形容しがたい気持ちってどんな色をしていて、どんな手触りなんだろう。
軽薄、軟派を絵に描いたような人だと思っていた。女性と見るとすぐに手を取りに行くから。砂糖をたっぷりまぶした言葉と表情を向けられるたび、量産されたそれらを突っぱねていた。
彼はきょとん、と目をしばたたかせるだけで、わたしの態度でかすり傷ひとつ追うことはない。それもまた、彼が女性慣れしているのを際立たせていた。
常にゆらゆらと甘やかな影のある人に、心を許すなんてどうかしている。わたしだけを特別という枠に入れて、大切にしてくれる人がいい。そう、思っていたのに。
「太宰さん……? と、だれ?」
頼まれた買い物に出掛けた先、たまにテイクアウトするカフェのほど近く。
だれ、ともう一度無意識に疑問が口をのぼる。小鳥が囀るように笑っている女の人と太宰さんが、並んで壁に凭れて談笑していた。
そして、女の人が何かを口にしたとき、鷲色のひとみが照れを含んで、柔和に綻んだ。
いつもお砂糖を振り撒いては、本心をつゆほども見せない彼のあんな顔、見たこと、ない。
心臓が嫌な音を立てた。道行く人々が視界から弾き出されて、わたしの視線は一点に集中する。たった今まで当たり前のように続けていた生活の営みから足を踏み外したような心地になった。手足から急速に力が抜けていく。喉がぎゅうと締まって、取り込んだ酸素を上手く飲み込めない。
二、三言交わし互いに軽く頭を下げて、太宰さんと女の人が別れた。早く隠れないと、と思うのにわたしの足はその場に根を張ってしまって動くことが出来ない。
歩き出した彼の目が、制御のきかない感情をぼろぼろと流しているわたしの姿を捉える。
「あれ、ナマエちゃんじゃな、」
「こ、来ないでください……!」
反射的に口をついて出た拒絶は、飴細工を砕くが如くやすやすと突破される。いつもより歩幅を大きくした彼が、人の波間をするりと泳いで目の前までやって来た。
思わず俯く。隠すのは無駄だと判っていても。
わたしと彼の靴のつま先が触れそうなほど近かった。
「……泣いてる女の子の云うことを、私が聞くと思う?」
咄嗟に閉じた暗幕をそっと開くような声。次から次へと生み出される雫が、しとどに頬を濡らしていく。一つの情報から多くを得る彼は、仔細を説明せずとも、この状況をすべて正確に把握しているのだろう。
わたしだけが自分の感情に置いて行かれている。
「わから、な」
毒牙になんてかかるまい、と振り払っていたのは自分だ。それなのに、いざその矛先がわたしからずれている場面を見ただけで、こんなにも心をかき乱されるとは思わなかった。
こぼれた傍からみるみる湧き出る涙そのものが、真実を物語っている。
「彼女は依頼人だよ」
どうしたの、と理由を問うて涙を止めようとするわけでもなく、彼はわたしから逃げ道を奪う。出ている答えから目を逸らさないで、とでもいうように。
「でも、太宰さん……いつもと違う笑い方、してた」
「いつもと違う、か。なら、君からはどんな風に見えたんだい?」
狭まっていた視界が徐々に戻ってきて、立ち止まっているわたしたちを怪訝そうに伺う視線を感じた。
女を泣かせている色男。痴情の縺れ。修羅場。お昼どきのメロドラマ。様々な憶測を乗せたそれらが入れ代わり立ち代わり風のようにぶつかってきては、不躾に覗いて来ようとする。
足は、もう動く。一本逸れれば人通りはほぼ無くなることを知っていたわたしは、右足を僅かに動かした。彼が意図を汲んでくれると信じて。けれども彼は動かない。この場にいる全員を証人にでもしようとするかのように。確固たる彼の意志の前で籠城戦は通用しないようだ。もちろん援軍も無い。
諦念に至ったわたしは、濡れたままの顔を上げて彼を見た。
「す、好きな人に向ける、みたいな……特別な相手に見せるような笑顔、だったので」
「洞察力に長けた人だったのだけど、彼女も同じことを言っていたよ。あの時は意表を突かれたから、うっかり顔に出てしまっていたのだね」
「同じこと、って……?」
時間が止まったと思った。彼の両手がわたしの顔へ伸びてくる。耳の裏側に彼の指が添って、頬を全部包まれた。手首まで巻かれている包帯の匂いがする。
「君の話をしていたんだ」
彼が思わず見せた知らない笑顔。その矛先は、ずれてなどいなかった。
ふわふわの蓬髪が額を擽って、鼻先同士が挨拶でもするかのように触れ合う。
「だざい、さんっ! 人が見て、」
「だって嬉しいのだよ。君がもう、私を袖にすることは無いだろうから」
「!」
「これで国木田君からも、セクハラだなんだと咎められることもない」
わたしが泣いていた時点で答えを悟った彼が、噛み締めるように瞼を閉じる。ざらめほどの粗さだったのが、いつしか粉砂糖のように細かになってわたしの心に入り込んでいた。
判りにくい彼からの特別に、意固地になって背けていた自分の気持ちに、ようやく気付く。
貴方が好きだと今すぐ伝えたいのに、涙を吸い込んだ言葉はしっとりと重みを増して、喉奥でうずくまったままだ。
「……気にしてました?」
「こう見えても繊細な心の持ち主なんだよ」
「……」
「……訂正しよう。『君』のことに関しては」
朝日を受けて花弁がその身を広げるように、彼の瞼が持ち上げられる。覗いた瞳から滴る甘さにわたしは息を呑んだ。
証人はもう十分だ。怪訝そうな視線からは棘が抜け、今や祝福の色に染まっている。彼が平気でも、わたしは恥ずかしいことこの上無い。
彼の腕を引いて、急いでその場から撤退する。探偵社への近道でもある小路へ入った。走ったわけでもないのに息が上がっている。立ち止まって振り返ると、それを待っていたかのように腕が腰へと回った。細腕からは想像も出来ない力強さに、心臓が別の意味でどくどくと鳴る。
「涙にすら口付けたいと思うのは、君だけだ」
頬に宛がわれた彼の手がわたしの顔を上向かせる。澄んだ青空を背にしている彼は一枚の絵みたいだった。
一瞬見惚れていた隙に距離を詰められ、そうして、目尻にやわくてあたたかな感触が降る。
「な、なんっ」
「感情で味が変わるというけれど、今はどうなのだろうね。……甘いといいな」
いきなりのことに泡を食うわたしを尻目に、最後の粒を摘み取った彼は嬉しそうに笑った。