常々、彼は普通じゃないな、とは思っていたけれど唐突な終わりの合図もなかなかどうしてパンチが効いていた。
「太宰さん……これ」
「おや。これはこれは。随分と大胆な痕跡を残してくれたものだ」
「綺麗な色ですね。どこのですか?」
「君が前に好きだと云っていたメーカーの一五八番」
「明日買おうかな」
「そうきたか」
 彼は喉奥でくつくつと笑いながら、「君には少し色味が強いかもしれないね」と目を細めた。伸びてきた人差し指に紅でもついているかのように、わたしの唇に触れた長い指がゆっくりスライドしていく。彼には一五八番をつけたわたしのアンバランスな顔が見えているんだろう。
 彼のシャツを洗濯機に入れるとき、見てくれと云わんばかりにべったりと付けられた紅が視界に飛び込んできたのだ。唇の形をしたそれは、『彼は自分のものだ。お前は身を引け』とわたしに怨嗟でも吐き出しそうに見えて、白を切る気もない彼の前で、生地をぐしゃりと握り潰してしまった。
 綺麗な色だと思ったのは皮肉でも何でもなく本当だ。
 ここまであからさまに他の女性の影を匂わせてくるのは初めてで、今までも何となくわたしの他にも懇意にしている人はいるのだろうな、と感じていた。でも、彼はわたしといるときはわたしのことだけを見てくれていたから気にならなかった。
 彼は数日前にもここを訪れ、テレビを見、そのうち座っているのが辛くなってベッドで一緒に横になった。しばらくして起きた彼は、目を閉じていたわたしへと接吻を落として告げたのだ。
「ごめんね、これ以上は一緒に居られないんだ……」
 わたしが寝たふりをしているのを判っていて――正確には、寝たふりを続けて聞かなかったことにすることを判っていて、違和感だらけの台詞を口にした。そのときは仕事の時間でも差し迫っているのだろうと思っていた。
 どうしてそれを別れの言葉に選ばなかったのだろう。わたしに嫌われることが彼にとっての綺麗な終わり方だったんだろうか。得意の弁舌でぐうの音も出ない程鮮やかに説得しそうなものなのに。わざわざ傷を作るようなことをするなんて。
 持っていた洗濯物を彼の胸元に押し付けて、キッチンへと向かう。冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップへ注いだ。
 向かい合って座るも、彼はにこやかな笑みを崩さない。互いに麦茶を飲む音だけが響いている。わたしは釈然としない頭で、意地になって彼の行動の理由を探していた。
 走馬灯のように思い出が巡る。縁起でもない、と思ったけれど彼との恋はもう死に向かっているのだから、割とぴったりな表現かもしれない。
 長考の末、ギギギ、と歪な音を立てていた歯車が少しずつ噛みあって、ばらけたパズルのピースがおさまるべきところへおさまっていく。
 女性に夢を見させることに関しては他の追随を許さない彼は、呼吸同様に演技をする。演技なのか本気なのかは判然としなかった。ただ彼がいつからか『演技をやめた』のだけは判った。やめたからといって本気なのかと云われればそれも不明瞭だった。けれど。
「太宰さんて、わたしのことちゃんと好きでしたよね」
「……どうしてそう思うんだい?」
「貴方が教えてくれたんですよ」
 視線、言葉の選び方、抑揚、仕草。くゆる紫煙のように、彼の端々から『特別』が立ち上って、わたしへ絡みつくようになった。わたしの一挙一動に素の感情を返すようにもなった。
 たった一度だけ、彼が別の女性と連れ立っているところを見掛けたことがある。明らかに演技をしている彼を見て、わたしは途方もない衝撃を受けた。そして嬉しさに身を震わせながら家に帰った。
「でも、そっか……わたしは」
 テーブルの上に無造作に置かれたシャツから嘲笑われているような気がした。
 完全に見縊られている。こんな、使い古した陳腐な愛憎劇を見せられるくらいなら、もう一度面と向かって同じ言葉を云ってほしかった。
 彼が別れを予感させたことには、大きな意味と理由があると思ったから、置き土産として物判りのいい女でいよう、黙っておこうと思っていたのに。
 彼の仕事が安穏としたものでないことは薄々感じていた。だからこそ、本人が終わりだと判断したのなら、追い縋れる筈もない。
 今まで散々女性を誑かして弄んで、痴情の縺れにも巻き込まれただろうに、どうして反省の色が見えないのだろうか。きっとどんな状況に陥ったって、彼は焼きたてのクッキーに舌鼓を打つみたいにしてどこか楽しそうな風情さえ漂わせて解決してしまうからだろうな、とも思った。
 麦茶を持つ自分の手に光る物へ視線を向ける。次いで、彼へと視線を移す。貴方の心に爪を立てる機会なんて、そうそうない、と思いながら。
「太宰さんがくれたこの指輪、大切にします」
 この一手が恐らく彼の隠したがっている事に違いなかった。
「それは君が自分で選んで買っていたじゃないか」
「いいえ、貴方がくれたんです」
 間髪入れず確信を持って告げれば、彼のなよやかな柳眉に力が入った。
「さよならを告げる相手に指輪なんて渡せないですよね。だからせめて、貴方が贈りたいと思ってくれたものを、わたしに『選ばせた』。わたしの懐事情も鑑みて。重すぎず軽すぎずなところがまた太宰さんらしいというか、なんというか」
 指輪でわたしの心を縛りたくなかった彼は、わたしの目を眩まそうとした。滅茶苦茶なやり方で。
 乱心すると思われたことも、簡単にわたしが彼を見限ると思われたことにも、猛烈に腹が立ったのだ。
 今度は漂白でもされたように、彼の顔から表情が抜け落ちていく。
「あは……気付かれないようにした心算だったのだけど……やはり君は聡い」
「だってこんなの、何か隠してるんじゃないかって疑ってしまいます」
「逆効果だったかぁ。君は出会った当初から、私の予想の斜め上を行っていたものね」
 心に立てられた爪はそのままに、むしろ彼は抉るように上から押さえつける。
「私が欲しい言葉をくれるかい?」
 心臓が震える。喉が、目の奥が痛い。鼻がつんとする。
「駄目。貴方が始めたんだから、ちゃんと貴方の手で終わらせて。ちゃんと……振って」
「こんなにさよならを云いたくないのは初めてだよ。……こういう形で君を手放す私を、どうか許さないでいて」
 立ち上がった彼がわたしの隣に来る。そして、そうっと前髪を避けられて額へ唇が落とされる。今まででいちばん優しくて悲しい触れ方だった。薄い唇の感触も温度も離れたそばから剥離していく。
 彼へ腕を伸ばして抱き締めたかった。でもわたしが動く前に、彼が背を向けて玄関へ向かってしまう。
 慌てて動いたからか、玄関の前でつんのめって膝を擦った。はっとして見上げる。
 扉が完全に締まるまでの間。長方形に圧縮された景色の中で彼が寂しそうに微笑んでいた。
「さようなら、いとしい人」
 その瞬間だけ、わたしは読唇術を会得したかのように、はっきりと彼の唇がそう動いたのが判った。無慈悲なまでに無色透明なその言葉が輪を作って、指輪にぴたりと重なる。
 わたしだって人生で初めてだ。こんなに苦しい思いをするのは。滂沱の涙を流すのは。世界を分断するように扉が閉じた。
「さよ、なら……わたしの、初恋」
 どうか貴方が心から憩える場所が、ひとつでも増えますように。
 重なってずっと続いていくと思っていた道の先は、最初から分かたれていた。それでも、彼はわたしと過ごす時間を大切にしてくれた。
 語らない部分にこそ、彼の想いが花となって咲き、寄り添ってくれている気がする。
 永遠は無いと嘯いていても、永遠という幻に心をやつしてしまうように、「やっぱり私達は離れられないのだねぇ」なんて云いながらいつの日か閉ざされた扉を開けて、運命の再会を演出してくれるんじゃないか、と期待してしまう。
 けれど重々しく閉ざされた扉は、いくら待っていようと凝然とそこにあるだけなのだろう。
 涙が際に溜まっては頬を滑り落ちていく。わたしの鼻をすする音と嗚咽ばかりが部屋に降り積もる。劇的な変化を起こしてくれそうにない。
 波ならば寄せては返してくれるけれど、それらはわたしの元から引いていくばかりで、何も返してはくれない。
 もう会えないという事実ばかりが膨らんで、わたしを窒息させる。