それぞれの女性に合った模範解答を用意するのは得意だった。自らの仕草ひとつで女性は頬に朱を咲かせ、表情ひとつで陥落し、頼んでもいないのにその身を差し出してくる。据え膳食わぬは男の恥だと云うけれど、腹を壊してまで食わねばならないのだろうか。まあ、ポートマフィアに在籍していた当時は色々と麻痺していたから、他から温度を感じ取ってはその刹那のぬくもりに何かしらの意味を見出したかったのかもしれない。
「太宰さん、何かお困りごとでも?」
「現在進行形でね」
「わたしでよければ解決のお手伝いしましょうか?」
社のソファで寝転ぶ自分にそう聞いてくれるのは彼女だけだ。顔に乗せていた雑誌をずらせば、垂れた彼女の髪が額を撫でた。ごめんなさい、と云いながら慌てて髪を耳に掛ける、なんてことはない女性がよくする仕草。なのに彼女がそれをすると、胸の奥で甘くさざめくものがある。
君に振り向いてもらうには如何すればいい、なんて云えばどんな表情をするのだろうと、少し好奇心めいた気持ちはあった。困ったように顔を赤くする彼女を想像したけれど、彼女はそんな容易ではない。きっとまた、思わぬ方向へと話が逸れるに違いなかった。
「お腹が空いたのだけれど、何分一人で食事は寂しくてね。一緒に食べてくれる人を探しているのだよ。君がもしよければ喫茶て、」
「じゃあ一緒にお弁当食べましょ! 鏡花ちゃんが作りすぎたらしくて先刻もらったところだったんです。重箱で」
「……それなら一緒に食べようかな」
「蟹クリームコロッケが入ってるらしいです」
「何だって⁉」
「折角ですし、屋上でどうですか?」
「そうしよう」
彼女にはどんな模範解答を用意しても丸を貰えた試しがないけれど、ペケを付けられたこともない。正誤が判らぬままに、違う角度からの模範解答を提出しても結果は同じだった。
それじゃあまたお昼に。気怠さを払拭でもするように流れ込んできた風が、軽やかに結ばれた約束を包み込んだ。楽しみが増えたことに、口元が緩む。それには気付かないふりをして、彼女へ手を振り返した。
屋上へ行くとひと足先に彼女が来ていた。隣へ腰掛ければ皿と箸を渡される。
「お茶もどうぞ。美味しいんですよここの。社長もお気に入りで」
「ありがとう」
朗らかな陽気そのもののような笑顔が眩しい。二人で一緒にいただきます、と手を合わせた。重箱には色とりどりのおかずが所狭しと詰められている。さっそく蟹クリームコロッケに箸を伸ばした。サクッと揚がった衣と蟹の旨味たっぷりのホワイトソース。相性は抜群だ。
「美味しいですね。鏡花ちゃんに改めてお礼云わなくちゃ」
「私も後で伝えよう」
美味しそうに頬張る彼女を見ているだけでもこんなに心が安らぐ。嘗ていた世界にはこちらを籠絡してやろうとでも云うような香水の香りとギラついた化粧品の匂いが充満していた。そして、夥しい量の血。
たくさんの花をこの|腕《かいな》にいだいて、花弁を傷つけてきたこと。それ以外にも煮詰まった恨みつらみがこの身を滅ぼそうとしたことも数え切れない。因果応報だと云うのなら、そうなのだろう。でも今は大人しくそれに食い潰される訳にはいかない。
ふと視界にひらひらと振られた彼女の手が入り込んだ。つい考え込んでいたようだ。箸の止まった私を、心配そうに覗きこんでくる。
「ごめんね、少し考え事をしていたんだ」
「……太宰さんはいつも先手先手で物事を見ていて本当に凄い方だなあって思ってるんです。今も何か策を講じて?」
「いや、そんな大したことじゃあないさ」
くだらない回顧にこの安らぎを台無しにされるのは御免だった。何でもないよ、と笑って次は何を食べようかと箸をさまよわせていると、彼女のお皿に乗っている小さいハンバーグが視界に入る。同じものにしようとそれを挟んだとき、彼女が云い聞かせでもするように静かに呟いた。
「貴方の知識、知性は|尊《たっと》ばれるべきものです。もちろん太宰さん自身も」
箸から落ちたハンバーグが皿の上で僅かに跳ねた。
「……君は、いつだって私を否定しないね」
「否定する要素あります?」
「迷惑噴霧器、唐変木、包帯無駄遣い装置」
「それは太宰さんが国木田さんの反応楽しむようなことするからですよ」
「私は頼りに、なる?」
「はい、とっても! 太宰さん、興味のない風をして面倒くさそうな仕事はコソッと終わらせていたり、根回しをして解決しやすくしたり、敦くんや鏡花ちゃんのこと優しいお兄さんの顔して見詰めていたり――他にも太宰さんの善いところたくさんあります」
「そ、うかな。自分じゃ判らないけれど」
「この前だってわたしのこと助けてくださったでしょう? 預かってた社長のお手紙に珈琲を零してしまって……社長は外出中で、でもその日の内に投函しないといけなかったとき、許可をもらって筆跡を真似たお手紙書いてくださったじゃないですか。誰にでも出来ることじゃないです」
いつの間にか彼女がこの場の主導権を握っている。彼女に興味を持ってほしくて色んな手を考えてきた。自分の思った反応が返って来なかったから、なんてあまりに短絡的すぎる己の思考に情けなくなる。私が彼女を見ているように、彼女もまたこんなにも自分のことを見てくれていた。
一陣の風が髪を揺らす。雀が二羽寄り添うように柵の上で羽を休めていた。嗚呼、今のこのひとときがずっと続いてほしい。
「もっと、褒めて」
彼女から与えられた安らぎが流れ込み、願望が内で爆ぜる。反射的に彼女の方を見て、そして。
「ふふ、太宰さんお顔溶けちゃってますよ。そんなに嬉しかった?」
「……うん、嬉しい」
「じゃあこれからもたくさん褒めますね」
「自分が褒めて伸ばされる側になるとは思わなかったな」
否定しないでいてくれて、面と向かって惜しげも無く私を讃美する、その陽だまりが肩を揺らしている。彼女自身に惹かれているのは勿論、自分はきっと彼女からの言葉を何よりも拠り所としているのだろう。
皿の上に着地しているハンバーグを箸でしっかり挟んで口へ運んだ。嬉しさの余韻が唇の端に残っているのを感じながら飾り切りされた人参を眺めていれば、彼女がもう一度口を開く。
「あのね、太宰さん」
「なんだい」
皿にまた落としてしまう前にと人参を口に放った。彼女は何を云うか予測がつかない。
「貴方の好きなようにしていいんですよ」
「……」
「え、と、待ってそういう意味では……!」
「じゃあ如何いう意味?」
人参は即座に飲み込んだし、皿と箸もちゃんと置いた。一度堰き止めていた願望を口にしてしまったから、行動にも如実に出るというものだ。彼女の頬に触れ、親指で柔らかな唇をなぞれば、顔を赤くし慌てている。
「と、とにかく! あんまり考えすぎないでほしいんです。相手に喜んでもらいたいって考える気持ちは判ります。でもその、太宰さんは先回りどころじゃないといいますか……嫌なときは嫌って云いますし」
「……うん、判った。そうするよ。私からも一ついいかな?」
「なんですか?」
「私の前から勝手に居なくならないでほしい」
去る者は追わない筈だった。でも彼女が自分に背を向けて一度も振り返らない様を想像しただけで、心臓がひりひりと痛んだ。
「罵倒だって、張り手だって、何だって受ける。だから何も云わずに消えることだけは、しないでくれ。……もし消えたのなら、未練がましく君を最果てまで追い掛けてしまうかもしれない」
回りくどいことをせずとも、こうして伝えていればよかった。驚きに見開かれていた瞳がゆっくりと形を変えて、臆病風の吹く自分の心に彼女の影が優しく差す。
「太宰さんからそこまで想ってもらえるなんて、自信にしかならないや」
両腕いっぱいに、取りこぼさないようにと私の気持ちを束ねて彼女が笑っていた。
「……ごめん、先に謝らせて。後からちゃんと叱られるから」
彼女の膝上の皿をサッと取り上げ端に置く。ブロッコリーとミニトマトが戸惑うようにころりと揺れた。
「え、だざ」
堪らず重ねた唇の柔らかさに溺れそうになる。何が百戦錬磨だ。大切すぎてこわごわ手を伸ばしては引っ込めを繰り返しすしか出来ないでいた自分に、苦笑するしかなかった。