闇で染め上げたような黒いスーツ姿の彼女しか知らなくてよかった、と後悔するんだろうか。
 それとも、光に袖を通した明けの明星のような彼女に手を伸ばして、果実のような甘さに翻弄されるんだろうか。

 急遽首領の代打で出席することになったパーティーは、政財界ではそこそこ名の知れた人物の生誕を祝うものだった。最初の代打は紅葉だったが即パスを出したため、中也にお鉢が回ってきたという寸法だ。
 善くない噂が絶えず、食えない狸。マフィアからも毛嫌いされている。上手く手懐ければ有効活用出来ないこともないが、足元を掬われぬよう十分注意しなければならない。正直パスしたかったが、そこは紅葉だ。中也が断れないよう先手を打たれた。
「ナマエ? 急かすようで悪ィがそろそろ準備出来たか?」
 女の支度を待てないほど気は短くないし甲斐性なしでもない、と思いたい。だがパーティー開始の時間が差し迫っている。紅葉の用意した先手――彼女は珍しく準備に手間取っていた。
 事務方の仕事が多い彼女だが、どんな仕事も割とこなしてしまうため、たまにこうして駆り出されることがある。エリスが特に彼女を気に入っており、以前首領の元を訪れた際に緊張で青い顔をしながら相手をしている彼女と初めて会った。
 それが今や、中也をいいように動かす理由の一端となっている。ただの事務方で留めておくには勿体ない、と周囲から評価がうなぎのぼりなことを彼女は知らない。そのうち紅葉か中也の元へでも、異動させられるだろう。
 手配されたホテルに二人でチェックインし、それぞれの部屋で準備を済ませてエントランスで待ち合わせ予定だった。けれど指定した時間になっても下りて来なかったため、こうして彼女の部屋まで様子を見に来たのだ。
 控えめにノックをしたあと、中で慌てたように動く気配がした。ドア越しに焦りを帯びた彼女の声がする。
「え、あ! 中也さん⁉ お待たせしてすみません……!」
「構わねぇ。ただ、気分でも優れねぇならちゃんと云えよ」
「いえ! そうじゃなくて……その、」
「ん? どうした?」
「お願い、があるんですが……」
 これほど言い難そうにしている彼女からの『お願い』とは。幹部には恐れ多くて頼みづらいことなのか、中也だからなのか、或いは両方か。確かなのは、彼女が何かしらで困っており、その所為で準備に手間取っているということだけだ。
「遠慮すンな。俺は如何したらいい?」
 待たせてしまっているという負い目に加えて、お願いをするとなれば彼女にとっては相当勇気のいることだろう。出来るだけ彼女が言葉にしやすいよう、声音を柔らかくする。
 少しの沈黙のあと、ドアノブが動いて顔を出せる程度にドアが開いた。
「中に入ってもらっても、いいでしょうか……」
 ナカニハイル? 彼女の言葉が中也の中で一度バラバラになって意味を失い、すぐ再構築される。
 隙間から見えた彼女のほんのり染まった頬と、不可侵領域へ足を踏み入れることへのいざないに、躰の内側でドッとひときわ大きな音が鳴った。一瞬何の音が判りかねた。動揺を軽く通り越し、逆に冷静になる。ここでカウンターを食らうとは露ほども思わなかった。不安げな色を湛えた彼女の目に深呼吸を一つする。
 そして、是と答える代わりにドアに手を掛けた。
 ドアから離れたところに立っている彼女は、中也と向かい合った形のまま動こうとしない。用意されたドレスを身に纏い、紅で彩った唇をきゅ、と引き結びながら胸元で手を握り締めている。普段化粧をしない彼女の着飾った姿をしっかと目に焼き付けたい、と今すぐ傍へ行きたい衝動を端へ追いやった。触れたが最後、堅牢であらねばならないと云い聞かせてきた理性に、僅かでも罅が入ってしまいそうだった。
 ホテルの部屋に男女が二人。鍵は云わずもがな掛かっている。シチュエーションだけで見ればピンと来るけれど、そうじゃないことだけは確実だった。テレビでは環境問題について答えの出ない討論をしている。どう解釈していいか判断に迷うこの場の空気から意識を逸らすには打って付けだな、と思い耳を澄ませていれば、彼女が口を開いた。
「ファスナー、を上げてほしいんです……その、躯が硬いのでずっと手こずってまして」
 ガン、と額を思い切り言葉で殴られる。つい先刻傍へ行ってはならないと思い直したばかりだ。触れるのはファスナーとはいえ、理性を金槌で叩いて強度を確かめでもするかのようだった。
 目の前で勇気を振り絞って中也の答えを待っている姿、それに部屋へ入った時点で、彼女の『お願い』は叶えられるものへと変わっていた。中也が云うべきことは決まっている。
「判った」
「ありがとうございます……そ、それじゃあ、よろしくお願いします」
 くるり、と彼女が背を向けた。無意識に喉が鳴る。自分に舌打ちしたくなったが、ここでやれば彼女が己へのものだと勘違いするだろうと思い、口の中に押しとどめた。
 中途半端な位置で止まっているファスナーは、彼女が何とかしようと奮闘した結果なのだろう。人差し指と親指でファスナーをつまむ。革手袋越しに肌が見える。黒と白の対比が眩しい。
 何も考えるな。ただファスナーを上まであげるだけだ。上まで、あげるだけ。そうしたら、すぐに離れる。
「お手を煩わせてすみません。幹部にこんなことをさせてしまって……他の方にお願い出来れば良かったんですが」
 渋っていた理由はやはり階級か。そう思うのは理解できる。だったら、来たのが自分以外の男だったとして。今のように男の性を疑わない彼女は、幹部ではないそこそこ信頼している他の男にも、同じようにファスナーを上げさせるんだろうか。
 そう思った瞬間、嫉妬と八つ当たりじみた感情が煮えたぎって混ざり合い、心がざらつく。目の前にある肌理こまかで滑らかな肌。誰にも触れさせたく、ない。彼女の領域に招かれるのは、自分だけがいい。
 ジー、とゆっくり上げていたファスナーを一瞬止める。
「少し、触れるぞ」
「え? は、はい。……何か付いてます?」
「否、今から付ける」
「付けるって何を……? っ、!」
 首より下、肩甲骨より僅かに上。まっさらで誰も踏み込んでいない新雪のようなそこへ、厳かに口付けた。
 手早くファスナーをあげ、「終わったぞ」と声を掛ければ、顔を赤くして金魚のように口をはくはくとさせている彼女が弱々しく振り返る。
「信頼してもらえんのは嬉しいけどよ――、上司である前に俺がお前を女として見てる一人の男だってことを忘れんな」
 目を皿のようにして、彼女はたった今起こったことを理解しようとしているらしかった。
「惚れてる女から無防備に肌なんか晒されてみろ。……触れたくなるに決まってンだろうが。これに懲りたら、もう男に支度を手伝わすなんてことすんじゃねぇぞ」
 勉強代だ、なんて云うつもりは無いけれど、男と二人きりでいれば何かが起こる可能性があることを頭にいれておいた方が今後の為だろう。
 偉そうなことを云っておいて、彼女の肌を間近で感じただけで揺らいだ理性に情けなくなる。接吻したことを謝ろうと口を開くも、言葉を発したのは彼女の方が早かった。
「中也さんだから、お願いしたんです」
「……は?」
「さっきはああ云いましたけど……中也さんにしか頼むつもり、無かった、です」
 瞬きも忘れて、中也は彼女の顔から真意を読み取るべく凝視した。射干玉のように艶めいた目が中也を見ている。中也からの突然の狼藉におろおろしながら酸素を求めていた口元には、もう弱々しさは見られない。
「おっまえ……なんつータイミングで……俺のこと試してンのか?」
 数歩距離を取って手のひらで自分の口元を覆う。ふるふる、と首を横に振る彼女の表情には否定の色が浮かんでいる。
「ドレスはわたしが自分で準備していたんですけど、何故か無くなってて。代わりにこれが」
「成程な……試されてるんじゃなくて、姐さんがお膳立てしてくれたって訳だ。そうだろ?」
「『見ているこっちがじれったくてかなわぬ』、と」
「勘弁してくれ」
 オンとオフのスイッチは正常に働いている。だが、これから仕事の為にこの空気を一度台無しにせねばならないことが惜しくてたまらない。狸なんぞの生誕を祝う暇があったら、彼女との始まりをもう一度ほどいてちゃんと祝いたかった。
 急いで仕事を雑に終わらせようなんて考えていない。恋情にうつつを抜かして手抜かりがあっては首領の顔に泥を塗ることになる。それは互いの矜持が許さない。
「こりゃまた、半端ねぇ発破の掛け方だな」
「しくじれませんね、中也さんもわたしも」
 飴が多いと思えば鞭がくる。組織のためならば構成員の恋だって道具の一つとなりうる世界だ。
 彼女とともに過ごせる安息の日々はまだ夢の域だとしても。
 様々な思惑が複雑に絡まり合っていた中で、こうして互いの気持ちを知る機会を得られたのは幸運かもしれない。