「灰谷、」
なんとなく「ちょっと寄って休憩して行くか」なんて気分になっただけの、集会も何も予定していない天竺幹部の溜まり場にて。私以外は誰も居ないと思っていた空間に、私以外の辛そうな声が落ちた。
返事もせずに声がした方にあるソファに歩み寄り、そっと覗き込めば──そこには、目元に腕を乗せたサラサラとした銀糸が散らばっていて。正直、だろうなとすら思ったのだ。確かに今日も気圧が低い。
「今日、薬ねえの」
腕の間できょろりと視線を動かし、間違いなく私のことを視界に入れて。明らかにこの場に居る人間が私だと理解した上でそう言ったイザナ君に、面倒に思う感情を隠さず息を吐いた。
「ありますけど。今まで通りに呼んでもらえないのであれば今ここで全て飲み干します」
「キッツ……自殺志願者かよ。それかヤベえメンヘラ」
「惜しい、ただの効率主義ですよ。どっちも否定できませんけど」
とはいえ、普段から誰よりもヘラってるイザナ君にだけは言われたくない。空笑いをして「そういや大事なヤツが生きてるから死んでねえンだっけ?」なんて言ったイザナ君に無言を貫きながら、自分用に買ったペットボトルの封を開けた。
元より、私がこの場に来た目的は休憩だ。例に漏れず気圧と寒さにやられ、これ以上何処かをフラついていては危険だと判断したからこそだった。下手をすれば黒歴史の再来にもなり得ない──それだけは絶対に避けるべきだったから。
だから出先から一番近く、暖も取れる場所で薬を飲んで、落ち着いたら帰ろうと思っていたはずなのに。今日の天竺は湘南に行く予定であるらしいから、誰も居ないのであろう溜まり場で一息つくつもりだったのに。まさか同じ様な人が居るとは。計算違いもここまで来れば爆笑モノだ。
八つ当たりがてら、大将なら責任持って
何せ、それなりにシカトをしていても一向に手足が飛んでこない。通常のイザナ君ではこうは行くまい。それほど重症な人に、立場を理由に「喧嘩してこい」は拷問でしかなかった。
確かにこの状態であれば、誰だって「大人しくしていろ」と言いたくなるだろう。ここまで酷くなかったはずの私ですら、今朝は揃ってそんな感じのことを言った兄に置いて行かれたのだから。
──つまるところ、
ここはサクッと買収しておくべきか、なんて。そんなことを考えつつも、かさりと小さな音を立て、薬の前に腹に入れておくべきものを取り出した。
「……胡麻団子?」
「お、よく分かりましたね。匂いそんなにありました?」
「や、紙の音。胡麻団子っぽかった」
「ウッワ……流石は横浜天竺のトップ……」
「『ウッワ』っつったか? 今」
「おひとつ如何ですか?」
「……もらう」
話題を変えるついでに、どうせたくさん買ってきたし、と胡麻団子を勧める。どうせ少しすれば問答無用で頭痛薬を強奪されるのだ。であれば、イザナ君だって先に腹へと何かを入れておくべきだった。
そうして。机の上に買ってきた胡麻団子を広げていれば、怠そうに上体を起こしたイザナ君からの「この量全部一人で食うつもりだったのか……?」なんて呟きを拾ってしまった。それが何か?
「しつこいオバサンから買った?」
「や、ソレは流石に撒きました」
「へー……やるじゃん。どうやったの」
「どうって……普通に、一頻り世間話をして、向こうが満足したところで解散しました」
「……それで行けたの? マジ?」
「ええ、案外」
そう、案外行けた。押し売りされつつも、曰く『しつこいオバサン』が売っている胡麻団子の特徴を聞き出し、微妙に好みに合いそうにない態度を装いつつ、通りがかった買い物客の服装から流行りの話になり、そういえばと売り子の化粧で力を入れていそうな箇所を「ずっと素敵だと思ってたんだけど」の文脈で褒め、化粧品のメーカーを聞いて、当該アイテムで評判の良いメーカーを適当に挙げ、そのメーカーの悪口を一頻り聞き。売り子が満足したらしいところで「また話そうね〜」とにこやかに手を振って解散した。
既に何周もしているとはいえ、こちとら現役女子中学生である。話題をコロコロ変えることなんていくらでもできる。──まァ、普通に営業妨害なのだが。この辺りはあちらが押し売りをしている時点でお互い様だろう。
「もしかして食べ比べでもするつもりだったとか?」
「……ア? あー……まァ、そうですね。そんな感じです」
「オマエ聞いてなかっただろ」
「ははは、まさか」
「……まァ良いけど。結構食い意地張ってんだ? 見えねえな」
「燃費が悪いんですよ」
酔った勢いで諸々を開示した以上、今更顔を隠す必要もないイザナ君の前でマスクを外し、胡麻団子を飲み込みながらもそんなことを言えば──「ふうん」と気のない相槌が返ってきた。
「蘭はそんな食うタイプじゃなくね? 竜胆もむしろ糖質制限してるタイプだろ」
「……兄妹だからって体質までまるっきり同じなわけじゃないですよ」
実際にそれなりの量を食べないと、せっかく育てた筋肉──どころか、薄い脂肪ですらも何処かへと旅立ってしまう。筋肉も裏切るし脂肪も裏切る。信用できるのは男子中高生にやや引かれるレベルの食事量に耐えられる、強靭な胃腸だけである。つまり、胃腸炎に連なる何かの疾患になれば終わるということだ。代謝が良すぎるのか何なのか。原理自体はよく分からずとも、これが現実だった。
元より肉が付きやすいタイプでもなく、極端に痩せやすい。いつかの飢餓状態が後遺症として今に残っているのかと思っても、確か、飢餓状態の後遺症は蓄えやすくなる方だったはずで。つまるところ後遺症云々は関係なく、シンプルに体質であろうということで決着がついている。少なくとも私の中では。
「そういうモン?」
「そういうモンです」
またフーンと相槌を打って。結局のところ数個食べたっきり「もういいや」と言ったイザナ君から差し出された手に、お望み通りの頭痛薬を乗せた。そのまま、水は流石に自分で準備している姿を眺めつつも、黙々と胡麻団子を口に入れる。
──何となく香りや味の濃さで違いは分かる気もするが、美味いかそうでもないか以上の感想が湧かなかった。いつもだったらもう少しマシな感想も浮かびそうなところでも、今日は普通に頭も回っていない。精々がこんなものだ。味が分かるだけ重畳とも言える。
「あ、そういやさァ」
「
「オマエ、何で此処に居んの?
「……ンー」
最後の胡麻団子を飲み込み、ついでにイザナ君から返ってきた頭痛薬を流し込む。小首を傾げて「買収されてくれます?」と聞けば、キョトンとした顔で「理由によるけど」と言われてしまった。理由による、なァ。
「急に胡麻団子食いたくなったンですよね」
「ハ? ソレで出てきたってこと?」
「そういうことです」
「馬鹿じゃん」
「返す言葉もなく」
誰が持ってきたのかも分からない毛布に包まり、イザナ君が居るソファよりもやや入り口に近いひとりがけのソファへと横になる。靴を脱いで、ソファからはみ出てしまわない様に、もぞもぞと体を丸めて──ダメだ、横になったら余計に頭痛が酷く思えてきた。
「……そんな調子の癖にわざわざ出てくるなよ」
「そっくりそのままお返ししますね。イザナ君、別にここに住んでるわけじゃないでしょう」
暗に家は割れてンだからなと言えば、勘のいいイザナ君は、言外の意味に気付いたらしい。ぐっと押し黙った後で「ソレは……」と一度口を開き、それから、言葉を探すように小さく呻く。
そうしてしばらく、誰が持ち込んだのかも分からないヒーターの音と、それぞれの呼吸と衣擦れの音が聞こえる静かな空間が広がった。そろそろ体も温まり、薬も効いて。少しばかりの眠気に襲われ始めた頃──言い訳をする様に「寒いだろ、何もねえと」なんて、小さな声が落とされた。
──『寒い』、なァ。
物理的な寒さであれば、今みたいにヒーターを付け、毛布に包まれば事足りる。元よりイザナ君がたまに帰っているらしい単身用の部屋自体、間取り的にはそれほど広くもなかったはずで。
であれば、ヒーターと毛布と、追加で白湯でも飲めば凌げるはずなのだ。仮に何もない部屋だったとしても、流石に簡易キッチンくらいは備え付けられているだろう。ここに湯たんぽもあれば寒くはなくなる計算だった。調子が悪いときに白湯と湯たんぽを自力で準備できるかと問われれば、多分、無理なのだが。
とはいえおそらく、これほど溜めて言われたからには、そういうことではない。
理解を放棄しようとする頭を叩き起こし、視界ごとわんわんと揺れる微睡みの中で、どうにかして思考を回す。
物理的な寒さでないのであれば、それはもう、感覚的な寒さでしかない。つまりイザナ君
一人で居れば、余計なことを考える。一人で居れば、余計な感情も湧く。不調であるなら尚更だ。
少なくとも、人の温かさを知ってしまった以上、調子が悪いときくらい、その影の濃い場所に縋りたくなる。そんな気持ちも──まァ、分かる。イザナ君もこのタイプだとは思わなかったが。
「……私も同じ理由ですよ、多分」
──もうほとんど回っていなかった頭で小さくこぼした音が、イザナ君に届いていたかは分からない。何なら、このときの私は既に、自分が何を言ったのかすら認識できていなかった。
「何で蓮がここに居ンだよ……! 置いてきたはずだろ……!」
「おい蘭、もうちょい声落とせ。サブロー寝てンだから」
「オマエの声の方がでけえよモッチー」
「オレが呼んだ」
「いや何で大将が呼んでンの……!?」
「だから蘭、オマエもっと声落とせって」
ただ──まァ。緩やかに意識が浮上したときに、器用にも静かに騒ぐ兄達の声を聞いて。無事イザナ君の買収に成功したことだけは、なんとなく理解できたのだ。
「……マジでよく寝てンな……つーか睫毛に爪楊枝乗るんじゃね? コレ」
「すげえマブいのは分かるけど、ソイツ寝起きは悪魔ッスからね。あんま近寄らねー方が良いッスよ、獅音センパイ」
「知ってるっつの……つーかオマエ、ソレ聞かれてたらどうするつもりだよ……」
「寝てるンで大丈夫ッス」
──申し訳ないが、全部聞こえている。
「なあ……サブロー目ェ開いてるけど……」
「怖ェこと言うなって鶴蝶」
「や、マジで」
その言葉を聞いて、ギギ、とブリキの様な動きでこちらを向いた次兄は──一拍動きを止めた後、光の速さで向かいにあるソファの裏へと回った。見事な早業、私でなければ見逃していたね、なんて。
「えーっと……」
「兄貴」
「……ハイ」
「お腹すいた」
「ハイ……」
「……や、オマエ馬鹿の量の胡麻団子吸い込んでただろ」
私から距離を取るついでに自ら顎で使われてくれそうだった次兄を横目に、呆れた様子を隠さない、静かなイザナ君の声が響く。「まだ食うのかよ」なんて追撃まで飛んできてしまった。
「ふ、ふふふ。イザナ君も意地悪ですね。悪魔のロールプレイくらい乗ってくれれば良いのに」
「……そういうことか。せめて打ち合わせくらいさせろ」
「んふ、ごもっとも」
「何か急に仲良くなってねえ?」と首を傾げる長兄とモッチーには笑ってしまった。その感想もごもっとも。私でさえ理由は分からないが、まァ、何かしらがイザナ君の琴線に触れたのだろう。ソレが何かは全く分からないが。
「……で? 何で蓮はここに居ンの?」
「オレが呼んだ」
「イザナ君に呼ばれました」
「どう見ても結託してンだよなー?」
「何? 蘭はオレが嘘ついてるって?」
「ほらソレ、大将のその顔は冗談言ってるときの顔だから」
「……残念だったな、灰谷」
「今すぐ薬吐いてくださいね、イザナ君」
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