今まさに、窮地に追い詰められた小動物の気分を味わっている。
あらゆるものが凍てつく真冬の早朝のような冷ややかさをはらんだ紅の目が、私に据えられている。抜き打ちチェックとでも云うように伸ばされた嫋やかな手が、私のお腹周りに狙いを定めたかと思うと、シャツの上からやや強めにそこをギュッと抓った。
「い゛っ」
「……のう、ナマエ」
「な、なんでしょう……紅葉さん」
均等に吊り上がった口角に反して、私に向けられている笑顔には温度が感じられない。痛みでしかめてしまった顔を元に戻す。最初から痛みなど感じていないかのように。そうでなければならないと、本能が警鐘を鳴らしていた。
「"これ"は何じゃ?」
「え、あ、えっと……」
「……」
「た、怠慢という名の贅肉です……」
毎日乗っていた体重計、彼女が直々に組んでくれた筋トレメニュー、バランスの良い食事。目標を達成するまでは完璧にこなしていた筈のそれらが脳内を駆け巡る。最も難しいのが『維持』だ。
ジャケットで隠れているからと油断していた。都合の悪い事実は白日の下に晒され、罪状を突きつけられる。弛んだ空気を裂くように、笑みの形に細まっていた目が見開かれた。
「幸せ太りというやつかのう?」
押し黙った私に彼女はこれみよがしに溜め息を吐いた。
「全く……中也にも困ったものじゃ。甘やかしすぎも程々に、と云い含めておったのじゃがな。ナマエのことになると聞く耳を持たん」
ダイエットを開始するよりもずっと前から自覚していた彼への想いも、ダイエット同様順調に育っていった。あと少しで目標を達成するというときに、彼からの告白を受けて交際へと至ったのだ。彼も応援してくれ、無事に目標達成は叶ったし、彼女もほっとした様子で喜んでくれた。何しろ組まれた筋トレメニューがなかなかのものだったから。
達成感とゴールを混同してはならなかった。そもそもダイエットにゴールは無い。これまで封じてきた『ご褒美』と名の付くものたち。『頑張ったから少しくらいいいだろう』舌の上に乗せると一瞬でほどける綿菓子のような言葉。鋼の精神で抑え込んでいたものの、既に罅でも入っていたのか、亀裂は瞬く間に広がった。一度口に含んでしまえば、そこからはもうタガが外れて『少しくらい』の境界が曖昧にぼやけていくだけだった。
「こら、喜ぶでない」
慥かに彼は私に甘いし、こちらが申し訳なくなるくらい優しいときもある。私のことになると聞く耳を持たないという彼女の言葉に、にへらと頬を緩めていると、ペチンと扇子で額を叩かれた。
「俊敏性を上げたいと申したのは何処の誰であったかのう?」
「うっ」
「お主の戦闘能力は並じゃ。生来のものは簡単には変えられん。ならば物理的に己を軽くするしかなかろう、それが近道じゃと結論が出たのは覚えておるな?」
「はい……」
「振り出しに戻りたいのかえ?」
「戻りたくありません!! あんな、キツい思いもうしたくない……」
「あの努力を無かったことにはしたくないであろ? ならばお主のすることはひとつじゃ。判っておるな?」
以前の私は動きにキレがあるかと云われれば首を傾げるレベルだったし、標準体型ではあったが、かなり改善の余地はあった。無駄な脂肪を削ぎ落して筋肉をつける。実にシンプルだ。それに、ポートマフィアに属す以上は少しでも力をつけておくに越したことはない。組織の為にも自分の為にも。
筋トレがあまりにもキツいと弱音を吐いたら、拷問よりはマシ、と彼女に云われたことがあったけれど、声を大にして比べるものではないと反論したかった。思い出すと身震いがした。この程度の贅肉ならば、あそこまでキツい思いをしなくとも消せるはずだ。
この段階で指摘してくれたのは、彼女の優しさかもしれない。
§
執務室を叩敲して扉を開ければ、難しい顔をしながら書類に目を通している彼が居た。彼が留守にしている間は、明かりをつけても沈んでいるように見えたのに、部屋の主がいるだけで執務室全体が華やいでいるように見える。
「中也さん、お帰りなさい!」
「おう、ただいま」
久しぶりに会えた嬉しさからか、つい声に力が入ってしまった。五月蝿かったかも、と反省しながら中へ進めば、椅子から立ち上がった彼が、大股で此方へやってくるや否や、両手で私の腰周りを掴んだ。
「ちょっ、?! 中也さん!?」
「肉が、減ってる……?」
「云い方……! せめて引き締まったって云って!」
彼が任務を終えて戻ってくるまでの一ヶ月間。それが私に与えられた期間だった。
久しぶりの再会を喜ぶような空気では勿論なく、彼の手が両頬、肩、二の腕、と順に以前の私の面影をなぞるように触れてくる。
「中也さんなら見ただけで判りそうですけど」
「まァな」
「……じゃあ何で触るんですか」
「そりゃあ触れたいだろ。久しぶりなんだし。それに理由があった方が、手前は素直になる」
ゆるめられた蒼の双眸に、視線だけじゃなく言葉も絡め取られる。図星です、と顔に貼り付けることしか出来ない。
毎日が早送りのように過ぎ去って行っても、彼と会えない寂しさはしっかりと募っていた。
「順番に確かめるより、こっちの方が早かったな」
彼は私の機微に敏い。背中と腰に回された腕に力が入り、そっと私の躰を抱き寄せた。寒いと寂しいは似ている気がする。
「……紅葉さんが、必要以上に甘やかすな、と。私の意志が弱いのも駄目なんですが」
「あ――、手前が美味そうに食べるとこがなんつーかこう、小動物っぽくてつい、な。あれもこれもって食わせすぎちまったな」
彼の肩に顎を乗せながら、私だけの為に差し出されたぬくもりに身を浸す。冷えた末端からじんわりと流れ込んでくる彼という存在の大きさ。触れた瞬間に感じる圧倒的安らぎに、武装している心はいつも泣きそうになる。
「手前を甘やかすのは変わらねぇが、甘やかし方を変えるか……でないとまた姐さんからドヤされちまう」
私よりも私の手綱を握るのが上手いひと。彼が紡ぐ言葉は蜂蜜みたいだ。喉をとろりと優しく通過していく。甘やかさないという選択肢は無いと云われて、誰にも見せられないほど顔がだらしなく緩んだ。
「お、そうだ。一緒に筋トレでもするか? 要は食い物じゃなくて、体動かすとかそっちの方がいいってこったろ?」
妙案じゃねぇか、とでも云いたげな彼の提案に、声帯を雑巾搾りしたような悲鳴じみた声が出る。彼の胸元を押せば、背中に回った腕から力が抜けた。そろりと抜け出して後退りながら、今しがたの提案を反芻してみる。
「む、無理です……! 中也さんの肉体美を間近で拝みながらなんて」
「だからだろ」
「へ?」
「手前にとっちゃ、ある意味ご褒美だ。自分で云ってたじゃねぇかよ」
「そう云われればそう!」
何とも合理的である。一石二鳥。これなら下手に食欲に火がつくことも無い。そう考えれば提案を蹴る理由もすっかり無くなってしまった。
それ以上離れるな、と手を取られて、じりじりと後退りしていた足を止める。大人しく足を止めるべきではなかったと直後に後悔した。彼が私の手のひらを自身の胸元に持って行き、その上から蓋でもするように手を重ねたからだ。
「俺の躰なんざ、散々見て見慣れてるだろうに。なんか違ぇのか?」
すっと細まった目元に凄艶さが滲む。今は彼の表情を見てもいけないし、婀娜の咲いた声を身の内へ招いてもいけない。彼へ釘付けになっていた視線をなんとか剥がして頭を振る。
「それとこれとは別ですし、何回見たって慣れないし、なんかもう色々とやばいんです!」
「逆上せちまいそうなくらい真っ赤になるもんな?」
「誰の所為だと……!」
「俺」
あっさりと認めた彼の声は幾分か低かった。やや明度を落とした暗く蒼い双眸が、突き刺さんとする鋭利さでもって私を射抜く。
「手前にそんな顔させられンのは、俺だけだろ」
手足の自由をも奪ってしまいそうなその声は鎖を彷彿とさせた。冒頭の会話の安穏さをふと思い出して、今とはえらく温度差があるなと思った。春から冬へ逆戻りでもしたような。
「折角の努力に水を差しちまったンだ。責任はちゃんと取る」
云っていることは真っ当に聞こえるのに、何故だか肌が粟立った。彼に万歳をさせて脱がせた建前を裏返したならば、一体何が隠れているんだろう。
後退りしたからか、今はもう扉の方が近い。このまま仕事に戻ります、と退出してしまった方が賢明かもしれない。
「じゃあ、私はそろそろ……」
一八○度躰の向きを変えて、扉へと歩き出す。すぐに辿り着いた出口に安堵を覚えるも、ドアノブに彼の手が覆い被さった。
背後を取られながら、彼の顎が私の左肩に乗せられる。呼吸の音が鼓膜に忍び込んでくる。彼の頬が私の頬に触れた。自分でない人の体温と匂い、肌の柔らかさにどんどん顔が紅潮していくのが判る。
上司にも感じた追い詰められるこの感覚を、時には見守り、時にはご褒美をくれるという協力関係であるはずの彼からも感じるのは何故なんだろうか。
囁かれた自分の名前が、びっくりするほど甘く濡れそぼっていた。彼の左手が右耳の下を通り、輪郭から頤までをつう、と伝う。擽ったいのとも違うそれを逃がすため出そうになる声を、喉奥で押し殺した。
建前を裏返した本音には、心当たりがあった。
ポートマフィアきっての体術使いと謳われるだけあって、彼の体力は私にとっては底無しに思えるほどだった。当然ついていけるわけもなく、やんわりとお断りする日が続いて、そのまま彼は一ヶ月の遠征に出立したのだ。
私への交渉材料として有利すぎるものを手に入れた彼の心做しか嬉しそうな表情に、白旗を上げる回数が増えそうだ、と覚悟するしかなかった。