彼女の姿を視界に捉えて掛けようとした言葉は、虚しく地に落ちて小石のように転がった。
 柔らかい毛布で包むような優しい視線の先には中也がいる。忌々しくて、舌打ちする前に彼女の名を少しぶっきらぼうに呼んでいた。
 中也が眼光鋭く太宰の癇癪を突き刺した。彼女との会話を終えると、外套を翻してそのまま去っていく。
 こちらへやって来た彼女の笑みは、すでに『仲間向け』の笑顔に変わっていた。指のささくれを剥いて血が滲んだ時のような鈍い痛みが走る。
 自分が欲しいのはそれじゃない。もっと心に浸潤してくるような、凝った何かをゆっくりとほどく真綿のような優しい瞳。
「話し中にごめんね。中也、何か云ってた?」
「うーん、特には」
「『タイミングが良すぎる。また得意の厭がらせか』とか何とか云ってたんじゃない?」
「……あの距離で会話聞こえてた?」
「真逆」
 目を丸くしてぱちぱちと瞬きしたあと、彼女は柔和な笑みを作った。作った、というより内側から滲み出てしまったみたいに。その後に続く言葉を知っている。『相棒』を甘んじて受け入れているのは、組織の為になるからだ。ここぞというとき不協和音は鳴りを潜める。
 中也ありきの称賛なんて毒に等しかった。口に含めばたちまち内臓を焼かれてしまうだろう。
「中也くんのこと一番判ってるのは、太宰くんかもね」
「よしてくれ、悪寒がする。気絶でもしてしまいそうだ」
「ふふ、肩でも貸しましょうか?」
「君に介抱してもらえるなら、中也も偶には役に立つ」
 仕事で勝利への布陣を敷くのは簡単なのに、彼女の心をこちらへ向けるのは骨が折れるどころか、悉く実を結ばない。
 光の届かない暗い海底をさ迷っている深海魚のままでいさせてほしかった。
 ただの厭がらせだと断言出来れば、どれほど善かっただろう。