翻弄されることを望んでいる訳ではないのに、この気持ちが露呈してしまったら彼女が微笑んでくれなくなるような気がして、ずっと踏み込めずにいる。

 玄関から入り、寝室へと進んだ。勝手知ったる他人の家。非常に不本意ではあるけれど。
 脱ぎ散らかされたスーツや下着――極力視界に入れないように――を避けながら目的の人物の元へ行く。
「ナマエさん、起きてください。遅刻しますよ」
 こんもりと盛り上がった布団の山に声を掛ければ、寝ぼけて輪郭の曖昧な呻き声が聞こえた。
 紅葉の麾下である彼女をこうして起こしに来るのは、もう何度目か数え切れない。
 中也がポートマフィアに加入して紅葉の直麾部隊に配属後、彼女と出会った。任務を共にする中で彼女の人となりに惹かれていき、現在はすっかり面倒みの良い弟のようなポジションに収まってしまっている。実際彼女も中也のことを弟のように思っているだろう。
「おはよう、ちゅーやくん……ねむい、あと五分……」
「放っておくとそうやって一時間は寝るでしょう? 布団から出てきてください。でないと俺が剥ぎ取りますよ」
「追い剥ぎだあ」
 もぞもぞ動いたかと思えば、動きがピタリと止まりゆっくりと山が呼吸し出す。これはもう剥いでいいだろう、と思ったけれど、それが間違いだった。
 勢いをつけて布団をのけ、一時停止したのちまた勢いをつけて戻す。
「さむ、え……あれ?」
「……勘弁してくださいよ……なんで、Tシャツ一枚なんすか」
 彼女は猫のように躰を丸めており、捲れた裾からは薄い腹が見えていた。下はショーツのみ、朝日を浴びた艶のある肌が白く浮かび上がっていて、折り畳まれた奇麗な足も含め、脳裏に焼き付く前にと、頭を振って追い出そうにも刺激が強すぎて難しい。
 そもそも自分は何も悪くないのだ。中也をこうして家に上げ、あまつさえこんな姿を無防備に見せる彼女が悪い。それに今まではきちんと部屋着なり、パジャマなりを着ていた。昨日は紅葉と飲みに行ったと云っていたから、酒の影響もあるのかもしれない。
 目元を覆いながら瞬間的に生まれた熱を逃がすように、静かな溜息を吐く。そうして落ち着くまで呼吸を繰り返していると、観念したように彼女が布団から這い出てきたため、慌てて後ろを向いた。クローゼットに掛けてあるスーツを取って、後ろ手に渡す。
「ありがとう。中也くんて全然怒らないよね。紅葉と似てるかも。紅葉も仕方ないって云いながらお世話してくれる」
 それは彼女のことを好いているからだ、紅葉と中也の好意に違いはあれど。喉元まで出かかった言葉を胃に追いやった。
「さあ、着替えて行きま――」
 時間に余裕を持ってここを訪れたとは云え、彼女のペースに合わせていたら結局ギリギリになってしまう。もう一度促しておくか、と放った台詞は中途半端のまま立ち消える。どさ、という音に反射的に振り返ってしまったその先で、彼女が寝台から上半身だけ落ちていたからだ。
「ったた、寝ぼけすぎだね、わたし……」
 上半身を起こし、床と平行になった彼女の襟から覗く滑らかな肌と膨らみに、中也の思考は一瞬にして焼き切れてしまった。
 気付けば中也は、彼女の躰を組み敷いていた。寝台に散らばる彼女の髪が、頭の横についた中也の手にも掛かっていて、かすかに感じていた花の香りは濃く咲き乱れている。
「……ナマエさん、無防備にも程がある」
「ちゅうや、くん……?」
「俺は弟なんかじゃあない」
 悪気はないのだろうが、それは中也にとっては責め苦を味わうのに等しい。男女という間柄で、かつ自分は相手に好意を向けているこの状況下においては、寄せられる信頼も信用も到底喜べるようなものではない。
「うん、ちゃんと判ってる」
「いいや、アンタは何も判っちゃいねぇ」
 腹の奥底で渦巻くこの熱は、自分の気持ちを侮られているという怒りだろうか。それとも中也の前で易々と肌を晒すことに対するものだろうか。もっとその身を大切にしろと。まんまと情欲に火を点けられ、それを御しきれない自分への情けなさに対する八つ当たりもあるかもしれない。
「わたしは中也くんのこと、ずっと一人の男の人として見てたよ」
 互いの呼吸音さえ聞こえない、真空の静寂。瞼の限界まで見開いた目。
 彼女の声からは眠さが一掃されていた。朝日によって蒸発したかのようだった。ついさっき起きたばかりとは思えないその声が、中也を否定する。
「中也くん、今日は午後から任務でしょう。紅葉から頼まれた訳でもないし、自分の仕事もあるのにこうしてわざわざ時間を割いて、毎回起こしに来てくれるのはどうして?」
 異性として意識されていないと思っていた中也は、彼女が落とした爆弾発言とも思えるそれをまだ扱いあぐねていた。
「……わたしそんなに鈍くないよ。それにね、実はわたしも今日は、午後からなの」
「は……」
「うそついてごめんね」
 これでもほんとうに判ってないって、思う? 甘やかな泥濘のような声が臆病さに絡みついた。次々と投下される爆弾は容赦なく、中也の拗れた思い込みを粉砕していく。
 中也の気持ちを知っていて、彼女は常と変わらぬ微笑みを湛えていたのなら。
「……お膳立てしてくれたってことですか?」
「カマをかけた、とは云わないところが中也くんらしいよね。そこまで計算できるほど器用じゃないかな。中也くんが踏み込んできてくれるきっかけになったらいいな、とは思ったけど。あ! 誤解のないよう云っておくと、寝台から落ちたのはわざととかそういうのではなくて……」
「ふ、ありゃあナマエさんの素でしょう」
 ごにょごにょと言葉を濁す彼女の顔がたちまち赤く染まっていく。
 不満そうに引き結んだ口許が可愛らしくて、中也はゆっくりと顔を近付けた。交わし合う視線は導火線のようでもあった。彼女の瞼がおろされ、唇から伝わる熱さを丁寧に掬いあげる。
「据え膳になんてしないで。……わたしだって、ずっとあなたに触れてほしかったんだから」
 何とか自分を支えていた理性の柱は、彼女によってあっけなく手折られてしまった。
 どうやら観念しないといけないのは、自分のようだ。