「準備出来たか?」
「ばっちりです!」
潜入任務の為の準備を終えた頃、私の様子を見にやってきた彼の顔には、微かに心配の色が浮かんでいた。
「頼むからヘマしてくれるなよ。俺ァ、別件で手が離せねぇ」
「ぜ、善処します!」
「そこは任せてください、だろ。ったく……」
呆れに穏やかさの滲む声で笑われながら、彼の左手が後頭部に回った。それから彼は右手の中指の先端を口に咥え、見せ付けるようにゆっくりと手袋を外す。外した手袋を布嚢へ入れると、長いその指で私の額を軽く小突いた。情けない呻きをあげれば、彼の手が素早く私の顎を捉える。
「もう一度聞くが……準備に抜かりはねぇんだな?」
直前の和らいだ空気を切り裂くように、蒼の双眸が細められた。上司としての顔に近いけれど、別種の威圧感も感じて、思わず喉がごくりと上下する。
「な、いです」
「よし、なら……」
彼の親指が何かを請うように、下唇を数回とんとん叩く。不可思議な行動の意味を推測し兼ねていると、焦れるように親指がもう一度唇を叩いた。
「口、開けろ」
「へ、あ……っ!」
短い命令にも似たそれに間抜けな声を出したと同時、親指が口の中へ侵入し下の前歯を上から押さえ付けた。思いのほか強い力に動揺してしまう。彼の突然の行動にどうすればいいのか判らない。
静寂の帳がおちる室内で、当惑する私の息遣いと、音のない彼の笑みが層を織り成していく。歯にかけられている一定の力は、口を開いておけという意味だろう。素直に従えば、それでいい、と褒めるかのようにまばたきを一つする。
前歯から親指が離れたのも束の間、今度は舌に圧迫感を感じた。びくりと揺れた肩に、彼がぬらりと自身の赤い舌を覗かせて口端をつりあげた。凄絶な笑みには、いつもの妖艶さは欠片もない。
舌に乗る力は強くも弱くもないけれど動かすことは出来なかった。力が僅かでも強まるか、親指の位置が喉奥の方へずらされればえづいてしまうだろう、そんな絶妙な位置で留まっている。
生々しい彼の親指の感触に、言語化出来ない感情に見舞われた。
今から一体何をされるのか。彼の雰囲気はまるで別人だ。上司や恋人として今まで見てきたどの顔とも一致しない。
背筋を冷たい手でなぞられているかのようで、油断すれば彼の獰猛さにみっともなく震えてしまいそうだった。
ギラつく牙を前に、命を掌握されているような錯覚に陥る。彼は紛れもなく捕食者だった。
「やっぱりな」
「……?」
「万一のときの為に、奥歯に解毒薬仕込んどけって云ったろ」
「!」
「準備不足だ。不合格」
舌の上から指がのけられ、威圧感も圧迫感も何もかもが立ち所に消えてしまった。
最初の問いへの答え方を間違えた時点で、こうなることは決定済みだったのだろう。
云い訳をせず、反省の色を見せる私の頭を彼が優しく撫でた。
「俺が、怖ぇか?」
「……」
「正直に云っていいぜ」
「か……かっこ、よすぎて、こわかった、です」
知らなかった彼の新たな一面に、慥かに恐怖は感じた。目を真っ直ぐに見ることが出来ず、しどろもどろではあったけれど伝えたことは本心でもあった。
「……莫迦だなァ、手前は。乱暴に扱われて、んな可愛いこと云いやがる。少しの油断が命取りになるって、もっと叱りたかったんだが――まァ、これでもう流石に準備し忘れはしねぇだろうから、いい」
垣間見えた仄暗さが目に焼き付いて離れない。けれど、重なった唇のあたたかさに、恐怖心は掻き消えてしまった。
彼の舌の柔らかさに安堵する。指よりも舌がいい、とは云えず、彼からの口付けを甘んじて受けた。
不穏さにあてられてまだ忙しい私の心臓に詫びて宥めるように、彼は接吻を降らせた。
欠けた月が満ちていくみたいに、それらが胸の内に積もっていった。