こちらを見ながら彼の口が嫌味なほど丁寧に紡いだのは、わたしじゃなくて他の女の人の名前だった。
 寝言よりはいいかもしれない。態とだから。わたしがどういう反応をすれば、彼は落胆するのだろう。そもそもどうしてわたしの神経を逆撫でするようなことを積極的にかましてくるのか、皆目見当がつかない。
「殴ればいいじゃねぇか」
「そんな簡単に殴らせてくれるような人じゃないんですよね」
 治さんと付き合う前から、中也さんとはこうしてたまに近況報告し合う仲だった。今日はほぼ愚痴を携えて、怒涛の勢いでそれを吐き出している最中だ。
「で、この前会ってから一週間も経たねぇうちに俺ンとこ来た目的は?」
「中也さん、代わりに」
「御免だね」
「そこをなんとか! 日頃の鬱憤も上乗せしてもらって」
「当事者間で解決願います」
「え〜」
「面倒事を持ってくんなよな。つか、毎度毎度お前ら飽きもせずよくやるぜ」
「やりたくてやってるわけではないんですが……」
 何が楽しくて殺意を抱くレベルで馬の合わない男とその恋人の痴話喧嘩の内容なんて聞かされなければならないのか。中也さんは不味いものでも食べたみたいに顔を顰めている。
「糞太宰に聞きゃあいいじゃねぇか。俺んとこでとぐろ巻いてても仕方ねぇだろ」
「それは、そうなんですけども」
「大体、手を替え品を替え何回もんなことされて手前は平気なのかよ? 代わりに殴れって云うくらいだから平気か、って聞くのはちっと違うか」
「正直云うとものすごく嫉妬してますし、嫉妬通り越してなんか自分でもこれがどういう感情なのかよく判らないです。でもまあ、顔かお腹に一発で手打ちにしようかと」
「実は滅茶苦茶怒ってンじゃねぇか」
 中也さんは書類に目を通しながら、それらを器用に捌いている。時間を無駄にさせてしまって申し訳ない気持ちと、消化不良を起こしている黒々とした昏い感情がせめぎ合って、体が半分に裂けそうだった。
 いっそのこともう別れた方がいいんだろうか。彼はもうわたしに飽きてしまったのじゃないか。彼はその手練手管であまたの女性を惑わせてきた。その内のひとりになるつもりがわたしになくとも、わたしを『その他大勢のひとり』として分類することを決めるのは彼だ。
 中也さんの云うように、ここで腐っていても迷惑になるだけである。目の表面に張りつつある水の膜には気付かないふりをして立ち上がった。
「行ってきます……真相を確かめに……振られたら、どうしよう……」
「お前ら本当面倒くせェな……万が一振られたら祝ってやるよ」

 中也さんからの激励を受けて彼の執務室を訪ねた。居てほしい、居てほしくないと心の中で生まれる矛盾に吐きそうになりながら返答を待つ。
「やぁ。素敵な顔をしているじゃないか」
「……誰の所為だと」
「どうぞ、中へ」
 やけに機嫌のいい彼に迎えられ、さらに怒りが湧いたけれど、何を云ってもいいくるめられそうで、結局黙ったまま中へ入った。
 コツン、と心做しか軽やかな革靴の音が薄暗い室内に落ちる。執務机の上を照らす橙色のライトだけが光源だ。くるりと体を半回転させた彼の顔は、彫刻のような巧緻さを思わせた。艶美な笑みを浮かべている。
「君は嫉妬すると、そういう表情をするんだね」
「まさかとは思いますけど……、ただ、嫉妬させたかっただけ?」
「そうだよ」
 彼は何でもないことのように云ってのける。やりたいからそうした、と。彼は頭の中でこの結果に行き着くまでのシナリオを描き、演じただけなのだと。
 知りたかった理由をあっさりと放られて、わたしは慌てて受け取った。受け取ったはいいものの、違う言語で書かれている書物に無理やり目を通しているみたいで、理解が追いつかない。
「なん、で、そんなこと」
「君が過去付き合った男は、君に嫉妬をさせなかったのだろう?」
「え? は、はい……」
「だからだよ。過去には敵わないからね。初めて嫉妬という感情を剥き出しにした相手。君の初めては出来るだけ自分で在りたいんだ」
 頭の中で中也さんの『万が一振られたら祝ってやるよ』という言葉が反響した。
 それはわたしという人間が、彼にとっては『その他大勢のひとり』として分類出来ない、そもそも分類するという意思すら抱くことのない存在なのだと、理解した瞬間だった。中也さんは彼がわたしへ向ける愛し方の本質を判っていたのだ。
「自分の中にそんな激しい感情があるだなんて、君は知らなかっただろう? ふふ、それだけ好いてくれているのだから、こちらとしては嬉しいけれどね」
 殴りたい、だなんて激しい感情を恋人へ向けることになるなんて。自分の中に潜む暴力的な部分を暴かれ、晒され、あまつさえそれを嬉しいと云う。仕事で殴るのとはわけが違うのに。
「じゃあ、もう……わたしを見て他の人の名前呼んだり、しないですよね?」
「もしまた呼んだら、どうする? 今度こそ本当に殴るかい? いいよ、避けないでいてあげる。君からの痛みなら甘んじて受けよう」
 うっそりと瞳に愉悦を刷いて、彼は謳うようにわたしの中の暴力を焚きつける。
「もう、嫉妬はいいです……経験したので。次は? わたしはまだ貴方にあげられる『初めて』が在りますか?」
 この愛をおぞましいと目を逸らすのか、恐ろしいと慄くか、いとおしいと抱き締め返すのか。
 縦も横も斜めも上限のない、それでいて自由で肌に触れて初めて判るその重さ。
「まだ見ぬ君の全てを見せてくれ」
 光なんて容易く蒸発してしまいそうな程昏く沈んだ彼の瞳が空に向けられれば、輝きを失った星屑たちがただの石ころに成り果てて降ってきそうな気さえした。
 彼の手管でわたしの心が作り替えられていくのか、わたしがそれを全て受け入れたのか。
「そんな雁字搦めにしなくたって、わたしは貴方の傍にいる」
 そっと彼の小指に自分の小指を絡める。
 もう二度と彼の愛を疑わぬ。
 解析不能だと脳内で答えが出た。それでも。
 未知への恐怖より喜悦が勝るわたしも、大概彼に懸想している。