すっかり油断していた。
お二人は何だかんだいいコンビですよね、と云ったら鐵腸さんはどことなく嬉しそうにしていたけれど、条野さんには息の根を止められそうになった。口からまろびでた素直さも時には仇となる。
「何だ条野、黙り込んで。照れているのか」
「ああ、鐵腸さん、これ以上火に油を注がないで……!」
「その首、刎ね飛ばすしか無さそうですね。貴女も貴女です。云って善いことと悪いことの区別もつかないとは……いくら隊長や副長のお気に入りだからって私は容赦しませんよ?」
殺意を孕んだ鋭利な言葉が喉元に宛てがわれる。きっとこれが冗談でも同じ結果だったろう。頼まれた資料を届けに来ただけでこの波乱。ごめんなさいと半ば叫びながら、降参のポーズを取った。だが、にじり寄る条野さんの背後から違う殺気が松明のようにゆらりと蠢いているのが見えて、急遽謝罪を中止する。
「あ、条野さん……う、うし、」
「私は牛ではありませんが?」
「条野、貴様……儂のナマエに傷を付けるつもりか? 覚悟は出来ておるのだろうな?」
古風な言葉遣いと幼さの残る声音がどこかちぐはぐさを感じさせる。
ゴゴォ、という音がしそうな形相で条野さんの背後に立っているY子さんの声が地鳴りの如くその場に轟いた。
てっきり福地さんと一緒に来ると思っていたため、思いの外早い登場に驚いた。それは条野さんも同じだったようで、僅かに表情を硬くさせたあと素早く私の背後に回る。
「厭だなぁ、副長。ほんの戯れですよ。私達、実は仲が好いのです」
合わせてくださいね。ひそり、と囁かれる念押しには有無を云わせぬ圧。それから、両肩に手を置かれ緩衝材としてY子さんの前に突き出される。
条野さんの変わり身の速さには舌を巻く。けれど、迅速で賢明な判断だ。Y子さんを怒らせて好いことは何一つない。
Y子さんの後ろには引き攣った顔をした立原くんがいた。どうにか出来ないか、と顔に書いてあるけれど、下手に仲裁へ入ろうものなら立原くんも巻き添えを食うだろう。
精一杯の演技をしつつ、この場が収束しますようにと願いながらにこりと笑った。だが、鐵腸さんが無言で条野さんの手をはたいたことにより、私の願いは無に帰す。
「……痛いんですが」
「その手をどけろ」
「あの、お二人とも……」
せっかく持ち直したと思っていた雰囲気が、嫌な意味で最高潮に達してしまった。
今までも鐵腸さんが割って入ってくるという似たような状況はあった。
条野さんが暇潰しで私を誘導尋問に掛けたり、立原くんから美味しいスイーツのお店を教えてもらったり(森鴎外氏からのお使いでケーキを買いに行ったことが何回かあるらしく、とても詳しいのだ)、福地さんの介抱をしていたり、軍医の先生と打ち合わせしていたり、と状況は様々で特定の誰かのときということはない。福地さんの介抱時は条野さんとのときのように不穏な空気にはならなかったが、すぐに自分が代わると申し出て、背中をさすっていた手をやんわり握られたこともあった。
いつもの不思議な行動、とは思うけれど如何せん今はY子さんの前で機が悪すぎる。
「……仲が好いと申しておらんかったか?」
「な、仲好し、です! ね!?」
線香花火くらいなら可愛いものだが、特大の花火よろしくバチバチ視線をぶつけ合っている二人の手を急いで取ってY子さんに見せる。条野さんは死ぬ程厭そうだが、振り払われはしない。この状況を何とかしなくては、という点のみで利害が一致している。私が状況を作り出してしまった一因であることは間違いないので、申し訳ないなとは思うけれど。
鐵腸さんもさぞかし怪訝そうな顔をしているだろうと、視線を向ければすぐに目が合った。泰然とした目元に、ほんの少し感情が滲んでいる。なんだろう、と思っていれば鐵腸さんが手を握り返してきた。此方は協力的でとても助かる。
「ふん……まあよい。じき隊長もお見えになる。貴様ら気を引き締めよ」
私の必死の演技に免じてくれたのか、Y子さんの興味が消え失せたのを合図に、条野さんの手がもういいでしょう、とでもいうようにパッと離れた。誤魔化せてほっと息をつくも、ゆっくりはしていられない。福地さんが来る前に資料とお茶の準備もしなければならない。今日のお茶請けはY子さんの好物でもある。
けれど意気込んで歩き出した私の体は、くん、と後ろに引っ張られた。鐵腸さんが私の手を握ったままだったからだ。
「えっと……?」
「前にも思ったがナマエの手は小さいな。それに、柔らかくて温かい」
「そう、でしょうか? 自分では判りませんが……鐵腸さんの方が温かい気がします」
前、というのは福地さんの背をさすっていたときのことだろうか。藪から棒に自分の手の感想をしみじみ云われて戸惑う。先刻しかり、普段から突飛な言動をすることがあるから、今更驚きはしないけれど。
布で覆われている彼の手のひらも、露出している指と同程度の温度を感じるのだから、やはり私より彼の方が温かい筈だ。ほぼ彼の手に面積を占められ、すっぽり包まれている様を見ていると胸のあたりがそわそわとした。
「あと、軽すぎる」
「へ?」
「腕立て伏せのときに乗ってもらったが、負荷にならないどころか、本当に乗っているのか判らなかった」
「そ、それは云い過ぎですよ! 私だってそれなりに重さはあります」
体を心配してくれているのだろうか。繁忙期でないとはいえ、日によっては雑務に追われることもあるけれど、ここ最近はしっかり休めている。
体重に関しては具体的な数字を公表するのは憚られるので濁して云うも、鐵腸さんは納得いかない顔をしている。そもそも彼の中での軽いと重いの基準が判らない。
「ちゃんと食べているのか?」
「この人結構食べますよ」
「条野さん?!」
「それにしては細すぎる。特に腰なんか」
「ひゃっ……! て、てっちょうさんなにを、」
仕返しとばかりに横槍を入れてきた条野さんに一瞥をくれる間も無かった。彼の大きな手が両側から私の腰を掴む。隊服の上からでも鐵腸さんの手の感触はしっかりと伝わってきて、思わず情けない声が出てしまった。
「貴方ねぇ……ナマエさんは一応女性なんですから、デリカシーに欠ける行動は慎んでください。勿論他の女性にもですよ。ああでもそういえば、元から持ち合わせていませんでしたね。もう本当に死んで欲しい。何で私がこんな役回りを……」
珍しくフォローしてくれたかと思えば、言葉に棘がある。『一応』を抜くだけで印象は様変わりするのに、条野さんの中では純度の高い優しさをそのまま手渡すのには抵抗があるのだろう。
至極最もな指摘を受けた鐵腸さんは、どうして条野さんが憤慨しているのか判り兼ねているという顔をしている。嫌な予感というのはどうしてこうも当たりやすいのか。
「ナマエにしか触れたいと思わないから、他の人にはしない。大丈夫だ」
真顔で言い放った彼の強烈な台詞が脳天を直撃する。何ひとつ大丈夫なことなんて無い。水を打ったようにその場がしん、と静まり返った。その分心臓の音がはっきりと聞こえる。詰まらなさそうに自身の髪を指に巻き付けて遊んでいたY子さんだけは、玩具を得たとばかりにパァッと表情を明るくした。
「何じゃお前ら、揃いも揃って。ナマエに惚れておるのか?」
「副長、それは聞き捨てなりませんし、有り得ません」
「Y子さんまで何を仰るんです! さあ会議の準備しますから席に着いてください。Y子さんの好きなお茶請けもばっちり買ってきましたよ」
こうなったY子さんは早めに止めておくに限る。完全に玩具認定されてしまう前に。私にしか触れたいと思わない、という鐵腸さんの言葉に、正直どう答えるのが正解か判り兼ねていた。
「そうか……俺はナマエに惚れているのか」
意識を逸らそうと彼女の目の前にお茶請けを置こうとしたのに、得心がいったという風に彼が溢した呟きに、体の自由を奪われてしまった。条野さんがこれみよがしにやれやれ、というポーズを取る。
「え……今更っすか。てか気付くの遅すぎでしょう」
本日二度目の沈黙をややあって呆れ気味に消し去ったのは立原くんだった。
動けないでいる私の代わりにテキパキと会議の準備を進めてくれている。頭の中で鐵腸さんの発言を爆弾さながらに処理しつつ、「ありがとう」とぎこちなくもお礼を云うと「これくらいは全然です。むしろいつもありがとうございます」と立原くんは眉を下げた。
「君も気付いていたんですね」
「流石に気付きますって、あんなあからさまな嫉妬。気付いてないの当事者のお二人くらいですよ」
「かかかッ! 燃え種に火をつけてしまったようじゃのう!」
新事実が明るみになっていくのと同時、今までの彼の不可思議な行動が次々と思い起こされる。慥かにちょっと距離は近いなと思っていたし、出現率が高いなとも思っていた。嫌われてはいなさそう、むしろ。そうだ。見掛けたら近寄ってきてくれるし、荷物を持っていれば断る暇を与えず私の手から攫ってしまう。富醂を一緒に食べませんか、と声を掛けた時の途轍もなく嬉しそうに輝いていた瞳。てっきり富醂だけに喜んでいるものと思っていた。いずれもそれは、鐵腸さん自身も気付いていない恋慕に起因するものだったらしい。
どうしたら、とあたふたしながら彼の方へ顔を向けてしまう。パチリと合った視線は先程とまるで違った。琥珀色の双眸には、自覚して生まれたばかりの熱が揺らめいている。
意識しないなんて、無理だ。ずっと走り続けている心臓に付加されたその熱は瞬く間に全身へと及んだ。
今日の私は使い物にならない。ただ資料を運んできただけなんて。「いやぁすまん! 待たせたな諸君」と云いながら、彼ら猟犬の長である福地さんによって勢いよく開けられた扉の音で我に返る。
「……如何した、ナマエ。顔が真っ赤じゃないか。熱でもあるのか?」
「い、いえ! 気にしていただく程のことではありませんので!」
個性の強い面々がそれぞれに浮かべている表情にきょとんしたのち、一番様子が可笑しいと思ったのだろう私へと、福地さんが気遣わし気に声を掛けてくる。顔と手を思い切り振って否定し、立原くんへもう一度「ごめん」の視線を送った。
鐵腸さんからの視線は感じていたけれど返せないまま、Y子さんの黄色い声を背に私は会議室から退出した。
数メートル歩いたのち、その場に力なく膝をつく。握られた手の温度と腰に残った感触。剣を握る人の手。ごつごつとしていて、思っていたよりも分厚くて大きかった。無意識に反芻している自分の顔を手で覆う。次に会うときは一体どんな顔をして会えばいいのか判らない。鐵腸さんはきっと、いつもと変わらないのだろう。
接触する機会が多いわけではないから、避けようと思えば避けられる。けれど、顔を合わせる気まずさと、彼と話せない寂しさを天秤にかけたならば――。
あの琥珀色の中に捕まってしまうこと。そこには迷惑だとか怖いだとか、厭と云った負の感情は存在していない。嫌悪を抱いたのなら握り返された手をやんわり解いていた筈だ。
向けられたばかりの想いに立ち往生している。先行き不透明な心の行方、その舵取りはきっと思うままにはいかないだろう。だってこれからは、気持ちを自覚した鐵腸さんから更に振り回されることになりそうだから。
けれど、指の間からすり抜けていく呼気にはもうすでに、発露した感情が溶け出している。