池袋まで出向いた翌日。今日も今日とて、学校帰りにタワマンを経由して寄った溜まり場の、その奥にある小さな事務所へと篭もっている。
タケミチ君と話してから変更した計画の内、直前にすべきだとした細工はこの場に来るまでに全て終えた。上手く行き過ぎればチームメイトが死んでしまう可能性もあるが──まァ、目的のためだ。どうでもいい。
そんな中、今のところは特にやることがないとして活字を追っていた。本を扱うときに煙草を吸うと焦がしてしまいかねないから、今日に限っては煙草を吸わないままで。夏用の薄い手袋が紙をなぞり、その少し後を視線がなぞる。
そんな視界の端で、ひょっこりと顔を覗かせた鶏が居た。今日も見事なトサカをお持ちで。
「……まーたこっちに居ンじゃん」
「余計なお世話ですよ、グリンカムビ」
「誰が鶏だ。つーかそんならテメェはワタリガラスだろうが」
「……あ、ワルキューレかロキじゃないんだ」
「ばはっ♡ 裏切った自覚あったんだ?」
「そりゃあ、前の計画はノリノリでブチ壊しましたからね」
つけたままのマスクの下でにひっと笑えば、半間が半身を引いたのが分かった。「ノリノリ……まァいいけど」と呟かれたからには、声の調子の通りに少し引かれて、言葉の通り、気にしないことにしたのだろう。
「そろそろ場地も突撃してくるぞー?」
「あー……今日居るのか……」
「居るだろ、そりゃ」
視線を本に戻した横で、百円ライターがカチリと小さな音を立てた。それから、ふわりと煙草の匂いがする。しばらく口を閉ざしてゆっくりと煙を吸う半間にも、現状に対して思うところはあるのだろう。
一虎から引き抜きを打診された後に出した情報では「前のチームは抜けている」とした新入りを、あからさまに避けている自覚はある。チーム内を困惑させている自覚だってある。申し訳ないとも思ってはいる。いるが、しかし──改善する気は特になく。
「ソレ、何読んでンの?」
「ドストエフスキー」
「……罪と罰?」
「残念、悪霊です」
コレは随分前に、盆栽の手入れ方法を聞いてきたICBMの人から、対価として渡された上下巻の本だった。そのうち読もうと自室の本棚にしまいこんでいたが、昨日に池袋まで行って、存在を思い出したからこそ読んでいるモノで。
おそらくタイトルだけを見て「オマエのための本だろ」みたいなことを言われて渡された本ではあるが──これは中々に。
「おもしれーの?」
「面白いですよ」
「どんな話?」
「どんな……人間って怖いな、みたいな……」
「ひゃは♡ ドストエフスキーってだいたいそんな感じじゃね?」
「……さあ、他を読んでないのでなんとも」
『だいたいそんな感じ』と言う半間は、ドストエフスキーをいくつも読んだタイプなのだろうか。半間が大人しく本を読んでいる姿は全く想像できないが、それはそれとして、そもそもが手の甲に罪と罰の入れ墨を入れているくらいだ。案外読んでいるのかもしれない。
モノは試しとばかりに「そこに上巻ありますけど、読みます?」と聞けば、何度か瞬きをしたあとで、机の上に置いてあった上巻を静かに読み始めた。──読むのか。
そうしてしばらく。途中で半間が付けていた換気扇の断末魔と、半間の煙草が小さく弾ける音と。お互いの指が紙を捲る音と、騒いでいる声が遠くに聞こえる空間を割いたのは──昨日ぶりの一虎の声だった。
「半間ーサブロー居た? って……は? オマエら何してんの……?」
「……あ? 見りゃ分かンだろ」
「半間も本とか読むんだ……?」
「何でオレだけ?」
「や……だって、サブローはなんとなく読みそうじゃん」
耳から入ってきたその正直な評価にくふくふと笑う。分かるぞ、勧めた側ですら静かに読み始めたことに結構ビビったからな。
「……よーしオマエら表出ろ。お望み通りボコボコにしてやんよ」
「んふ、今忙しいンで半間だけ出といてくださーい。一虎生贄にするンで」
「は? オマエが一番出ろよ」
「っふ、何で? 別に何も言ってないでしょう」
「煽られてンのは分かンだよなー?」
この間一度も本から目を離さずにそう言えば、一虎から「喧嘩なら後でにしてくんない?」と声がかかった。ついでに「半間はオレとちょっと来て」とも言われて、思わず本から視線を上げる。何か嫌な予感がするな。
「……あー、ハイハイ。そういやそうだったな」
「は?」
「左衛門は部屋から出ンなよー?」
「何?」
「来ていいぞ場地ー」
「は??」
栞も挟まずにパタンと本を閉じた半間の許可を聞いて、おずおずと顔を覗かせたのは──やはり、今し方名前を呼ばれたばかりの圭介だった。
マスクの下でぽかんと口を開けて「マジで鬱陶しいからそろそろどうにかしろ」とか「ちゃんと仲直りしろよな」なんて二人の声を聞き流していれば、パタンと扉が閉められた。
扉の向こうでガチャガチャと鎖の様な音がしているからには、多分、物理的に閉じ込められたわけで。仲直りするまで出てくるな、ということだろうか。
一度舌を打ち、その辺に本をそっと置いて。強度を見るためと無心で拳を扉に叩き付けた感じであれば、蹴破ることはおそらく可能だった。
可能だが──しかし。ここまでされるほどには周りの迷惑にもなっていたからには、仲直りなるモノをすべきなのだろう。本当に嫌だ。
──しかも何だよ、ヌルい閉じ込め方しやがって。今すぐにでも蹴破ってやろうか。
「あー……悪ィ、そこまでしろとは言ってねーんだけど……」
「なんとなく察しました。態度悪くてすみません」
「や、それはまァ……」
どこか気まずげに視線を逸らした圭介は、そのままキュッと唇を噛んだ。まァ、あからさまに避けていた辺りは全面的にこちらが悪いのだが。どうもそれだけではない気がして。
「蓮、だよな。やっぱ」
「……ああ、ウン。ちょっと、」
ソワソワと落ち着かない様子で扉の真横に立ったままだった圭介の手を引き、小さな部屋の奥まで誘導する。そのまま耳元に口を寄せ「呼び方は左衛門か三郎でお願い。性別も内緒にしてほしい」と言えば、少しだけ間を置いた後で小さく頷かれた。
耳に口元を寄せ返して「喋り方も聞かねえ方が良いか?」と聞かれたために「ン」とひとつ頷いて、ついでとばかりに、何だかんだで勘の良い幼馴染の頭を撫でておいた。くすぐったそうにしてはいるが、振り払われる様子はない。ははは、相変わらず可愛い奴め。
「……で、何でしたっけ。エドワードも元気そうじゃないですか」
「…………はは! その名前久々に呼ばれたワ」
「へえ、結局あの後も定着しなかったンです?」
「おー。もう誰も呼んでねえよ」
それから、少しだけ声を張って。「ローレンス以外はな」と昔みたいに笑った圭介を見て、くしゃりと目元を細めた。だって、あァ──本当に勘が良い。もうしばらくはその勘の良さをしまっていて欲しいところではあるものの、今回ばかりは私を気遣って発揮されたソレが、どうにもムズ痒いのだ。正直、少しだけ泣きそうになった。
そのまま軽く俯いて、小さく「連絡、してなくてすみませんでした」と言えば、低い音で「マジでな」なんて言葉が返ってきた。
「避けてたのも、すみません」
「やっぱ避けてたンか……つーか
「まァ……」
「何でオレだけなんだよ」
「居なかったじゃないですか、集会。出禁って聞きましたけど」
「ウッ……つーか渋谷まで来たンなら別で会いに来りゃ良いだろ」
不満を隠しもせず言われたその言葉には、正直、何と返すか迷ってしまって。結局「……今更どんな面下げて会えばいいンだよ」なんて、情けない本心のひとつしか出てこなかった。圭介が私に関わると死ぬから、なんてことは言えるはずもないのだ。言い方だって情けない。最悪だ。
「その面で良いだろ。ぶっちゃけ顔見せてくれるだけで全然違えし」
「……はは、簡単に言いますね」
「つーかオマエがここに居たのすら聞いてねえンだけど。しかも何だよその格好。胡散臭え」
「趣味」
「あ?」
「趣味」
「……マジ?」
ヘラりと笑って「似合いません?」と聞けば、一瞬固まった圭介はフイっと視線を逸らす。それから、小さな声で「すげー似合うからビビってンだワ」なんてことを言った。褒め言葉まで真っ直ぐであるのは相変わらずらしい。──いや、今のは褒められたのかどうかすら微妙だが。
「で……あー、とりあえず、オマエが生きててよかった」
「ええ、お互いに」
「はァ? オレは死なねえよ」
「どうだか。もう涼子さん泣かせないでくださいね」
「……エ、まさかアレ知って、」
「中学で留年した伝説の男だ、ってことなら。マイキーから」
「………………やっぱアイツ殺すワ」
「ははは、程々にしてくださいね」
そうして、いざ顔を合わせれば──泣かれることも特になく。ましてや、本当に忘れられていることもなかったらしい。
嬉しいような悲しいような、圭介なら
「で、どうやって出る?」
「蹴破りゃ一発」
思わずといった風に「は?」と聞き返した圭介の前で、「ヌルい閉じ込め方しやがって」と吐き捨てる。本気で閉じ込める気があるなら中身の詰まったスロット台でも扉の前に持ってこいという話だ。
ガコンと響く音を立て、宣言通りに一息で扉を蹴破れば──扉の少し向こうで欠伸をしている半間と、目を丸くしている一虎が見えた。圭介? 「まァ、そうだよな」みたいな顔で頷いている。流石、素で大暴れしていたときの私と幼馴染をやっていただけあるな。
「うーわ、マジで蹴破って出てきたよ」
「だから言っただろー? 左衛門の足は『災いをもたらす封印されし』、」
「おー、金的をご所望ならそこに立ってください。きっちりしっかり使えなくしてあげますよ」
「ばはっ♡ 嫌に決まってンだろ」
「……何の話だ?」
「渋谷を出てからのおふざけですよ」
私と圭介が
まァ、少なくとも私にそんなつもりは一切ないのだが。元々喧嘩はしておらず、私が一方的に避けていただけの話で。かつ、今はともかく、今後もできるだけ関わらない様に過ごそうと思っている程だ。小心者? うるせえ自覚済みだ。
「……ま、エドは気にしないでください」
「あー……オウ」
「…………あ゙? オイ左衛門、エドってまさか」
「はははは」
「誤魔化し方雑すぎンだろ。つーか頭イカれた?」
「正気ですよ。残念ながら」
けれど、総長代理とナンバースリーの手まで煩わせて、無理にでも関わることになってしまったからには。どうしたって──今後の私とタケミチ君の肩に乗る重さが、幾分か増えたことは確かなわけで。
いっそ気が狂ってしまった方がどれほど楽か、なんて。頭の隅ではそんなことすら考えてしまった。即座に振り払ったが。
「あー……なァ、左衛門」
「なんでしょう」
「……オマエって倫理観とかあったっけ?」
唐突に半間から言われたそんな言葉に、何度かぱちぱちと瞬きをして。それから──座っている半間の脚の間に左足を置いた。当然、そこそこの音をたてて。
「去勢をご所望で?」
「ちげーって!!」
まァ、伊達に何年もつるんでいるわけではない。違うことは流石に分かる。コレは多分──稀咲に何か言われたな。
「倫理観でしたっけ? あると思いますよ。半間と同じくらいには」
「だよなー……?」
「……一虎ァ、アイツら何の話してンだ?」
「オレに分かるわけなくない……?」
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