砂糖漬けの呪詛 03
ㅤ双子が閉じ込められた額縁を抱えた賢者様と、シャイロックに肩を貸して走り出したヒースクリフは塔のほうへと避難した。どれほどこの状況が続くのかは、最前線に立っているわたしにもカインにも、そしてムルにもわからない。
「ナナ! あんたは戦えるか!?」
ㅤ喧しい中庭に、カインの声が響き渡る。彼が元騎士団長だという話は聞いていたものの、取り乱すでもなく焦り慌てるでもなく、大きな剣を悠然と振るう姿は確かに場馴れしているようにも、余裕そうにも見えた。
「まあそれなりに」
「それは頼もしいな!」
ㅤ東の魔法使いアルマンが好戦的な性格をしていたことは、中央の国出身のカインもよく知っているはずだ。あんな男を師として仰いでいたわたしが、弓と剣しか持っていない人間相手に滅多なことでは負けるはずもない。わたしの返事を聞き入れたらしいカインは「怪我はするなよ」とだけ告げると、ムルと共に一気に人間を薙ぎ払った。なんだか、言動がいちいち女心を擽りそうな人だ。胸が高鳴るわけではないけれど、いつも女性に話しかけられていそうな、そんな雰囲気がある。
「魔女だ! 気をつけろ! 惑わされるぞ!!」
「火を放て!!」
ㅤどうにも、魔女は人間の男を惑わす存在だと信じ込む人間が多い。火矢を構えている兵士たちはわたしを見るなり「目を合わせるな!」「生気を吸い取られるぞ!」と馬鹿げた迷信を口々に叫び、火矢を容赦なく放った。
ㅤ人間は昔も今も、進歩しない。繰り返してばかりだ。魔法使いや魔女を殺すには炎だと、相場でも決まっているのだろうか。呪文を唱え、炎を水で消してもまた新たな火矢が飛んでくる。木材や植物が燃える匂いが鼻をつき、火の粉を撒き散らす熱風が頬を焦がす。殺さずに生かさなければならないとなると、手加減なく殺すよりも難しい。加えて、炎の延焼を防がなければならない上に、人間側の人数のほうが圧倒的に多い。深く考えずともわかった。今の状況は芳しくない。劣勢ではないが、無傷でこの戦闘を終わらせるのは不可能だろう。刹那、顔の真横に火矢が放たれ、頬が熱を持つ。油断大敵とはよく言ったものだなと思いながら、頬から顎を伝って地面に落ちた赤い雫を見下ろした。焦げ臭い匂いに混じり、鉄の匂いが漂う。先生の呪いがわたしに矢を向けた兵士に発動しないか不安になったものの、混沌としている戦場で心配してあげる余裕はない。彼らは、本気でわたしたちを仕留める気だ。油断をしていたら本当に殺される。
ㅤ兵士たちを見据えたその時、わたしの目の前で炎が燃え上がった。青白い月を抱く漆黒の空に、天高く伸びていく。兵士たちが見せる、恐怖と猜疑に踊る双眸がなぜか懐かしくて、殺したいほどに憎らしい。炎の赤い舌はちろちろと誘うように揺らめき、その色に魅入られるような心地がした。それは1秒にも満たない一瞬の出来事だったと思えど、矢をつがえ、わたしに放つまでの余裕は与えてしまっていた。
「《グラディアス・プロセーラ》!」
「《エアニュー・ランブル》!」
ㅤ頭の中に駆け巡っていた群像はあぶくが割れるようにたちまち消え、いつの間にかカインとムルがそばにいた。彼らも、頬や綺麗な髪に煤がついている。それでも、怪我をしているのはわたしだけだ。
ㅤそれなりに戦えると言ったくせに、結局血を流している体たらくを情けなく思いながらもわたしも呪文を唱えれば、次々に矢が落ちていった。
「ナナ、大丈夫か? 悪いな、当日からこんなことになっちまって」
「火が怖い? それとも大好き?」
「ムル、今は余計なことを聞くな」
ㅤお喋りしている余裕はなさそうだ。そう呟き、剣を構えたカインが色相の異なる双眸で兵士たちを睨みつけた。歴戦の戦士のような貫禄にあてられた者たちが怯み、わずかに後ずさる。膠着状態が続いている今も、火の粉が爆ぜ、獣のように唸る風が炎を煽って燃え広がっていく。熱せられた空気と冷たい夜の空気が混ざり、ここから少し離れた場所に建っている塔がゆらゆらと揺れているように見えた。
ㅤいつになったら終わるのだろう。そんなことばかりが頭をよぎる。誰かが得をして誰かが損をする、そんな戦闘だというわけでもないのに戦う意味はあるのか、無意味な疑問が浮かんでは消えていく。
「停戦せよ! ただちに停戦せよ!」
ㅤけれど、終わりとは唐突に訪れるものだ。傷ついて痛む頬に眉を寄せつつ、魔道具の砂時計を手のひらの上にかざした瞬間、兵士の誰かが叫んだ。
「一体なにがあったんだ……?」
ㅤ拍子抜けしたような、カインの声を聞きながらあたりを見やる。焦げ臭くて、むっとするような空気のせいで気分が悪い。
ㅤ魔法舎の中庭はすでに、酷い有様になっていた。
***
ㅤ壁に手をかざし、浮かび上がるようにして出現した扉を開けるとベッドと壊れたオルゴールのみが置かれた手狭な部屋がわたしを出迎えた。ベッドとオルゴール以外のものもない殺風景な部屋は一個人の部屋というより牢獄に近い。黄昏の丘の家もこんな風な造りだったので別段気にならないが、この部屋を訪問したスノウ様とホワイト様は呆れ返っていた。そんなところまでアルマンに似なくてもよかろう、と。
ㅤ賢者様と選ばれた新たな魔法使いたちが話し合いをしているうちに入浴を済ませたものの、今夜は眠れそうになかった。あんなに多くの魔法使いを一度に見たからか、戦闘による興奮が抜けきれていないからか、目が冴えている。
ㅤ南のフィガロ様は先生を通して何度かお会いしたことがあるが、彼以外の魔法使いとの面識はない。黄昏の丘から離れたことがないのだから当たり前だ。兵士とわたしたちの諍いを中断させた中央の国の王子に関しても、オズ様が王子をお育てになったという話を先生から又聞きしただけで、直接会ったことはない。
ㅤ怪我をしたから、という名目で早々に引き上げて正解だった。賢者様の魔法使いではないわたしが会合の場にいたら間違いなく浮いてしまう。今のわたしは宙ぶらりんな存在だ。ここにいなければならないという明確な理由はあっても、賢者様や他の魔法使いたちのように世界救済という役目は背負っていない。世界のどこかで呪いを暴発させる可能性がある、言わば人殺しの装置と言っても過言ではないわたしを守ってほしいわけじゃないのに。何もせず、ただただ日々を享受したいわけじゃないのに。わたしは人を殺さないためにここにいる。
ㅤ先生の呪いが発動する相手は、わたしに矢を放った兵士たちとは訳が違う。わたしを殺そうとした彼らとは、傷つけようとした彼らとは、まるっきり違うのだ。死ぬのは罪のない人々だ。家族を養うために大地を耕す父親かもしれない。武器を持ったこともないたおやかで優しい母親かもしれない。笑顔がかわいい小さな子どもかもしれない。大切な孫たちと会うことを楽しみにしている老人かもしれない。そんな罪なき人々を殺す可能性を孕んでおきながら、のうのうと、ここで平和に守られながら生きていいはずがない。
ㅤそもそも自由の定義も曖昧だ。わたしが一人でどこかに行った瞬間に呪いは発動するのか、わたしが自由を感じた瞬間に呪いは発動するのか、何もわかってなんかいない。
ㅤ罪のない人間を殺したら、400年前に魔法使いたちを火で焼き殺した人間と同じになる。それだけは嫌だ。たとえ、わたしが生み出した呪いではなかったとしても、嫌なのだ。
ㅤ眠れない。眠れるはずがない。夜が深くなるほど、双子から聞いた先生の遺言を思い出すほど、目が冴えて恐怖心がわだかまる。仄暗い感情がぐるぐると渦巻いて、大口を開けた闇の獣に食われてしまいそうな心地になる。
「……ダメね」
ㅤ独りごちた声は波に呑まれる泡のようにあっという間に消えてしまった。どうせ眠れないなら、夜風に当たってみてもいいかもしれない。それでも眠れなかったら魔法を使えばいい。
ㅤシーツから抜け出して簡素な部屋から出ると、人の気配すら感じられない静謐な空間に気圧され、意味もなく息を潜めた。広い建物はどんなに小さな音でも反響してしまうからあまり好きではないけれど、今は静かすぎる廊下が苦痛に思えて早足になる。階段を下り、ようやく見えてきた中庭は完全に元に戻されていて綺麗になっていた。ただ、焦げ臭い匂いはまだ残っているらしく、食堂にまで漂っている。
「やあ、ナナ」
ㅤ食堂から中庭に続く扉に触れたわたしの背後で、人のよさそうな声がする。振り返ったわたしを、穏やかで優しい笑みを貼り付けた彼が見つめていた。
「……フィガロ様、なぜここに」
「ん? なぜって……賢者の魔法使いに選ばれたからだね」
ㅤそんなことを聞いているわけではないとわかっているのに、わざとずれた返答をなさったフィガロ様は目を細めて笑い、わたしの肩を抱き寄せて扉を開けた。相変わらず、距離感が少し近い。彼は至って自然に、ダンスのエスコートをする紳士のようにわたしを中庭へと連れ出した。
「驚いたよ。アルマン、死んだってね」
「先生も、死期はわかっていたようです」
「だろうね。それで、ナナはどうしてここにいるのかな」
「先生に呪われたからです」
「ああ……あいつ、本当にやったんだ。束縛系でしょ、どうせ」
ㅤフィガロ先生にはお見通しだよ、とおっしゃった彼は片目を瞑り、にこりと笑った。
「ま、わからないでもないよ。ナナの魂は人を惹きつける。その容姿も、中身も、誰かに愛されるために生まれてきたようなものだ」
「……」
「どうして逃げるんだい? せっかく久しぶりに会ったのに。ひと時の逢瀬を楽しもうよ。……そうだな、恋人同士みたいに」
ㅤ北の大魔法使いの片鱗が、恐ろしかった。海の底のように暗くて深い闇を呈す瞳はゆったりと細められ、数歩後ずさったわたしに伸びてきた手に頬を撫でられる。そのまま這い降りた指先が顎に添えられて、肩が揺れてしまう。
「思い出して。きみが何者なのか」
「何者……?」
「炎を見るといい。そうすればきっと、何かを思い出せるはずだ。たとえ、俺を嫌ってしまったとしても」
「嫌う? どうして、そんな──」
「いつかはわかるよ」
ㅤ生ぬるい風が吹き抜け、フィガロ様の前髪が揺れる。髪の隙間から見える瞳はやはり底知れず、すべてを知っているのではないかと勘ぐりたくなるような静けさと穏やかさをしのばせている。事実、わたしが見ている夢についての情報を少なからず持っているであろう彼は、わたしよりも何かを知っているようだった。
「
「彼……? あの人をご存知なのですか?」
「さあ。それは教えられない。俺はもう、たくさんヒントを出したからね」
「わたしはあの人の名前も顔も思い出せません。なのに、どうやって──」
ㅤ教えを乞う子どものように彼を見上げたら、彼はひどく懐かしげに目を細めた。眩しいものを見つめるような、どこか遠くを見つめるような微笑みに何も言えなくて口を噤めば、意地の悪い笑い声が聞こえてきた。真剣に悩んでいるのに、と責めそうになる。けれど、彼を責めても悩みは解決しないと理解している冷静な部分が、二の足を踏ませる。
「炎を見るといい。真実に出会えるよ」
ㅤさっきから、やけに炎にこだわる。
ㅤ彼の言う、真実とはなんだろう。わたしはそれを知っても、わたしのままでいられるのだろうか。目を背けたくなるようなものだったら、忘れ去りたくなるようなものだったら、わたしはどうすればいい?
ㅤ彼の瞳の中に映る丸くて大きな月に、先行きの見えない恐怖と不安が心を蝕んだ。
「そうだ、アルマンの呪いについて詳しく教えてよ。大体予想はつくけど、対策はしておきたいから」
「わたしに自由を与えれば、呪いが発動すると」
「へえ、なるほどね。あいつもうまいことやったもんだ」
ㅤわたしから離れて肩を竦めたフィガロ様は溜息をついた。彼が離れてしまったせいで、触れられていた場所が寒く感じられる。
「フィガロ様にお願いがあります」
「……聞きたくないけど、念のために聞いておくよ。なんだい? 言ってごらん」
ㅤやる気がなさそうに嫌がる素振りを見せた彼はこちらを見据え、俺に何をしてほしい? と問うた。そこには、悪ふざけする様子も、冗談めかして茶化す様子もなかった。