。本来なら私が持つべきは酉のみ。だがこの兎は珍しく蒼い目をしておってのう。まるで誰かさんみたいじゃ」
彼女の向かい干支は酉年だ。ならばこの蒼い目の兎は。思い浮かぶ人物は一人しかいない。
懐かしいというには、そこまで時間は経っていない。ひとつまみの淋しさを湛えた目で、彼女は二つの水晶に視線を落としている。
「ナマエ、中也は本気で私からそなたを奪う気じゃ」
「奪うってそんな、」
「淋しさで心臓が焼け焦げるやもしれぬ」
心臓の上に手を置いて彼女が眉尻を下げながら云う。
「それにもう判っておるだろう、あれの心が誰に向いているのか」
昨日、思い知ったばかりだ。最初は彼女に好意を寄せているものだとばかり思っていた。けれど、彼のわたしへの態度がだんだん変化してきたあたりで、おや? と思った。気の所為だと決め付けていた。
「中也の背を押す気はないが、ナマエがあやつを好いておるのなら致し方ない」
「す、好きかどうかは、判らないよ……」
「時間の問題なような気もするが」
美々しい笑みを浮かべている彼女は、紛れもなくわたしの幸福を考えてくれているのだろう。
彼もそうだ。いつだってわたしに注ぐまなざしも触れ方もいっとう優しい。
今日こそ、帰ったら彼のくれたマニキュアで爪を飾ろう。相手を思いやって自分の気持ちを隠してしまう彼の喜びと、わたしの喜びが等しいものになったらいいなと願いを込めて。
けれどひとつだけ納得がいかない。あのときの会話はわたしに関係していたのに、彼女も彼もそんな素振りはおくびにも出さなかった。当事者のわたしを置いてけぼりにした癖に、今は否応なく渦の中心へ引っ張り込んで愛を囁く。
不満たらたらのわたしに彼女はあっけらかんと笑って告げるのだから、手立てなんて勘案してもきっと意味が無いのだろうと思った。
「愛なんて身勝手で理不尽じゃ。今頃気付いたのかえ?」
たった今可視化された二人の異なる想いに、せいぜい潰されないようにしなければ。
昨日の出来事をいつ伝えようか悩んでいる間に彼女の耳に入り、中也くんが絞られたのは云うまでもない。