彼がわたしの護衛の任に就いてから三ヶ月。今まで十一回人が入れ替わった。理由は単純明快だ。弱いから。腕の経つ人は慥かにいた。けれど、欲望を抑える術をどこかに置いてきてしまったようだった。
 両親からすれば、大事な商品に手垢をつけられてはたまったものじゃない。わたし自身、身を守る術は心得ているので、蹂躙されるようなことは無いけれど、やはり男の人の力には敵わない。
「この家に生を受けたことを良かったって思えたこと、一度もなかった。命を狙われ、自由に外へも行けない。両親がくれるのは愛情という名のお金だけ。やりたいことは何一つさせて貰えなくて、顔も何もかも知らない男の人へ嫁ぐために芸を磨く日々。媚びを売るのと顔色を伺って立ち回ることばっかり上達していくの」
 窓辺へ凭れて月に視線を投じる彼の横顔の輪郭が、ほの青く縁取られている。
 ただ酸素を吸って二酸化炭素を吐くだけの、灰で出来上がったような日々に現れた彼の存在は、にわかにわたしの世界に積もったそれらを一掃してしまった。
 寝台の上から彼へ手を伸ばした。「なかはらさん」と甘えるように呼べば、顔色ひとつ変えずにこちらへ来てくれる。
 寝台を軽く叩くと、やはり彼は抵抗すること無く腰掛け、まっすぐにわたしを射抜いた。肯定も否定もない。判らないなら聞いてみるしかない。
 寝台から降りて正面に立ち、彼の両手に自分の手を絡め、そのまま体重を掛ければ重力に逆らうことなく体が倒れて沈んだ。
 見下ろす蒼には一切の隙がなくて、その完璧さにくらくらする。彼を両親から紹介された日のことを思い出した。
「『宜しく頼む』つったのは、こういうことじゃねぇぞ、お嬢さん?」
「だって明日になったらもう、会えないでしょう? 実りもしないのに持っていなくちゃならないなんて、そんなの、寂しすぎる」
 感情の揺れ動くさまを、心が軋む痛みを身をもって知った。恋愛小説ばかりで蓄えた知識。拙い手管を鼻で笑われたらなら、諦めがついた、のに。
 シーツに縫いつけていた彼の手が、切ってバラして並べたわたしの恋心の傷口をやわく撫でるみたいにして、心臓の辺りへと置かれる。
「俺に心底惚れてるっつうんなら、どうすべきか、すべきじゃないか……アンタなら判るだろ?」
 わたしを女として見ない、唯一の人だった。任された仕事を絶対反故にはしない。そこに救われた筈の心が、しくしくと血を流している。
 仕事の範疇だったとしても、彼はわたしに純粋な興味を示してくれた。両親よりも彼の方がずっと、わたしのことを知っているだろう。
「ずるい人、ってよく云われない?」
「云われる程の関係性を築かねぇからな」
「ほら、ずるい」
 貴方と関われたって、確かな証がほしい。此の儘また心を摩耗して生きたくない。貴方がくれた優しさを失くしたくない。
 云いたいことなんてごまんとある。でも、彼の云う通りだ。欲にまかせて触れてしまったら、あの男たちと同じじゃないか。それに、彼から信頼を奪うようなことがあってはならない。わたしのこの想いは、彼の仕事にとっては邪魔でしかない。
「……今、何時だ」
「え? あ、えと、○時十八ふ、」
 自分で制御して踏みとどまったこと、それを見届けて褒めるかのように、彼はふっ、と笑みを零しつつ体を起こした。そして、唇へぬくもりが咲く。
「契約は昨日まで、だったろ」
 かぐわしい彼の香りと、先程一緒に飲んでいた紅茶の香りが鼻先で揺らめいた。喉を炙られたかのような熱さと痛みがせり上ってくる。
「俺と手前だけの秘密だ。これ以上は何も渡してやれない」
 出来た隙はふたたび閉じて、鉄壁を築く。それでも声音は真綿のようだった。
 目尻から零れた感情が頬を滑ってシーツに吸い込まれていく。この人の優しさを表す言葉が思いつかない。
 契約終了と同時に、わたしは嫁ぐことになっていた。それまで大事に大事に傷ひとつなく相手へ納品できるように、と。
 嫁いだ先が地獄とは限らない。けれど莫大な金額が動いているあたり、幸福とも程遠いだろう。
 拭われた涙のひと粒が彼の手袋の上で小さな水玉を作っていた。朝露みたいに晴れ晴れとしている。陽が登れば静かに消えて行くだけのそれにはもう、不思議と寂しさは感じない。
 ありがとう、って言葉のあたたかさを、教えてくれたから。邪魔だ、って切り捨てないでいてくれたから。
「この家に生まれて良かったって初めて思えたかも。……貴方と、会えたもの」
 実らない恋心をわたしに抱かせたことも、それを置いていくことも、許してあげる。