猫のように首根っこを掴まれる経験なんて、そうそうないと思うのだ。
逃げても逃げても目の前に立ちはだかるその人物の不敵な笑みは、夢の中にまで出てきてわたしを震え上がらせる。可愛い部下に対してもう少し手心というものを加えてほしい。
「無理強いは厳禁ですよ!」
「なぁにが無理強いだ! 手前が逃げてるだけじゃねぇか! ちょこまかちょこまかと……俺ァ、手前を鍛えるように姐さんから頼まれてンだよ! 鬼ごっこしに来たんじゃねぇ!」
「だって中原幹部、全然手加減しないしスパルタすぎるんですもん! 痛い! 怖い! 優しくして!」
「これしきで音を上げてんじゃねぇよ! 十分優しいだろうが! 手前の初任務まで時間が無ぇってのに、それまでに異能使いこなせるようになってもらわねぇと困るんだよ!」
「褒めが、褒めが足りない……鞭を少なくしてもっと飴をください!」
「残念ながら過剰な褒めは、手前にゃ逆効果だ」
そんなことはない、と反論しようとしたけれど、思い返せば慥かに彼から褒められると、ふわふわとした心地になって手元が狂う率が高かった。
はァ、とこれみよがしに溜め息を吐いた彼はようやっとわたしの襟首から手を離す。
「どこに行こうが俺の目から逃れられる訳ねぇだろ。諦めの悪さは一級品だな。その諦めの悪さを鍛錬のときに見せてくれりゃあ、ちったァ違うんじゃねぇか?」
「一級品……褒められてる気がしない」
「褒めてるか貶してるかは時と場合による」
わたしの異能は広範囲に影響を及ぼすものであるため、他へ影響が無いようにと昨日、今日と山岳地帯を訪れていた。
彼からしごかれて泣き言をもらすわたしを嘲笑うように燦燦と降り注いでいた太陽は、今やまばゆいオレンジ色を纏って地平線へとその身を沈めようとしている。太陽にかかった雲を突き刺すみたいにして放射状に広がる光が幻想的だった。静かに迫る薄闇が辺りをつつむように立ち込めている。
「もう日も暮れますし、終わりにしませんか?」
「俺の台詞を譲った覚えは無ぇが? おら、最期にもっかいやってみろ」
「ええー……」
これでも諜報員として属しているのに、彼はいとも簡単にわたしを見つけてしまう。地上に分が無いなら海か空――だが彼は泳ぎも得意でなんなら重力を操る。
無数にあるルートはことごとく彼によって塞がれてしまい、どこにも逃げ場が無いことに気付いた。こんな超人に教えを請えと命じた尾崎幹部の雅やかな笑みが浮かぶ。
「その顔……まだ逃げる隙を伺ってンのか? 手前の思考や行動パターンは把握済みだぜ?」
「いえ……脳みそひっくり返しても何も出てこないので、詰んだかと。中原幹部といると雑巾絞りされてるような気分になります」
「その絞りに絞ってやっと出てきた一滴っつうのが、手前が努力した証だろ。しっかし、まだ足りねぇなァ。もっと追い込みてぇとこだが……今日は時間無ぇからまた明日にして、」
「もっと⁉ これ以上なんてわたし、からっからの干物みたいになっ」
「ごちゃごちゃ五月蠅ぇな、つべこべ云わずにやれ。でなきゃ……」
黄昏時の空で昼と夜が遊ぶように交錯している。逢魔が時――魔物に出会う時間帯。光が地平線に集束していく中、影の差す笑顔が目前に迫る。得体の知れなさを内包した表情、近付いてきて漸く頭の中で警鐘が鳴る。まるで隠り沼のような彼の外套が怪しく風に揺れた。
「喰っちまうぞ」
明度の落ちた蒼眼の鋭さは牙にも似ていた。好物を前に待てをさせられた獣の唸りのような、低く抑揚のついた声音が全身を飲み込む。どくどくと耳の内で心臓が鳴っているのが判る。血液の流れを制御することが出来ないように、熱の行き場を隠し通すことも出来ない。
青褪めて無理やりにでもやる気を出すわたしを見たかったのだろうか。だとしたら大誤算である。身を縮こまらせながら、顔を真っ赤に火照らせたわたしを見て、即座に意味を理解したらしい彼が目を剥いた。
「なっ、そういう意味じゃねぇよ! 勘違いすんな!」
「中原幹部が悪いんですよ! そ、その顔はえっちすぎるでしょ!」
「はァ⁉」
「もう存在が十八禁! 悪霊退散!」
「誰が悪霊だ!」
「じ、じゃあ魔王!」
「手前ェ!」
距離を取りつつ云いたい放題していたけれど、怒れる彼がいたたまれない空気を混ぜ返すように一歩を踏み出した。
気付きたくなかった。少しでも苦手が無くなるようにと根気よく付き合ってくれていること。褒められると叫び出したいくらい嬉しいこと。そして誰よりもわたしを理解し、毛布でも掛けてくれるみたいに、その言葉たちが優しい温度に満ちていること。
部下に向ける気のいい笑顔だけを知っていればよかった。『男の人』の顔であんなことを云われて平気でいられる筈がない。
ずっと認めたくなかったものを、強制的に発露させられてしまった。
「わたしをいじめた罰として、明日は手加減してください!」
「それとこれとは別だろ! つーか、別に虐めてなんか」
「手加減してくれないなら、に、逃げますからね! 尾崎幹部にも云いますから!」
「おっまえ……それは、やめろ……」
掴まれるのは、首根っこだけで十分だったのに。