6.良質な食事と睡眠、あとに残るは楽しい喧嘩

 ──2002年2月某日

 喉から出たヘタクソな呼吸をBGMに、ヨガマットの上で目を覚ます。この際ベッドまで辿り着いていないことはどうでもいい。最早日常になりつつあるそんなことよりも、何か、とてつもなく不快な夢を見た気がして落ち着かなかった。
 兄直伝のトレーニング中でもここまでにはならない程に荒れた息を整え、重い頭をのろのろと持ち上げれば、壁に掛けられている時計は昼過ぎを示していた。無茶な筋トレで体力を限界まで削ったおかげか、久々に長い時間眠ることができたらしい。

 ──まァ、内容も朧気な悪夢のせいでどうにも寝た気がしないが。
 そのまま広い部屋の静けさに頭を掻き回して、悪夢の余韻が残る暗鬱とした気分のままに舌を打った。わざわざ誰かに確認してもらうまでもなく、今日の寝起き最悪らしい。

 顔を洗ってパジャマを脱ぎ、適当に取った緩めの服に着替えて。肩程までに伸びた真っ黒の髪を高い位置でざっくりとまとめる。顔を隠すための黒いマスクと、今日も元気にお勤め中であろう長兄におすすめされた、次兄の眼鏡に似せた丸く薄い色のサングラスを掛ければ──むしゃくしゃしたときに持ってこいな喧嘩スタイルの完成だった。

 マスクの上からバチンと頬を叩いて、それからゆっくりと息を吐いた。これで私は灰谷蓮ではなく、旧姓をそのままフルネームとして使った、左衛門三郎なる不良に成ることができるはずだ。
 最初の様に自分から兄達の真似を始めたのではなく、わがままを言ってプロデュースしてもらったのだ。丸い形の眼鏡フレームにまとめ髪の結果は似たところでも、過程が違えば心持ちなどいくらでも変わるもので。間違いなく一人で立てるようになるまでのでしかないとしても、気に入っていることに変わりはない。

 おかしいところはないかと覗いた鏡に映ったのはどこからどう見てもなイキったチンピラだった。しかも、前髪を下ろしている故に少しダウナーな感じの。
 地味さや暗さが気にならないのは、兄達と母に似たこの顔だからこそか。それでも間違いなく最初よりも似合っているからには、このスタイルを組んでくれた兄達の慧眼とセンスの前にひれ伏すしかなく。
 綺麗な顔に産んでくれた母に感謝をし、その母はとっくに死んでいることを思い出して。それから一つ息を吐いて、ひとりでフラフラと街に繰り出したのだ。

 気圧も下がり、肌に当たる空気も冷え切っている。普段は着込めばどうとでもなると思える気候でも、周囲に誰も居ない今の状況ではどうしても寒さ・・が際立ってしまって、どうしたってテンションは上がらない。その理由はいくつかあれど、一番はこれまでを思い出してしまうことだろう。
 いや、流石に圭介が死んだ時期は毎度ここまで寒くはなかったのだが。一度思い出してしまえば気も滅入るというもので。

 一応、六本木まで聞こえてくる噂からして、状況は最初と前回ほどに差はなかった。前回と同じく"七小のマイキー"は元気にやっているらしい。圭介の噂は特に聞かないが、六本木に居る私をわざわざ気にしない程度には楽しくやっているらしかった。良い傾向であることには間違いない。これで最初の様な巻き込み方をする可能性は消え、ひとまずのトラウマは回避できるのだ。

 いつかは渋谷に顔を出して自分の目で確認すべきかとも思ったが、それで鉢合わせてしまえば元も子もない。渋谷を出たときの面影も色濃く残る今のところは、人伝の情報以上を深掘りする気もなかった。少なくとも、前回で圭介が死んだときまではまだ猶予もあるのだから。

 他に変わっていないことといえば。兄達は前回通りに狂極を殺してから揃って少年院に入ったし、"灰谷兄弟"の舎弟の顔ぶれだって何も変わらなかった。それらを調べ回っている間に、いつしか情報屋なんて呼ばれ方をする様になってしまったものの、それ以外では前回とそれほど差はないのだ。
 前回では特にこれといった肩書きはなかったから、自分がそう呼ばれているらしいことへの多少の違和感はあるのだが。それだって色々な意味で過激派な兄がどちらも嫌そうな反応を見せていなかった以上、変に侮られているわけではないことは承知している。今の不良の内情ならば世代的にも彼らの方が肌感覚が近いのだ。であれば、呼ばれ方に関してはわざわざ気にすることではない。

 最初のトラウマは十二分に回避可能だとしても、前回のトラウマが回避できるのかといえば──正直なところ完全なる自信はない。
 けれど何度も言うように、前回で圭介が死んだ抗争までは猶予もたっぷりある。だから今回は今の立場を十全に使ってチームの中枢にくい込んで、当日にもっと上手く動くことができれば良い、と思っている。
 何なら、前回では裏で色々動いていた稀咲を釣る餌として、自分をより有効に使い倒すために前回よりも派手に暴れている節もあった。

 黒歴史にならなければ重畳で。万が一黒歴史になったとしても、今が楽しくて、圭介も死ななければオールオッケー後のことはどうでもいいみたいな。普段のメンタリティとしてはそんなものだ。

 それでも。ある種の黒歴史を覚悟してやっていることも、最終的には結果に影響しないのではないかと考えてしまうことだってある。特に今日みたいな悪夢を見たときはそれが顕著に出てしまうのだ。予定調和の様に兄達だけで・・・少年院に入ってからは、ずっと、そんな感じで。

 あの日と同じ様に圭介はまた死んでしまうのではないか。私はまた、何もできないのではないか。そう考えると頭が痛くなって、無性に全てを投げ出してしまいたくなって。
 どうしても諦められないからには、反動で何かに当たり散らしたくなって。だから──今日も・・・学校はサボったのだ。

 そもそもの話、起きたときには給食も終わっていた時間だったわけで。今更小学生の勉強をしてもな、みたいな人生三周目特有の傲慢さもあった。何せ、色々考えて前回と同じところを受験するつもりな女子校の過去問ですら「こんなモンか」と思ってしまったのだ。
 いや、コレに関しては中三までは二度も生きた人間に、仮にも中一の入試問題が解けない方が不味いのだけれども。それがいくら難易度が高く捻られているものだとしても、だ。あとは伯母さん兄の母親に返済前提で学費援助の交渉メールを送った以上、落ちるわけにもいかないのだが。

 ついでに言えば、自分が産んだ子でもないのに、所信表明的な文面以上の何かを聞かれることもなく『了解です。お金も返さなくていいので好きに生きてください』とだけ返ってきた辺りは少し怖かったのだけれども。無心をしたのは私立の学費だぞと思わなくもないが、まァ、快諾してもらった以上その話はいいのだ。
 伯母さんとしても、傍目からみても溺愛していた妹の子供を気に掛けてくれてはいるのだろう。そうでなければあんな返信にはならないはずであるし、気が付いたら灰谷の戸籍に入れてもらっていたなんてことにもならないはずで。

 その妹が自分の旦那と作った子供が私なのだけれども。何でそれで仲違いせずに居られたのか。もう分かンねえよあの姉妹。
 いや、いい。最初から何ら変わらず、子供の身では何度考えても分からない大人のことなんか考えないに限る。

 ──いけない。拾ってもらった当初によく見た、「何でオマエばっかり」とでも言いたそうな蘭ちゃんの渋い顔を思い出してしまった。知らねえよ伯母さんに言え。
 また逸れたな。話を戻そう。

 そんなこともあって。入試をサクッとパスする自信はあるからには、余計なことを考えずに済む喧嘩をして体力を底上げして、その日までに確実に動ける様にしておく方が幾分かマシなのだ。
 狙っている学校の入試は私立にしては珍しくペーパーが9割で、内申は足切りにしか使われないことくらいは既に知っている。必要もないのに、とっくに理解していることをお行儀良く勉強して時間を無為に消費する気はない。小学生の内申だってたかが知れているのだから。

「ぐ……も、言わないからぁ! やめ、ッ!!」

 ──で、どうしてそんなことをつらつらと考えているのかといえば、今日の喧嘩相手がその名門女子校・・・・・の生徒が中心となって構成されているレディースだったからなわけで。確か、シバルバーだかタルタロスだか、奈落みたいなチーム名だったはずだ。全部違う気もするが、あまり興味がなくて覚えていなかった。

 そんなレディース達とは、単身学校説明会に赴いた場で未来の先輩として顔を合わせただけのはずだった。短い邂逅にも関わらず、流石の情報網を駆使して灰谷兄弟不在の六本木で暴れる情報屋の左衛門三郎と結び付け、その上で揃い立って勧誘に来たらしい。
 何でも、表向きは間違いなく名門であるその学校の説明会に、かの悪名高い灰谷姓の人間がわざわざ・・・・足を運んだからには──みたいなことを考えて嗅ぎ回ってくれたらしい。

 確かに、伯母さんの仕事の都合がつかなかったからとして、子供が一人で来ていた時点で多少目立っていたことは否めない。が、しかし。単にお嬢様校のネームバリューに憧れたとかで流してくれれば良いものを。本当に余計なことをしてくれた。
 それでも一応、人気のないところで誘われた辺りからして、気持ち程度の配慮はしてくれたらしい。だとしても、元から性別を誤魔化して不良をしている私をレディースに誘った時点で「お前の弱味を握っているぞ」と言われたも同然なのだ。

 初手で「レディースに入る気はない」と言ったところで話ができる相手ではなかったから、仕方なく──本当に仕方なく、喧嘩をしているというわけで。本当に勘弁してほしい。夢見が悪くて、気圧も低くて。そんな日はどうしても特にブレーキが効き辛くなるのに。
 喧嘩を吹っ掛けられたからと、狭い路地裏で跳んで、蹴って、肩を外して。丁寧に嵌め治してから、また外して。
 絶好調に喧嘩をしているそんな中でも、いつもより理性が働いていない自覚はあった。あったが──自覚だけで止まれるのであれば、これまでもずっと苦労はしていないというわけで。

 聞いていた通りに愛らしい顔立ちの総長を一蹴りで沈め、総長を助けに入ってきた幹部たちの相手をしつつ。レディースをしている以上喧嘩自体は弱くないンだけどとか、勢いの乗せ方は参考になるな、みたいなことを考えて。
 ──つまり最初の方に関しては、そういうことを考えられる余裕はあった。咄嗟に振り抜かれる力任せの拳がそこまで脅威でない分、普段から兄もいない六本木でしている喧嘩よりも幾らかマシだったのだ。

 散漫に飛びがちな思考をそのまま緩く回して。そのまま──レディースの肩の関節をサクッと全部外して、ずっと誰かを殴り続けている。

 適当な一人に馬乗りになって、顔面に叩き込む拳を止めず。はっ、と短く息を吐く。既に満身創痍──どころか、初手の蹴りで意識を飛ばした相手は既に動ける状態ではなかった。
 今殴っているこれ・・は総長ではないのだろうな、なんて。そう思う頭は辛うじて残っていた。その大多数が小柄なオンナノコ相手に、体重も勢いも乗りやすい脚で追い討ちを掛けていないだけ僅かばかりの理性も残っている。だとしても、それだけだ。

 既に喧嘩ではなく、一方的な暴力でしかないことは理解している。六本木に限らずデカい顔をできるほどには筋力も付いた体で、これ以上殴り続けてはいけないとも理解している。
 蹴りに比べれば威力は落ちる拳でも、兄も狂極もいない六本木で幅を効かせていた歳上の不良少年に混ざって遺憾無く喧嘩ができている時点で、彼らよりも頑丈ではない彼女たちに手を出すべきではない。流石に相手が死んでしまうかもしれないから。

 分かっているのだ。私まで少年院に入って、時間を無駄にするわけにはいかない。私まで少年院に入って、気に掛けてくれているらしい伯母さんの期待は裏切れない。私まで少年院に入って、明確に意図して私を連れて行かなかった兄達の考えていそうなことを無視することなんてできるはずもない。そんなこと、ずっと晴れない頭でも十分理解しているつもりだった。

 けれど、私にとって邪魔な人であるからには黙らせないといけなくて。情報収集の手段としての拳は悪手だとしても、不安定な立場を優位にするための威嚇としての拳が覿面に効くことくらい、クソ親父からの暴力でよく理解していたから。だから。

 ──ア、でも。最初に圭介をリンチした奴らみたいに全員殺して、全員を行方不明・・・・にしてしまえば少年院に入ることもないか。そんな最悪なアイデアが思い浮かんだとき、背後から聞こえた音に振り上げていた拳が止まった。まさか、見られて。

「は? 止まンのかよ」
「……は、」
「まァいいや。オマエ、案外エグい喧嘩すンのな」
「半間……?」
「エ、オレのこと知ってんの?」

 観戦だけでは耐えきれなかったとでも言いた気な程に楽しそうな声もそのままに「ま、情報屋だったら知ってるか」と自己完結したその人は、前回では稀咲に着いて回っていた死神だった。
 まだその髪は黒一色だとしても面影はある。何よりも確認して否定されなかった以上、本人で間違いない。

 記憶よりも少し高い声なのは──まだ声変わりすらも終えていないからか。流石にお互いの顔くらいは知っていたけれど、少なくともこんな時期には知らない人だったはずなのに。

 私の混乱を他所に、乱入者は心底楽しそうな顔をして私の手元を覗き込んだ。それから「マジで容赦ねえなー?」とか「ごしゅーしょーサマ♡」とか、後者に限っては微塵もご愁傷さまとは思っていないような顔でにんまりと笑う。

 ふと、そんな半間の視線の先を見て眉根を寄せた。今回で初めて兄と顔を合わせたときよりも悲惨な現状と、理性で止まることができなかった自分の頭にうんざりしたのだ。違うことを考えて多少は冷静になった頭では間違いなくやりすぎだと理解してしまう。
 コレは確かに変な噂が流れてもおかしくはないし、少なくともこの六本木で見掛けたこともない半間の耳に入ってもおかしくはない、のかもしれない。──いや、私の噂はまだ六本木に留まっているはずなのだが。どの道半間は知っていたのだ。六本木か何処かに私のことを知っている半間の知り合いでも居たのだろう。

  ふう、と息を吐いて思考の先を手元に戻した。そもそも、既にあらかたの誤魔化しが通用していない相手であれば、今のうちに味方に引き込んでおく方が上手くことも運びそうなモノなのだ。タコ殴りの前に、もれなく全員の両肩を外してしまった時点で明らかにやりすぎだった。
 どれだけ殺意の衝動に呑まれていたのか。その属性・・・・は私ではないだろうが、とか。脳裏にチラついた前回では正しくその属性に見えた薄い金髪の影幼馴染の一人を振り払い、固まった首をぐるりと回して。それから、馬乗りになっていたレディースから腰を上げた。

 途中で視界に入ったその頬は赤黒く腫れ、綺麗に色の抜かれた金髪も血に塗れてしまっている。冷え切った指先でするりと撫でた目元だって、随分と開き辛そうだ。入学すらしていない小学生に絡む程に見境がないとはいえ、可哀想なことをしてしまったか。
 まァ──どうでもいいか。話も聞かずに絡んできたのはあちらさんだ。

「アー……半間、でしたっけ?」
「何で敬語? しかも急にバカになるじゃん」
「止めてくれてありがとうございます」
「ばはっ! ガン無視かよ」

 だとしても、私が迂闊だったことは何も変わらないわけで。薄ら残る自分への苛立ちもそのままに「危うく行方不明者を出すところでした」なんて吐き捨てれば──何が面白いのか、乱入者は腹を抱えて笑いだしてしまって。ええ、どうしようかな、コレ。
 前回では顔見知りだったとしても、共通の知り合いが居る顔見知り以上の関係ではなかった。何なら、最後の抗争でやたら粘着された記憶が大半だ。

 一応、元々狙っていた稀咲についていた人だからと口封じはスッパリ諦めたのだけれども。これはヤバい奴に見つかったかもしれないな、みたいな。無意識で舌を打ってしまったことだって仕方がないだろう。今更どうしようもないのだが。
 元より、前回では正しく私よりも重要な立場に居たこの男を行方不明者に数えてしまうわけにはいかないのだ。代わりを見つけることすら億劫であるし、おそらくドンピシャで使える代わりも存在しないだろう。自分がその位置に成り代わってやろうと思えるほどに野心があるわけでもない。もしも万が一そうなったところで、上手く動ける自信もない。

 ──まァ、何かがツボにハマったらしい半間はとりあえず放置で構わないか。よく知りもしない、特に嗅ぎ回っていたわけでもない面倒な人間の相手は後に回すに限るな。
 とりあえずと、地面に伏せているレディースを順に抱え起こし、丁寧に関節を嵌め治していく。次いで、近くに置いてあった私物のリュックから取り出した救急セットで殴った記憶のあるところだけ手当てをすることにした。

 人を良いように使うには飴と鞭、だったはずだ。私はクソ親父から飴なんてモノを与えられた覚えはなかったからよく分からないが、DV野郎から逃げられない女は暴力の後の優しさに絡め取られていると聞く。ソレが真実かどうかはさておいても、ここから挽回するには上っ面だけでも優しくしておいた方が良いだろう。
 何なら手段はもっと可愛らしいモノだったとはいえ、兄貴竜胆には似たことをして取り入った記憶もある。所謂ギャップ萌えというやつだ。飴と鞭も概念としては似た様なものだろう。違う? いいんだよ細かいことは。

「……ボコった後で手当てするとか何考えてんの?」
「ギャ、」
「……『ギャ』?」
「いや……飴と鞭……みたいなアレです」
「…………エ、今ギャップ萌えって言おうとしたン? そろそろ腹痛てェんだけど」
「違いますし良かったじゃないですか。腹筋割れますよ」
「腹筋は元々割れてるっつの」
「へえ」
「……自分で言ったくせに興味なさそーじゃん?」
「ないですからね」

 流石に会ったばかりの半間相手にギャップ萌えなんて単語を使う気も起きないからには、自分のよく回る口が余計なことを言う前に少しずつ話を逸らすに限る。
 いや、若干言いかけてしまったし、普通に半間の方から言われてしまったのだが。上手いこと流れたからにはどうでも良いのだ。

 そのまま淡々と手当てを進める私の手元を見て「なんだそれ」と残念そうな声を出す半間は、やはり喧嘩をしたくて顔を出したらしかった。私としては止めてくれてありがたいとすら思うものの、最初に『止まンのかよ』と言われたからには、半間としては止めるつもりなど微塵もなかったのだろう。
 その証拠としてか、手当ての最中にも突き出される重そうな拳を避けて、振り抜かれた長い脚を避けて。興も削げたから断ろうと思っても、話を聞いてくれる相手ではなさそうだったから。諦めて、未だ燻るモヤモヤの八つ当たりに付き合ってもらうことにした。前回でも半間は間違いなく強かったのだ。相手に取って不足はないだろう。

「お、ようやく殺る気になった?」
「まァ、あの人達よりは頑丈そうですし」
「ばはっ♡ そりゃあそうだろ。女と一緒にすんなよ!」

 それから。未だ地面に転がるレディースの面々に「肩、後でちゃんと固定してくださいね」とだけ声を掛け、曰く歌舞伎町の死神と喧嘩するに相成った。今はまだそれほど広まっていない名前でも、一部では既にそう呼ばれていることくらいは知っている。間違いなくヤバい奴であるということも、なんとなくは知っているのだ。

 距離を測って、出方を伺って。右ストレート、避けた先に来るのは、重心の移動の仕方からして、おそらく左の蹴り。想定通りに飛んできた蹴りを避けて、長い手に襟首を掴まれないように接近して、顎底に掌底を打ち込んだ。
 一瞬ふらついた軸を立て直しつつも、そのままの体勢から飛んで来るのは右膝正面──途中で「結構容赦ねえな……」と零せば、少しだけ引き攣った顔で「オマエにだけは言われたくねえよ」なんて言われてしまった。まァ、コレはおそらく、初手で金的を狙って蹴り上げた脚のことだろう。腕が立つと分かっている男が相手であればそれが一番効くのだ。狙うのは当然だった。

 いつの間にか邪魔なレディースも消えた路地裏で、目の前の喧嘩には必要のないことは何も考えずに、お互いの体力が尽きるまで。これといった打算も、矜恃すらもない相手との喧嘩は間違いなく楽しかった。そんな遊びは──結局、お互いの腹が鳴るまで続いたのだ。

「……何か食う?」
「…………ラーメン」
「いいじゃん。つーかすげえ今更なんだけど名前何?」
「マジで今更……左衛門三郎です。好きに呼んでください」
「ンじゃ、左衛門の奢りな」
「ハ? 半間も来るんですか?」
「ったりめーだろ。オレも腹減ってンの」

 そんな軽口を叩きながらも、引き摺って連れて行かれた先は──リクエスト通りのラーメン屋だった。 正直なところ、誰かとそれほど仲良くなりたいわけでもなく、人前で素顔を晒すことだって躊躇した。
 それでも、起きてから何も口に入れておらず、連続の喧嘩で腹が減っている以上仕方がなかったわけで。どうせ湯気でサングラスも曇るのだ。素顔そのままは見えないだろう、みたいな。

 何度目かの替え玉を悩んでいる途中で「案外カワイー面してんのな。タッパの割にマジでガキだったりする?」と言った半間にも、その言葉以上の興味・・は見当たらなかったから。しっかり見られてンのかよとか、歳そんなに変わらないだろとか、バカにされてンなァコレ、とは思ったものの。結局のところは「普通にガキですよ。まだ小5なんで」と言うだけに留めておいたのだ。

「一個下かよ。つーかネンショーって小学生でも入れんの?」
「普通に入れますが……いや、そもそも半間だって少年院まっしぐらじゃないですか」
「オレはほら、何か死神らしいし」
「小学生で死神とかもっとヤベーから……」
「今更だけど金あんの? すげえ替え玉してっけど」
「ありますよ。カツアゲの成果ならそれなりに」
「ウーワ……一個下からカツアゲとかいう単語聞きたくなかったワ」
「は? どうせ半間だってやってンだろ」
「オレはいーんだよ」
「はは! 横暴!」
「ばはっ♡ DVクソ野郎が何言ってンだよ」
「エ、そんなに言います?」

 ──カツアゲとは言ったが、喧嘩をしたら差し出される財布をありがたく頂いているだけではある。目と目が合ってバトル、からの勝ったら賞金とかどこのポ×モンだよとも思わなくもないが、食い扶持を増やしてくれること自体はありがたいのだ。
 それらを名前を知っている会社の株にブチ込んで良い感じに増やしていることでもあるし。つまりは、いつの間にか戸籍に入れてくれていた伯母さんが、私の分もと渡してくれるモノ以上に金はあった。

 とはいえ、半間も流石に歳下にタカる気はなかったのか、結局自分の分は自分で払っていた。店を出ても微妙な顔を崩さない半間に「別にカツアゲだけではないですよ」と適当な弁明をしていれば「左衛門も何かねえの?」と聞かれて。また飛んだ話に首を傾げつつ、多分死神みたいなアレなのかなと当たりをつけた。

「あだ名みたいな?」
「そー」
「ンー……昔はローレンスって呼ばれてました」
「…………左衛門・ローレンス・三郎?」
「まさか。幼馴染の間で外国人っぽい名前で呼び合うのが流行ってただけです」

 少しの間の後に、心底不思議そうに「……何で?」と聞かれたからには、まァ。理由自体は別に隠すこともないとして素直に答えることにした。ここでわざわざ馬鹿正直に本名をもじったものであると明かす必要もないのだ。どうとでも誤魔化せる。

「可愛い女の子の気を引きたかったから、ですね」
「想像以上にしょーもねえな……」
「ガキのあだ名なんてそんなモンでしょう」
「つーかずっと思ってたンだけどさぁ、その敬語何? ちょくちょく抜けるし、最初は違っただろ」
「キャラ付けですね。イカしたサングラスの情報屋には似合いの胡散臭さでしょう?」

 それから、その時々で気になったことを脈絡もなく聞く自分のことは棚に上げて「何だコイツ」とでも言いた気な顔を隠しもしない半間に苦笑して。適当に話を戻し「今のところは情報屋以外は知らないですね」答えたことを──少しして後悔することになる。そのまま流してしまえばよかったと。

オレ死神と一緒に居るなら悪魔、は安直か。見た目だけなら吸血鬼っぽいけど」
「しれっと使い魔にしようとしないでください。しかも牙ないし」
「違えよ、顔のハナシ」
「……顔の話であれば、いつもはもっとマシですよ」
「……今日どっか悪ィの?」
「や、普通に寝不足。夢見が悪くて」
「フーン……」

 ラーメン屋でしこたま替え玉をした後で、途中の路地で件のレディースが落として行った煙草に火をつける。供物というか、身代わりというか、ドロップアイテムというか。何にせよ、何かを盛られているということもないだろうとして、ありがたく貰っておいたモノだった。

「んじゃ、一周まわって天使とか?」
「天使みたいな可愛い面だと? ありがとうございます。自分でもそう思います」
「そ……だけど違えよ。何だその顔面への自信は。原型分かンなくなるまでボコボコにしてやろうか」
「可愛い面だと言ったのは半間では?」
「だりぃ〜……言ったけどさァ……」

 レディースを倒したら煙草が報酬に貰えるらしい、なんて。そんなことをぼんやりと考えつつも、煙を吐きながら「一服中に相手するのは流石に怠いんでやめてくださいね」と言えば、隣で噎せながらも煙を吐く口で「微妙に理由になってねえんだよな……」なんてことを言われてしまった。なるほど、半間は喧嘩の最中にも吸うタイプであると。であれば、碌に吸えないまま一本が終わりそうだ。

 ちなみ半間が吸っているのは、ポケットから箱を出したら当然の様に横から手が伸びてきたので普通にあげた一本だ。元より私の煙草ではないし。吸うんだ? へえー、くらいの感情だった。
 そういえば前回でも吸ってたっけな、とは思ったものの、正直関わりがなさすぎてほとんど覚えていない。時折盛大に噎せる様子からして、どうも今はまだ吸い慣れているわけでもなさそうなことしか分からない。

「オレが言ったのは白衣の天使の方。ローレンスだし、クソな理由でも一応手当してたし」
「あー……ね。今日の服は黒ですけど」
「白着ねえの?」
「血抜きが面倒な色は基本着ないです」
「ばはっ♡ 急に世紀末みたいなこと言うじゃん」
「世紀末筆頭が何言ってンだ……」

 なーんで未来のヤバい奴と一緒に煙草吹かしてンだろうな、とは考えないことにした。少し話をした限りだとまだ兄ちゃんの方がヤバいのだから。喧嘩相手の顔面を陥没させて殺すことは──まァ、半間だってそのうちやりかねないが。今はまだそこまではしないだろう、という話だ。

「むしろ半間が白い服着てるのにびっくりしたんですよね。血みどろになりそうな喧嘩の仕方するのに」
「落ちねえンなら捨てりゃ良いだろ」
「もしかして、お金持ち」
「財布なんてその辺に落ちてっからなー」
「カツアゲ……いや、追い剥ぎ……?」
「や、流石にカツアゲ」
「あははっ! それもそれでどうなんですか?」

 そうして、頭を使わない死ぬほどどうでもいい会話をダラダラと続けつつ。一服を終えた少し後から絡んできたどこかの誰かを殴る手を止めずに「でも天使はカツアゲとか言わねえもんな……」と呟く半間は、ずっと私の死神に相当する名前を考えているらしい。
 腹ごなし後の煙草を消しながら駄弁っている間にも絡まれた辺り、やはり半間は目立つのだろう、とか。不良を引き寄せるオーラでも出てンのかな、と思ったことは完全に現実逃避だった。

 何せ半間と居ると、ついさっきのやらかしがどうでもよくなるくらいには絡まれるのだ。全くもってどうでもいいことではないが。一人で歩いていたとしても、この頻度で絡まれることはたまにしかない。
 しかも私が何かしらの琴線に触れたらしい半間の中では、これからもよろしくしてくれることが確定しているらしく。どうしてこうなった。それでいいのか稀咲の側近。マジでどうしてこうなったのか。

 ──正直に言えば。前回のこともあって、心の底から厄介な奴と知り合ってしまったとは思った。けれど私自身、何の気を張らなくて良いこの空気感が嫌ではないと思えることもまた事実なのだ。
 出会って数時間も経っていないにも関わらず、適当に駄弁っているうちにこの空気感が成立してしまったわけで。それもかなり早いタイミングで成立した辺り、多分、どこかで波長が合ってしまったのだろう。既に誰が言ったのかも覚えていない様な他称『ヤバい奴』と波長が合うとか、全くもって認めたくはないのだが。

 ただ、そもそも、不良とは拳を交えればマブみたいなモノになる文化圏でもあるし。今みたいなことがあってもおかしくはないのだろう。
 ──いや、私は一度もなかったのだが。半間だって、その辺の不良相手にこうなったことはなさそうだが。

 前回でも半間と仲良くしておけばもっと楽しかったのかなとか。友達とか、万が一のときの未練が増えそうだからあまり増やしたくないんンだけど、みたいな。どちらに転んでも今更どうしようもないことを考えながらも、適当に口を回して、手近な不良の肩を外して。
 今は塀の中に居る兄貴竜胆から教わった関節の外し方が上手くいって、思わず笑顔になってしまったところで──半間が「ア、」と言った声が聞こえた。反射で視線を向ければ、当然の様に目が合う。さては今笑ったの見られたな?

「今度は何です」
「堕天使は? ほぼ悪魔だし、天使面自称してる癖に中身はギャップ萌えイカレヤニカスDVクソ野郎だし」
「すげえ増えましたね」

 なおも指折り数えながら「さっきも堕天してたじゃん?」と首を傾げる様子に、ほんの少しだけ頭が痛くなった。堕天って。ネジ理性を吹き飛ばすことをそんな風に表現するな。
 しかも半間は──こちらの話を聞くつもりなど微塵もないらしく。ここは頭を使わず言葉を返すに限るか。

「しかもイカレ……何……?」
「なーに知らねえ言葉聞いたみてえな顔してンだよ」
「死神言語、ワカラナイ……」
「いや、堕ちたての元天使つったら逆にそれっぽいか……?」
「は? ボケをマジに取らないでくださいよ」
「何、実は思ってねえの?」
「思ってますけど。我ながら綺麗な顔してますよね」
「思ってンのかよ……」

 そりゃあ、自分の面が良いことは自覚している。何せ揃って綺麗な顔をした兄弟の血縁で、母親も綺麗な顔をしていたのだ。いつかに生殖能力を潰して放置してきたクソ親父だって、顔だけは整っていた。これで私だけ微妙だったらそれはそれで辛い案件だろう。
 とはいえ、どうせすぐに忘れるだろうと思って脳直でボケ続けているものを素直に拾われることだってどうにも居心地が悪い。しかも何でギャップ萌えの方まで覚えてンだよ。おかしいだろ。一番に忘れろよ。

「顔に関しては事実なので。ちょーっと笑いかければ恋に落ちますよ」
「よーし殴る。さっさとツラ出せ、ボッコボコにしてやるから」
「げェ、一発でもマトモに当ててから言ってください」

 宣言通りにこちらに飛んできた拳をサクッと避けつつ、遠い目をしながら「右目が疼く……! とかやるべきですかね」みたいな。笑い飛ばされることを見越して冗談を言えば、未だ成長途中であっても縦にひょろりと長い男からは「ハ?」なんて、これまた本気に取られた様な声が聞こえて。とうとう拳も止まってしまった。『ハ?』はこちらのセリフだが……?

「ガチで目悪ィの? 確かにずっとグラサン外さねえし……」
「流石にサングラスは伊達ですって。どちらかといえば様式美的な?」
「そっちかよ。真顔で急にボケんのやめろや」
「ええー……そんなに分かり辛いですかね」
「割となー? マスクあると顔もほぼ見えねえし?」
「……まさか今までずっとボケてたのも、」
「…………マジ? どれ?」
「死神言語も……笑いかければ恋に落ちるとかも……」
「ばはっ! マジで全部じゃねえか!」

 喧嘩中の変なテンションのままに「様式美ってンならさァ、いっそのこと包帯でも巻いてみれば?」とか「どこも怪我してないのにですか?」とか。「あー……そういや全部避けてたっけな……」とか「痛いの嫌いなんですよね」とか。
 「ソレでよく不良やれてンな」と呆れる半間も「殴られる前に確殺すりゃ良いンですよ」なんて嘯く私も。友達を増やしたくないと思っていたことすら忘れて、揃って馬鹿みたいに声を上げて笑っているこの場では本当にただの冗談だった。

 ──冗談、だったのに。

 少し後の六本木で。チャリに跨った半間とばったり再会したときに「アレ、広まったっぽいな」と言われたときは、流石に目を覆って崩れ落ちてしまったのだ。
 いや、広まっていたこと自体は知っていたのだけれども。今回では二度目ましての相手にまで知られているとなればいたたまれなくもなる。ある種の黒歴史を覚悟して始めた不良だとはいえ、マジであるある黒歴史のド真ん中を突っ切ることはないはずだっただろ。

 薄い桃色に色付いたサングラスの下から両目を覆い、地べたに崩れ落ちて呻く私を見て。ソワッとした様子で「……目、疼くン?」なんて聞いてきた半間相手に、思わず足が出なかっただけマシだった。何せ普通に恥ずかしい。

「コレなら死神とか吸血鬼の方がマシだ……」
「ばはっ♡ †漆黒の堕天使†と一緒にすンじゃねえよ」
「何増やしてンだクソ愉快犯……!!」
「ハ? 今日だって服真っ黒なんだから何も間違ってねえだろ」
「そう……ですけども……」
「やっぱオマエ黒好きだろ」
「嫌い、ではない……」

 ──いや、でも。どうせもう広まっていると半間に知られてしまっているのであれば、スッパリと開き直った方が精神衛生上マシなのではないだろうか。
 最近は何故か、六本木でも旧姓よりもそちらの呼び方で絡まれることの方が多いのであるし。旧姓やローレンスの方があまり広まって、万が一渋谷勢の耳に入って乗り込まれるリスクを考えれば──ウン、もうそれでいいか。

 回すことすら怠くなった頭は強制的に止めた。生憎と現実逃避と思考停止は得意なのだ。年季が違う。
 少しだけ唸ってから「目、でしたっけ。疼きますね」と言えば、ハンドルに上体を預ける半間からは「思ってたより諦め早ェなァ……」なんて声も聞こえてくる。何だ『思ってたより』って。そんなにネチネチした人間に見えていたのか。特に間違っていないから何も言い返せないが、それとこれとは話が別なわけで。今からタイマン張っても良いンだぞ。全部避けてやるからさっさとチャリから降りろ。

「つーかさあ、前会ったときと顔色変わンねえじゃん。また寝不足? 悪夢だっけ?」
「ア? ……まァ、寒い・・とだいたいこんな感じなんで。もう慣れてますしお気遣いは不要です」
「つってもなァ……」

 コロコロと変わる話題を流している間にも、勝手にサングラスとマスクを外され、下ろしていた前髪まで手で上げられて。遠慮もクソもない距離感でまじまじと人の顔を眺めた後で「やっぱ死人の顔色なンだよな……」なんてことを言われてしまった。
 ──何だコイツ。二度目ましての距離感じゃねえだろ。

 そのあんまりな言い草に失礼極まりないな、とは思ったものの。正直に言うと、人の心配なんてものをする性質タチの人間だったのかとも驚いたのだ。それとも、既に広まってしまっている名前をマシだと言った方に訂正する気があるのだろうか。
 強いて表情から推察するのであれば──心配の方が色が強い気もする。どうして。マジで何だコイツ。

「……添い寝でもしてやろうか?」
「オ゙ェ……」
「ア゙? なんつった今」
「何も言ってないです」
「聞こえてっから」

 ──あァ、嫌だ。未練になりかねない友人は増やしたくないとは常々思っているのに。明らかな苛立ちと、それでも少しの心配を混ぜた顔で「強制的にブン殴って寝かし付けるぞコラ」なんて言う半間が、大切な・・・友人の枠に収まらないはずがないのだ。
 クソ、と内心で吐いた悪態は、僅かに苛立ちを濃くした「聞いてンの?」なんて声で掻き消された。まァ──まァ、良いか。コイツは早々死ぬタイプではなさそうだし。大切枠に入れたところで、死なないのであれば、圭介の様に未練になることはない。もう、それで良い。

「……はは、せめて寝かしつけられるくらいには当ててから言ってくださいよ」
「マジで可愛くねーな……中身も顔面に合わせて来いよ」
「顔面が可愛いって? ありがとうございます。自分でもそう思います」
「だりぃ……定型文やめろや……」
「笑顔の威力見ます? 割と自信ありますよ」
「ド真顔で急にブッ込むのやめろ」


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