砂糖漬けの呪詛 02
「あの、ナナさん」
「ナナとお呼びくださいませ、賢者様」
「じゃあ、ナナ。ここに来てもよかったんですか?」
「それ以外の選択肢がありましたか? それに、いいんです。先生らしいと言えば先生らしいですから」
ㅤ先生は死してなお、わたしを縛りたがっている。なぜそこまでわたしに執着するのかはわからないけれど、自由に生きることも死ぬ事もできないわたしはスノウ様とホワイト様のお膝元で飼い殺されるしかない。
ㅤ新たな賢者に選ばれた人間は、少しも悪いことをしていないのに申し訳なさそうな顔をしている。流されやすそうな雰囲気は、彼女本人の特性によるものか、育った文化圏の傾向によるものか。いずれにしても、わたしたちとはファーストネームとファミリーネームの順番が逆だなんて、変わった文化の世界から来たものだ。
「賢者様、召喚の儀式は終わったのですか?」
「あ、はい。今日のお昼に……」
「左様ですか。では、もうしばらくしたら来るでしょう」
ㅤ今度は、新たな魔法使いたちがちゃんと来てくれるか心配になったらしい賢者様は表情をくもらせた。同性だからこそわかることもあろう、と双子はおっしゃっていたが、彼女の不安に寄り添うならば今日来たばかりのわたしよりも、前日に顔合わせを済ませて多少なりとも絆を育んでいる彼らのほうが適任だと思う。どうすればいいのかわからなくて、彼女の気を逸らすためにも何か知りたいことはあるかと問うと、彼女はぎこちなく口を開いた。
「あの、ナナはどうして子どもの姿だったんですか……? その姿が本当の姿なんですよね?」
「先生……わたしの師匠との関係を変えたくなかったからです」
ㅤ続きを聞いていいのかわからない。そんな声が今にも聞こえてきそうな逡巡を顔に浮かべた彼女は、わたしの様子を伺うように閉口した。何も、わたしと先生のあいだに溝があったわけでも、色恋があったわけでもない。ただ少し、先生の純粋な愛情をわたしが受け入れられなかっただけだ。
「ナナの先生って……」
「アルマンですよ。〈大いなる厄災〉の襲来に耐えきれず、呆気なく亡くなりましたが……東の魔法使いでありながら、北の気質も持つ危険な人でした」
「すみません……」
「お気になさらないで。もう十分すぎるほど生きた人ですから」
ㅤ先生はわたしを拾い、育てた。感情の起伏の少ない人だったけれど、彼の愛情は優しく、穏やかなものだった。燃えたぎる炎のような苛烈さはなく、春の木漏れ日に吹く風のような穏やかさだけをわたしに見せていた。だからこそわからない。どうして今さら、わたしを縛ろうとしているのか。
「そろそろ部屋に戻りますね」
「は、はい。あの、ありがとうございました」
「どういたしまして」
ㅤ先生は秘密主義だ。考え込んでもわかることではない。家族も生まれ故郷も、明かしてくださったことはないのだ。
ㅤ賢者様の部屋から出ると、廊下の先にある窓から〈大いなる厄災〉の姿が見えた。禍々しく美しい、冷たいその星は世界中に大惨禍をもたらした。魔法使いにも、人にも、魔物にも、悲劇と喜劇を生み出している。世界が滅ぶことが魔法使いにとって悲劇になるのか喜劇になるのかは、わたしの預かり知らぬところではあるが、〈大いなる厄災〉の襲来で東の魔法使いは二人が石になり、一人が仲間を庇って瀕死の重傷を負ったそうだ。少なくともそれは、魔法舎にいる魔法使いたちにとっては悲劇だろう。
「は、離してください……! 俺はただ……」
ㅤ不意に、階下から叫ぶような声が聞こえきた。かすかなざわめきと共に、カインと名乗った魔法使いの声も聞こえてくる。この騒ぎでは、どのみち双子に呼ばれるに違いない。しばらくここに住む身としても、厄介事や面倒事を無視するわけにもいかない。溜息をつきながらも階段を下りていると、階段をかけ上る金髪の少年とすれ違った。背後で彼の足音が止まり、わたしを見つめている気配がした。あなたも下に行ってくれ、と言うか言うまいか悩んでいるのかもしれない。
「賢者様はお部屋に。下で何かあったんでしょう?」
「あ……う、うん」
ㅤ内向的で人見知りな彼は、確か同郷出身だ。賢者の魔法使いのうちの、東の魔法使いには彼──ヒースクリフとしか会っていない。他人を庇って死にかけた東の魔法使いは、今は自室で療養中だそうだ。今しがたヒースクリフが呼ぼうとしているのは、まさか絶対安静の怪我人ではないだろう。食堂には人間一人と魔法使いたちの気配があるし、あそこにいないのは、部屋にいらっしゃる賢者様とわたし、それから件の怪我人くらいだ。
ㅤわたしの言葉に頷き、ややあってハッとした彼は賢者様のもとへと駆けてゆく。やがて慌ただしい足音が遠のき、わたしも食堂に入るとカインとシャイロックがわたしを見やった。
「ムルが不審者を捕まえたんですよ」
「ふ、不審者じゃありません!!」
ㅤ一体何が、と問う前に、パイプをくゆらせているシャイロックが答えた。見れば、歳若い人間がムルの魔法によって拘束され、両足をじたばたと動かしている。魔法使い三人の表情と口ぶりを見るに、味方、というわけではなさそうだ。
「なぜ人間がここに?」
「さあ。なんらかの組織の人間でしょう」
「賢者様が来ないことには──おっと、来たみたいだな」
ㅤカインはわたしが食堂に入ってきた時のように振り向き、賢者様とヒースクリフを迎え入れた。賢者様が言うには、どうやら不審者は魔法管理省の書記官らしい。魔法管理省と言えば、国王直属の機関だ。魔法使いを制御したがっているいけ好かない連中だと、先生も嫌っていたはずだ。
「それで、書記官がなにをしに来たんだ」
「いや、その、散歩っていうか……」
ㅤヒースクリフに問われ、青年は魔法舎の周辺を散歩していたと主張しているが、そんな見え透いた嘘を信じる者は一人もいない。彼は魔法使いには嘘が通じないとわかるや否や、真っ青な顔のまま早口に言った。
「ドラモンド様に、賢者様を魔法舎の外におびき出すように言われました! 賢者様さえいれば、あとは軍隊で魔法舎を武力制圧して、命令を聞かせればいいって!」
「なんだと!?」
ㅤ青年の言葉にカインが噛みつき、青年はしどろもどろになりながらも言い募る。
ㅤ──本当はこんなことしたくない、でも魔法使いは力を制御できないから。
ㅤそこに果たして、わたしたちへの恐怖心はどれだけあるだろう。人間は恐ろしいのだ。彼らよりも力を持っているわたしたちが、世界を一瞬で破滅へと導けるわたしたちが。
ㅤ男も女も、子どもも老人も、悪人も善人も、魔法使いの存在そのものに怯えている。人間の文化にたとえるならば、西の国最大の
ㅤ人間にとって、魔法使いはそれと同じなのだ。理不尽で、傲慢で、気まぐれひとつで人を殺す、残酷で悪辣な支配者と。だって明日には殺されるかもしれない。一緒に食事をしていた大事な人が、一緒に手を繋いでいた愛する人が、誰かの気まぐれで。
ㅤ彼らはそんな恐怖を抱いている。
「人間と魔法使いが、うまくやれる方法があるはずだ」
「そうです! そうです! そういうことが言いたかったんです!」
ㅤいきり立つヒースクリフと、皮肉を言うシャイロックを宥めすかしたカインに、青年が乗っかる。人間と魔法使いがうまくやれる方法があったなら、人間が魔法使いを信じていたなら、世界はとうに平和だっただろう。そう嘲笑しそうになり、ふと思い出す。
ㅤずっと昔、同じようなことを言った人がいた。けれど最後には人間に裏切られて、わたしを恨んだその人は、血のごとく赤い炎の中で獣の咆哮のように叫んだ。肌を焦がし、涙を流し、がらがらに枯れた声で何かを、叫んだ。それは誰かの名前だったかもしれないし、誰かへの恨み言だったのかもしれない。
「で、どうする?」
「スノウ様とホワイト様に相談しよう」
ㅤカインの表情は、真面目な彼らしく神妙だ。
「いいよ。はい」
ㅤムルは緊張感の欠片もない声色でカインの言葉に頷いた。
ㅤわたしが繰り返し見ている夢は前世の記憶なのだろうと、漠然と思う。それでも今は、人間の軍隊をどうにかしなければならない。深く沈み込みそうになる思考を振り払い、ムルが差し出した額縁を見やれば、スノウ様とホワイト様が賢者様に向けて語りかけた。お遊びになる余裕があるならば軍隊をどうにかしてほしい。しかし彼らは、額縁から出ると、ヒースクリフの「何かの呪いを受けたんですか……?」という問いを受けて神妙な顔つきで考え込んだ。
ㅤ時間の経過も遅く感じられるような、嫌な沈黙が流れる。誰もふざけているようには見えない。ならば、もしかしたら本当に、彼らの身体に奇妙なことが起きているのだろうか。先生や魔法書から得た知識を脳内で思い出そうと試みるも、結論に辿り着くより先に北の魔法使いが姿を現した。ブラッドリーだ。好戦的な、鋭い目つきは北の魔法使いらしく孤独な獣のように光っている。ブラッドリーが誰か一人でも人を殺せば、人間と魔法使いの戦いは避けられない。誰もがわかっている。わかっているけれど、彼を止めようとしているのは双子とカイン、賢者様だけだ。
「ナナも止めぬか!」
「アルマンが泣くぞ!」
「先生は人間嫌いでしたので生きていたとして彼を止めないかと。それに、わたしたちに矢を向けるのなら、相応の覚悟があるということでしょう」
ㅤ薄情者! と罵る双子を後目に、剣を抜いたカインとブラッドリーを観察する。彼が無抵抗な人間を殺戮すると言うのならば止める努力はするが、相手は明確な害意を持つ兵士たちだ。引き留める必要があるとは思えない。同じように思考を持ち、同じように感情を持ち、同じように命ある者を殺すなら、自分自身が殺されるだけの覚悟はあるはずだ。
ㅤそれでも、心優しい賢者様は残酷になれるほど冷たくもなければ、目の前で起きるかもしれない悪夢を見過ごせるほど弱くはなかった。「皆殺しにしてやる!」とのたまったブラッドリーの前に賢身を乗り出し、立ちはだかったのだ。無茶だ、丸腰でブラッドリーに挑むなんて無鉄砲すぎる。彼の逆鱗に触れれば殺されたっておかしくない。あまりにも危険な行動にみなの顔が強ばり、背筋が凍りつくような緊張感が食堂に広がった。
「二度とあんな牢獄には戻らな……っ、くしょん!」
「……!?」
「……消えた!?」
ㅤしかし、その緊張感はすぐに霧散することになる。ヒースクリフとシャイロックに続いてわたしも魔道具を出したものの、くしゃみをしたブラッドリーは忽然と姿を消したのだ。いよいよ、呪われているのかもしれない。
ㅤ身の危険が過ぎ去った途端に力が抜けてしまったらしい賢者様は指先を震わせながら、冷静に話し合う男たちを血の気の引いた顔で見上げている。あんな顔で凄まれるなんて、歳若い女性にとっては恐ろしい経験だったに違いない。
「賢者様、歩けますか?」
「は、はい……」
「恐ろしいでしょうが、ここにいては危険です。カインたちの話し合いが終わったら──」
「仕方がありませんね。軽くお相手して差し上げましょう。行きますよ、ムル」シャイロックがパイプを出した。賢者様の顔色はさらに悪くなり、震えている指先はわたしの手を強く握りしめている。異世界から来た、哀れな子どもは中庭へと向かうシャイロックとムルを引き留め、なぜ人間と戦うのかと、そしてなぜ人間は魔法使いを襲うのかと問うた。未知のものに対する恐怖を浮かべながらも、純粋な疑問がちらちくその瞳はどこまでも無垢だ。
ㅤ彼女は知りたいと思うだろうか。人間が魔法使いを恐れる理由も、魔法使いが人間と共生できない理由も。中央の国建国の歴史の裏に隠された、400年前の惨禍を知ってもなお、人間と魔法使いは共にあれると思うだろうか。そこまで考えて、かぶりを振る。わたしの夢が本当にわたしの前世だとして、今は関係のないことだ。
「……っ、くっ……、」
ㅤ胸元を抑え、唐突に苦しみ始めたシャイロックの姿に再び緊張が走る。胸元が炎に包まれ、さっきまで涼し気な表情を浮かべていた彼の額には汗が滲んでいた。額縁に閉じ込められる双子に、人の姿を捉えられないカイン、忽然と姿を消したブラッドリー、そして痛みに苦しむシャイロック。偶然にしてはできすぎているおかしな現象に、溜息をついたのは額縁の中の双子だった。
「どうやら、いよいよ〈大いなる厄災〉の影響のようじゃの」
「我ら、〈大いなる厄災〉と近づきすぎた。昨夜の戦いで、見えぬ傷を負ったのじゃ」
ㅤ食堂の窓から見える〈大いなる厄災〉を見上げた双子は訳知り顔で言った。目を見開いたヒースクリフも、途方に暮れているカインも、迷子になった子どものように見える。けれど、中央の国の軍隊は待ってはくれない。
ㅤ弓や剣などの武器を携えて、兵士たちは大挙して押し寄せた。