豪奢なシャンデリアの光を受けて、怪しく輝く思惑が交錯する社交場の中、わたしはローストビーフに噛り付いていた。
 ビュッフェ形式の料理はどれも最高級の食材がふんだんに使用されている。酒類も同じく質がいい物を取り揃えてある。美味なものたちが舌の上で踊って喉を通り、胃の中へ収まるまでの過程全てで体が喜んでいるのが判る。
 仮面舞踏会と銘打つこのパーティーに来ている人達は、顔の上半分を覆う奇抜なデザインの仮面を着けている。誰も彼もがその下に黒い欲を隠していた。
 仕事のついでというより、食事のついでに仕事をしているような気分だ。自分の懐に打撃が無く、且つ『無料タダ』で食べられるということがより美味しさを引き立てている気がする。
 艶々の陶器の皿に料理を乗せていく。あっという間に白い面積が減っていき色彩で溢れ返った。
「私と一曲踊っていただけませんか、お嬢さん」
 玉のような輝きを放つ料理たちに舌鼓を打っていると、よく通る声がわたしの背に掛けられる。
 率直に云って、奇特な御仁だなと思った。
「わたし、ですか……?」
「ええ、貴女のことです」
 当然ながら顔は判らない。予め目を通したリストに知り合いは居なかった。ポートマフィアと繋がりのある企業や業者などは徹底的に排除してあったからだ。そもそもこのパーティー自体が秘密裏に行われている。
 だから、目の前で謎めいた微笑を浮かべる彼のことは知らない筈だった。けれど、この人から放たれる気配はわたしのよく知る人と酷似していた。
 でも何もかもが違う。髪の色も目の色も立ち居振る舞いも、話し方も。声も少し高い気がする。
 仮面舞踏会でのルールは互いに素性を探らないこと。勿論それは上辺だけではあるけれど。
 思惑同士が結びついて締結されれば、新たな闇が生まれる。こんなところで真っ白な取引が生まれることはまず無い。数多の歓談が混じり合い最早雑音になっているが、集中して音を選り分ければ、既にいくつか取引が成立しているようだった。視線をやや上に向ければ、暗闇に消えていく男女が数組。後腐れの無い一夜の秘め事に興じるにもうってつけの場なのだろう。
 お膝元でよくやるなと思う。命知らずというより、はっきり云って莫迦のやることだ。灯台下暗しを狙ったのだろうが、ただ炙り出されただけとも知らない彼らは、唾を飛ばしながら富と名声を声高に叫んでいる。
「さぁ、お手を」
 すい、と空気を滑るように奇特な御仁の手が動いてわたしの手を取った。そのままいざなわれて、踊っている人たちに混じる。わたし踊れたっけ? という根本的な疑問を抱いたときには遅かった。背中に彼の手が回され、気遣いを感じさせる強さでぐっと体を密着させられる。
「わたし、ダンスは初めてで」
「大丈夫、リード致します。貴女は身を任せていればいい」
 わたしの焦りを落ち着かせるように彼が鷹揚に言葉を紡いだ。蝶を模した仮面に開いた二つの穴からは、碧玉エメラルド色の瞳が見える。わたしの意識を吸い取るように細められた目に、思わず視線を逸らしてしまった。胸元に挿してある花からは命の匂いが強く香る。
 不思議と断る気にならなかったのは、やはり似ているからだろうか。
 ゆったりと淑やかに演奏される音がドレス同様、体の線に沿う。彼に導かれながら懸命に足を動かした。
 少し苦味のある柑橘系と清涼感を感じさせる香りが鼻腔を擽った。知らない男の人の匂い。触れられても厭じゃないと感じてしまうことを後ろめたく思う程、わたしは目の前の彼に身を委ねていることが心地よかった。
 しっかりと繋がれた手、時折強くなる背中を支える腕の力。彼の人と目の前の人がどうしても重なって、仕事で来ているとはいえ罪悪感に苛まれる。
「ぜひ私を、貴女の一夜の相手として選んでいただきたいのですが」
 まるでとどめを刺すかのようだった。ゲーム秘め事への招待状誘い文句。吐息が鼓膜をふるわせる。彼の首筋が目と鼻の先にある。
 華美な香水に装飾されて曖昧だった彼の本当の匂いを感じた瞬間、わたしは心の中で準備していた断り文句を破り捨てた。状況証拠が全て頭の中で綺麗に嵌る。
「一夜と云わず、何度でも。……中也さん」
 確たる証を持ってその名で呼べば、途端に彼の雰囲気が変わる。
「……何で判った、俺だって」
「わたしの細胞がそう云ってました」
「すげぇ精度だな」
 一瞬固まった彼が、正体を見破ったわたしの顔を驚いたように凝視して、それから力を抜き、いつものように親しみ深く笑った。
「中也さんてダンスも踊れたんですね」
「踊ってる奴らの見て先刻覚えた」
「先刻⁉」
「パターン憶えりゃ、そんな難しいモンでもねぇだろ」
「わたし中也さんの足踏まないようにするだけで精一杯なんですが」
「踏んでくれて構わねぇぜ? 羽でも乗ったのかって思うだけだ」
「いくら重力操作でも絵面が善くないですし、踏むのはわたしが厭です」
「そうかい」
 仮面はすっかり意味をなくしてしまった。演奏が終わり、互いに笑みを乗せながらお辞儀をする。差し出された彼の右腕に左腕を組ませて、わたしたちはさりげなく人気のない方へ移動した。
「首尾は?」
「会話の録音と、彼らが所持していたデータも抜き取りました。次の取引まで泳がせる手筈になってます。という訳で仕事は恙なく終了しました」
「だからあんだけ飯に集中してたのか……敵さんの腹ン中でよく食えるな」
「ご飯に罪はありません!」
「食いしん坊かよ」
「貴方以外の男性に媚びてた方が善かった? 自ら進んで壁の花に徹してたことを褒めてほしいくらいです」
「よく云うぜ。俺の誘い受けたじゃねぇか」
 痛い所を突かれて、喉に食べ物を詰まらせたみたいにわたしが黙ると、彼は眉を下げて「今のはちっと意地悪だったな、悪い」と謝った。
「慥か長期任務でしたよね?」
「早く終わらせて戻ってきたんだよ。誰かさんの為に」
「変装までして?」
「……嗚呼」
「紅葉さんの案でしょう」
「何でそこまでバレてんだよ」
「わたしの細胞、精度が高いので」
 彼ならばこんな回りくどいことはしないと思った。見た目だけじゃなく、香りまで偽ってわたしの観察力を試し、あまつさえ鍛えようとしている紅葉さん上司の思惑もなかなかどうして侮れない。
 彼はくっくっと笑いを噛み殺して、不満げな空気を溜めたわたしの頬を優しく撫でる。先刻と同じ、意識を根こそぎ吸い取ってしまうような目が向けられる。今度は逸らさない。彼の手がわたしの顎を持ち上げ、待ち遠しかったと云うように唇が重ねられた。
 また演奏が始まって、人々が踊り出す。あ、今度はあの二人が喋ってる。交渉決裂したのかな。二度目の接吻キスを受けながらも無意識で仕事をしていると、彼が唇を離して物足りないという顔をしながらわたしの目を見てくる。
「……あの、わたし明日も仕事で、」
「俺と過ごしてくれンだろ? 一夜と云わず、何度でも」
「あれは中也さんが」
「……久しぶりに会えて喜んでるのは俺だけか?」
「そんなの、狡すぎませんか……」
 命じられた仕事は全て終わっていた。けれど、みっともなく溺れないようにと仕事に向けていた意識を溶かすみたいに、聞き慣れた低い声が耳朶に染み込んで、わたしから我慢の枷を外そうとする。
 三度目の接吻はわたしから。
 どうやら明日は、彼と共に朝日の眩しさに瞼をふるわせて微睡むことになりそうだ。