砂糖漬けの呪詛 05


ㅤ一人になりたくて部屋にこもってみても、結局、答えは出なくて同じ場所に帰るだけだった。ざわつく心を落ち着かせようとオルゴールに手を伸ばし、壊れていることを思い出して深い溜息が出る。精神を落ち着かせるための道具であるはずのアミュレットが無用の長物に成り果てて、心を癒すどころか心労を増やすなんて。
ㅤ黄昏の丘には、オルゴールを修理できる人間はいなかった。そもそも人間が住めるような土地じゃない。機械仕掛けに詳しい人間を見つけるには、東の国の都心までおりなければならなかった。そういう、今の今まで修理しようとしなかった理由はたくさんある。法典に縛られた閉鎖的な街で修理屋の在処を聞くにも厄介事に巻き込まれそうで面倒だったから、黄昏の丘にいればいつでも自然の音を聞けたから、オルゴールそのものが手元にさえあればよかったから──けれど一番の理由は、人が作り出したものに対する知識が乏しい、人嫌いな先生に「オルゴールを直したいから街に行きたい」と言っても困らせてしまうだけだと思っていたからだ。だから、このオルゴールは100年間壊れたまま、音を出すこともなくただ置いてある。
ㅤなんでもかんでも、魔法ですぐに直せるわけじゃない。内部の構造がどうなっていて、どの部品同士が組み合っているのか、そういう理解があってようやく魔法を行使できる。中途半端な知識で、よくわからないままに修理しようとしても、人間が作り出した精巧な機械仕掛けは直らないのだ。
ㅤ両手に収まるオルゴールを撫でると、木のやわらかい感触が指の腹に伝わってくる。巻きねじを回してもかすかな音ひとつ聞こえないこのオルゴールには、黄昏の丘で息づく動物たちの鳴き声や風の音、水のせせらぎを魔法で閉じ込めている。炎が揺らめく夢を見た時は、風や水の音、小鳥のさえずりを聞けば心が穏やかになった。夢を見なくても、意味もなく聞き続けたことだってある。
ㅤ一体、いつからわたしはあの場所にいただろう。このオルゴールは、黄昏の丘のどこで拾っただろう。
ㅤ恐怖と幸福。
ㅤ愛情と憎悪。
ㅤあの炎が何を意味して、あの人が何者なのかはわからない。炎が踊り、人が惑う。恐ろしいはずなのに、熱いその炎に触れてみたいと思っていた。
ㅤ口先で唱えた呪文によって手のひらの上で燃え上がった炎は揺れ、わたしを幻惑にいざなう。わたしの知らない真実に出会うのは少し恐ろしい。でも、夢の中のあの人のことを知りたい。
ㅤややあって、炎の中で人影がうごめいた。手を振っているようにも、踊っているようにも見える炎が爆ぜ、舞い散った火の粉は音を立てる。

ㅤ──許さない。

ㅤ誰へ向けた言葉なのかはわからない。それから、青年の声は頭の中にこだまするように何度も何度も響き渡って、深淵をぼんやりと照らすような炎と共に、深い眠りについている何かを呼び覚まそうとしている気がした。
ㅤ丘の上で人が燃やされている。混乱と恐怖に染まった人々の無数の手が目の前に迫ってきたような錯覚を覚え、思わず目を逸らしたその瞬間に視界が暗転した。
ㅤ身体が重い。一度だけ、黄昏の丘の湖に溺れたことがあるけれど、その時の感覚と似ていた。きらきらと光る湖面の波が眩しくて、手足も動かせないまま下へ下へと沈んでいく。薄く開いた口からは粒子のように小さなあぶくがあふれ、湖面に達する頃には儚く潰れてしまう。揺れて、落ちて、雪が降って、炎が広がる。ようやく視界が明るくなったかと思えば、わたしは騒がしい場所にいた。誰かと焚き火を囲んでいる。誰かがわたしの隣に座っている。

「ナナ」

ㅤ青年は幸せそうに笑った。顔は靄がかかったようにぼんやりしていてよく見えない。でも、彼の声はこの世の幸せという幸せをぎゅっと寄せ集めて抱きしめたみたいなやわらかさを持っていた。抱きしめてもらう温もりも、作った料理をおいしいと言ってもらえる喜びも、わたしに教えた人。彼が、多分そう。

「明日にはようやく終わるんだ。……いや、終わりというよりも始まりか?」

ㅤわたしの手を握りしめた手は、男の人にしては華奢で、指の先まで白くて綺麗だった。わたしも彼に何かを語りかけているようで、耳を傾ける彼は肩を揺らして笑っている。
ㅤ僕も酔ってるみたいだ。ナナは大丈夫か? そうか、よかったよ。いいや、すぐに酔いも覚める。僕よりもきみのことのほうが心配だ。平気だって? 何を言ってるんだ。すべての決着がついたらちゃんと医者に診てもらおう。
ㅤ饒舌に喋る彼は、幸せと、喜びと、安堵とわずかな緊張を織り交ぜたようなかすかな笑い声を上げて、わたしのそばに寄り添っている。入り乱れて笑い合う魔法使いと人間たちの輪には入らず、焚き火の前にただ座っているだけのわたしの隣にいる。酔っていると言っていたものの、彼は手に持っている酒瓶には口をつけていないようだった。

「アレクも、あまり気負っていないといいが……。フィガロ様も一体どこに……」

ㅤ彼は、フィガロ様、と言った。どうしてフィガロ様のお名前を呟いたのだろう。どうしてフィガロ様の心配をしているのだろう。──彼は待ってるよ。400年前から、ずっとね。ふと思い出すのはフィガロ様の言葉だけで、隣の青年のことはまったく思い出せない。
ㅤ顔が見たくて手を伸ばすと、靄が少しだけ晴れた。どうした? 僕の顔に何かついてるか? と問う声も穏やかで優しいのに、何も思い出せない。その優しさが懐かしくて、目頭が熱くなった。顔が見たい、名前が知りたい。そう言えたらと思う反面、わたしの唇は動かない。
ㅤぶわりと一陣の風が吹き、風に乗った火の粉が赤い蛍のように夜空を巡る。月と星が輝く天へと渦巻きながら上っていく赤色は徐々に大きくなって、星雲のように散らばり、やがてわたしの身体を包み込んだ。毒々しい、血潮のような炎に視界が明滅する。熱い、痛い、呼吸ができない。誰かに、あの人に、がらがらに枯れた声で呼ばれてる。でも、あの人を思い出せない。

「ナナ」

ㅤ誰かがわたしの名前を呼んだ。白色の眩しい明かりに目を細めたら炎はもう消えていて、わたしの耳元でフィガロ様のお声が響いた。目に映るものすべての輪郭がぼやけているからフィガロ様の表情はわからない。彼の他にも双子がいらっしゃるようで、何か話している。
ㅤその話し声に安心し、三人がなぜわたしの部屋にいるのかという疑問を口にすることも忘れてしまう。

「彼女を連れて行くべきではないと思いますよ。今の状況でアレクの肖像画を見たらどうなるか……」
「じゃが、アルマンの呪いがあるじゃろう」
「一応、俺の呪いも付与してますよ。念には念を押して同行させたほうが多少は安全、ってだけで──おっと」

ㅤフィガロ様はベッドの縁に腰かけ、わたしの首筋に指を当てているらしい。彼に抱きついたら、彼はほんの少しだけ目を見開いたあと、困ったように眉を下げて笑った。ようやく、ちゃんと見えた。それでも、夢の余韻が残る身体はまだ震えている。誰でもいいから縋りたくなるほど恐ろしい夢だった。夢に見た痛みや苦しみがすべて幻でも、肉迫する映像は現実のそれのように生々しく、鋭利な恐怖を携えて迫っていた。

「燃えていました」
「うん」
「わたしの身体が……炎に包まれて、誰かが──多分、あの人です、あの人がわたしの名前を、」
「……そう。怖い夢だった?」
「……とても。フィガロ様はあの人とお知り合いなのですね」
「まあ、そうだね。あっちは認めたがらないだろうけど」

ㅤフィガロ様の白衣からは薬草の匂いと、少しだけ甘い匂いがする。わたしの背中を撫でる手はあの人よりも大きくて、骨張っている。フィガロ様とわたしを見やったスノウ様とホワイト様は気難しそうで、どこか子供っぽい表情を浮かべた。

「ナナよ、そなたはフィガロに何を頼んだのじゃ」
「呪いを付与したとはどういうことじゃ」
「ナナが特定の場所や人物から離れれば一時的に魔力が減衰する呪いですよ。まさか約束をするわけにもいきませんし」
「なんと……」
「あやつは知っておるのか」
「いいえ。彼も、まだ気づいてませんから」
「あとあと怒られても知らないもんね」
「我ら知らないもんね」
「ナナをここに連れてきてる時点でお二人も怒られると思いますけどね」
「え〜、いやじゃの〜」
「全部フィガロちゃんとアルマンちゃんのせいにしちゃお〜」
「こらこら……」

ㅤやめてくださいよ、と苦笑したフィガロ様の手の動きが止まり、背中に流れている髪がくん、と引っ張られる。双子と話していらっしゃるフィガロ様はこちらには見向きもしていないのに、指先で髪をいじられると嫌でも意識が集中してしまう。多分、承知の上でやっているのだ。相変わらず、女性との戯れに慣れている方だから。

「して、合意の上か?」
「やだな、ナナのほうからおねだりしてくれたのに」
「おねだりではなくお願いですよ」
「そうだっけ?」

ㅤ彼が魔法舎に来た夜にお願いをしたのは事実だけれど、おねだりは断じてしていない。お願いとおねだりでは、そこに含まれる意味合いというか、受け取り方がかなり違う。フィガロ様はわざとらしくとぼけた調子で聞き返すと、いじっていた髪から手を離し、その手でわたしの頭をひと撫でしてからベッドに座らせた。

「『逃げられないようにしてください』とお願いしたはずです」
「残念。情熱的な口説き文句かと思ったのにな」

ㅤ立ち上がったフィガロ様は悪戯っぽく笑い、部屋を見渡して懐かしそうに肩を竦めた。「アルマンを思い出すよ」と呟く声が思い出の日々をそっとなぞるような優しさを孕む。
「パレードのことなんだけど」ちょっといい? 彼の目がぐるりと部屋を一周し、ようやくわたしのほうへと視線が戻ってくる頃にはいつもの表情に戻っていた。

「実は今、予定が変わってね。すぐに出発しないと間に合わないらしいんだ」
「もうですか? 延期になったと聞きましたが……」
「俺もよくわからないんだ。わかってるのは、俺たちがパレードをすっぽかす、嘘つきで気まぐれな魔法使いになりそうってことくらいじゃない?」

ㅤ双子とフィガロ様がわたしの部屋にいらっしゃった理由が、今になってようやくわかった。わたしにパレードのことを伝えに来てくださったのだろう。

「申し訳ありません、お手間を……」
「気にしないで。炎を見たんだろう? なら、気を失ってたのは俺のせいでもある」
「そなた、また余計なことを言ったのか?」
「またか……懲りぬ子じゃ」

ㅤ双子の批判じみた小言を、はいはいすみませんね、と大雑把に流したフィガロ様がわたしを見下ろした。彼の首にかかっている聴診器が揺れ、患者を宥める医者のような声色が彼の口からこぼれ落ちる。

「ナナはここに残りなさい。俺の呪いに縛られているうちは魔法舎にいれば大丈夫だから。しばらく一人になりたいだろう?」
「……はい」
「そんな顔をしないで。留守を守ってくれたら嬉しいよ。賢者様だってわかってくれる」

ㅤわかっているよと言い出しそうな顔だった。
ㅤフィガロ様のおっしゃる通り、何かを考える時は一人になりたい。黄昏の丘にいた頃は、先生のおそばにいても一人になる時間があった。先生がふらふらとどこかに行っているあいだに湖を眺めたり、先生が書斎で魔法書を読んでいらっしゃるあいだに薬草を育てたり、誰にも邪魔されない、考えて物事を整理するための時間が。でも今は、常に周りに人がいる。賢者様との会話は楽しいと思う。中央の国らしい穏やかな天気は心地がいいと思う。けれど、けれど今だけは一人になりたい。

「ね、俺を信じてよ。これでも北の魔法使いだったフィガロ様だよ?」

ㅤフィガロ様の指が頬に触れた。先生よりも冷たい指の感触は、頭の中にちらつく炎を鎮めてくれている気がして力が抜ける。フィガロ様がかけてくださった呪いに不信感を抱いているわけじゃない。甘えてばかりの自分に嫌気が差しているだけだ。なんと答えるべきか考えあぐねていると、部屋の外から忙しない足音と子どもらしい声が聞こえてきて、「ミチルじゃな」「ミチルじゃのう」とおかしそうに笑った双子がほとんど同時にフィガロ様を見上げた。

「フィガロ先生ー! どこですかー!! 遅れちゃいますよー!!」

ㅤ鷹揚とした動きで扉を開け、振り返った双子は本物の子どもみたいな表情を浮かべていた。ミチルという子どもに行方を探されている当のフィガロ様も、南の魔法使いのフィガロ・ガルシアらしい顔つきで笑っている。

「ナナも見送りに行かねば、賢者が寂しがる」
「心配もするのう」
「ええ、わかってます」

ㅤわたしも、賢者様におそばにいると言った手前、彼女にも伝えておかなければならない。優しいあの子のことだ。何も言わず、見送りもしなかったらきっと心配させてしまう。

「ナナ、いい子にするんじゃぞ」
「留守は任せたからの」
「はい。お二人もお気をつけて」
「あれ、俺は? 先生、悲しいな」
「もちろんフィガロ様もですよ。お酒は飲みすぎないでくださいね」
「はは、耳が痛いね」

ㅤこうして何も知らないように笑って、頭の片隅でくすぶり続けている炎には気付かないふりをすれば、きっと楽でいられる。信じていたものを、根底にあったものを、音を立てて崩壊させるかもしれない真実は恐ろしい。けれど、わたしは何も知らないまま生きていくことはできないのだろう。

ㅤ──ナナ。

ㅤ前世のわたしの名前も、同じだった。あの人の、わたしを愛おしそうに呼ぶ声が耳の奥にこびりついている。


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