心を搔きむしって出来た傷から滲んだのは、陰鬱さにまみれた憤りと悲しみだった。
夏の果てに置いて来ようと思った忌々しい出来事を、彼はわたしひとりに抱えさせ続けるつもりは無かったらしい。
取引先の男から迫られて拒否したら顔を殴られた。一年と少しの付き合い。温厚な性格だと思っていたのは、わたしを油断させるためだったようだ。羊の皮を被った狼? あんな醜い狼がいてたまるか。吐き気がするほど気持ちが悪い。滅びろ。もう滅ぼしたけれど。
わたしを弱いと決め付けた上、力で屈服させて脅せばバレやしないだろうという嘗めた態度に、堪忍袋の緒が切れるのは必然だった。
切れた口内がじくじくと痛む。痛いのは嫌いなのに。これではご飯を食べるのも億劫だ。
全てを終えて本部へ戻った血みどろのわたしを最初に見つけたのは中也だった。見つからないようにと時間を調整したのが裏目に出て、「しまった」という顔をしていたら、それを見越していた彼は眉間にきつく皺を寄せながらも顔に付着した血を拭ってくれた。
問答無用で彼のセーフハウスへ連行され、現在進行形で甲斐甲斐しい慈悲を甘んじて受けている。
「一人であの人数全滅させるんだもんな……立場を履き違えた躾のなってねぇ畜生共ってぇのが早めに判ったんだ。首領はお前の判断が正しいって云ってたぜ」
交渉の場に銃の携帯は許可されていなかったため、万一のときのために忍ばせていたナイフを使用した。ふと気づくと、男たちは全員が首から鮮血を流して事切れていた。あーあ、と思いながらも、罰を覚悟してその場ですぐ首領へと電話をしたのだ。
顔の他に負傷箇所はないか、と聞かれて「無い」と即答したものの信じてもらえず、結局シャワーを浴びた後、ベッドへと誘導され躰を入念に確認される羽目になった。
「あの、中也」
「何だよ」
「そんなにじっくり見なくてもよくない……?」
「手前が電気付けるなって云ったんだろうが」
「……視力どれくらいでしたっけ?」
「さァ、どうだったかな」
窓から見える燃え盛りを過ぎた夕日は、薄紫色の水を被って徐々に勢いを落としていた。それでも真っ暗ではない。互いの顔はしっかりと見えるのだし、なにより彼は視力がいい。
彼に隠して全てひとりで処理しようとしたからこその疑念だったので、羞恥心を押し殺しながら、彼の視線が肌の上を丹念に滑るのを、ただ黙ってひたすらに耐えていた。ある意味これが罰なのかもしれない。
怪我が無いことを確認し、満足したらしい彼から頭を撫でられ、とぼけたことへの抗議をしようと顔を上げると、あやすように額に口付けをひとつ落とされた。たったそれだけで不満は霧散してしまう。
「俺の出る幕は無かったな」
もうこの世から屠ってしまった、わたしを傷つけた輩たちへの怒りの置き場をどうしようか迷っている彼の表情は靉靆としていた。
心配の色を乗せた彼の親指が、傷に障らないよう唇へごく軽く触れる。殴られる瞬間、打撃の勢いを削ぐように躰を動かしたとはいえ、もう既に頬は腫れてきているし、痣になるのも避けられないだろう。
「今まさに、中也の出る幕だよ」
彼の慈しみによって照らされた傍から、泥のようにまとわりついていた遣る瀬無さが消えていく。当然のように大切にされることに対して嬉しくなる反面、そんなにたくさん注いで割いてしまわないで、とも思ってしまう。
ただでさえ多くの部下を持っている貴方の心が、いつか擦り切れてしまわないか、わたしの方が心配になるから。恋人という尊い関係を結んでくれただけでも、身に余る幸福だというのに。
腰を浮かせて彼の肩に手を置いた。少し動いただけでは、僅かの悲鳴さえあげないスプリング。寝具はすべてふかふかで、綿で身を包まれているみたいに心地がいい。
顔を近付けると、焦ったような顔をした彼から腰をガッと掴まれてシーツの海に沈められる。
「おい……傷口に塩塗りこむような真似、」
「そんな思いっ切りしないから。ほんとに少し触れるだけ。……だめ?」
これはわたしではなく、彼の理性頼みになるだろう。苦い顔で逡巡する彼に、強請るように視線を送る。
本当は喋るたび、小さな稲妻にも似た痛みが走っていた。ありがとう、が胸の内で行き場を探している。ただ抱き締めるだけでは、足りなかった。彼のための痛みならば、痛くないのと同義だ。
「……わァったよ」
降参だとでもいうように、彼が眉を下げる。先刻よりも濃くなった暗闇に身を委ねるように、互いの顔が近付いていく。
彼の表情をつぶさに見ていたくて薄めた視線は咎められるかもしれないと思っていたのに、彼の瞳で許すように揺らめく幽光に導かれるまま、唇の表面を掠めるような接吻をした。
柔らかなあたたかさから離れるのが惜しくて、もう一度彼の唇に触れる。ぐっ、と眉間に皺を寄せてなにか云いたそうにしている彼の表情がたまらなくて嗜虐心を擽られた。今度は角度を変えながら、立て続けに三回してみる。
巾着の口をきつく引き絞るみたいにして閉じていた彼の理性が、針の先ほど緩んだ。わたしの唇を見つめている彼の次の行動を制するように、その口元を手で塞ぐ。
「……」
「……」
「……判ってる。『触れるだけ』だろ。……俺に『待て』させるなんざ、犬扱いもいいとこだぜ」
しばしの沈黙と黙考を経て彼が苦みを吐露する。理性を試すようなわたしの行為をこそ咎めてもいいのに、彼はそれをしない。
「治ったら」
「覚えとく」
「その言葉、真に受けちまうぞ」
「ふふ、いいよ。なんだかんだ手加減してくれるの知ってるし」
「んっとに、よく回る口だな。俺を丸め込むことばっか上手くなりやがって」
「愛だよ」
貴方がわたしにくれるもの全てが、泣きたくなるくらいのぬくさを持つそのひと文字に帰結する。
満月みたいにまるく見開いた目が、わたしの言葉をゆっくり食むように細められる。
「ばぁか、云ってろ」
角やささくれのない、どこもかしこもまろい罵倒だった。
彼はやや頼りなさげに口を塞いでいたわたしの手を取ってじっと見る。
大きく口を開け、彼がじゃれつくようにわたしの指を甘噛みした。