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「頭パンクしそう……」
「……悪ィ、助かった」
場地とよっ友になり、よっ友になる前からケア方法が気になっていたトゥルントゥルンの絹髪はまさかのノーケアかつ最強遺伝子の賜物であることが発覚して。いつの間にかトサカみたいな髪型をやめていた松野が、これまたいつの間にかすごい懐き方をしたらしい場地の舎弟──本人が言うには『右腕』であるらしい──になっていて。その間も全力で逃げていた場地の勉強を見る係から、今日は逃げられなかった。それだけの話だ。
「もう二度としない……」
「は……!?」
「何」
「嘘だろ……オマエに見捨てられたら……」
「松野に拾ってもらいな。舎弟……じゃない、『右腕』なんでしょ」
「そーいう問題じゃねえよ」
「ならどういう問題なの」
「……何でも良いだろ」
「そっか」
体が酸素を求めているのか、くわりと小さく欠伸をした。そのままゴソゴソと鞄を漁って、勉強用に常備しているチョコレートを机の上に二つ出す。そのうちの一つを場地の方へと滑らせれば、いつも以上にぼんやりとした声で「サンキュー」と言った口の中にそのまま投げ入れられた。声を発すること自体がもう億劫で無言のまま滑らせてしまったけれど、なんとなく伝わった様で何よりか。
頑張ったのだ、場地も私も。例え場地が甘いものを苦手としていたとしても、今は糖での回復を優先させるべきだ。
──本当に散々だった。場地の頭も、私の頭も。
どうにかこうにか噛み砕いて説明しようとしても、その噛み砕いた説明すら通じなかった。嫌な予感がして九九を言わせようとしても、当然の如く言えなかった。そもそも多分、説明に使った日本語の大半が通じていない。
普段の会話ではそれほど不便を感じないのに、勉強の説明だと思ったらいつも以上に頭が回らなくなるのだろうか。よく分からないけれど、正直手の付けようがない──というか、どう考えても私では力不足だ。
単元を遡りながら場地が理解できているところを探り、何が理解できるのかすら全然分からないことに頭を抱えて。微妙に思い出したくもない黒歴史ごと、中学以前の記憶まで引っ張り出してきて。そこまでしてようやく、どうにか場地が理解できているところを特定できた。
特定できるまで付き合ったのだ。次はもう犬猫絵柄のドリルからやり直せ。先生役は松野でよろしく。本当にもう二度とやりたくない。教師の手が入ってコレなのに、ただの真面目が取り柄なだけの中学二年生の私がどうこうできるはずもない。
まあ、正直、場地が馬鹿なのはもういい。授業中の様子からもなんとなく分かっていたことだ。だからこそ全力で逃げ続けていた係なのであるし、そもそも一応、場地なりに必死で理解しようとしていたし。その意識を褒めこそすれ、想像以上の馬鹿だったからといって今更どうも思わない。
精々が、よっ友になる前から知ってたけど? くらいのモノだ。私が拾わなくていいのであれば、程度の差なんてあってないようなモノなのだから。
そんなことよりも、何度目かの「丁度いいところに」で私を巻き込んだ担任にキレ散らかしたい気分だった。一応教師の仕事であるはずのことをいち生徒に、しかもよりにもよって私に押し付けるな。本当に一生許さない。教員は仕事量が多すぎて忙しいとか知らないから。
もしもこの世にデスノートが存在していたとしたら、血眼で探し出して真っ先に担任の名前を書くところだ。デスノートが存在していない世界で良かったね。
机に突っ伏して「頭痛い」と何度目かの文句を言えば、これまた何度目かの「悪ィ、助かった」なんて言葉と共に、頭の上に場地の手が乗った。しつこくてごめんねとは思うけれど、それくらい大変だったのだ。存分に労いたまえよ。
「もう本当に……これからは全部松野に聞いて……」
「……千冬、オマエの方が頭良いって言ってたぞ」
「当たり前じゃん。真面目しか取り柄ないのにサボり魔共に負けられるわけないから」
「とりえ」
「……誇れない、ってこと」
「はァ? そんなことねえだろ」
「あるの」
ふと、意欲はあるのだな、と思って。気になって聞けば、どうも留年したときにお母様が泣いているのを見てしまったらしい。それ以降、もう二度とそんな理由で泣かせないと決めたのだそうだ。その心意気やヨシ。
とはいえそもそも、義務教育で留年するとかいう意味の分からないことをしでかした以上、そりゃあ、お母様も泣くだろう。当然すぎる。その程度のことを決意したくらいで胸を張るな。何度でも言うけれど、場地が留年したのは義務教育なのだ。向き不向きはあるにしろ最低限当たり前に進級しろ。留年したくせに学校をサボるな。最近は出席頻度増えてて偉いね。その調子で毎日来ようね。
「……場地さあ、学校楽しくないの」
「あー……楽しくなかった」
「あれ、過去形だ。今は楽しいの?」
「……まあ」
「何で?」
「何でも」
相変わらず踏み込んでほしくなさそうな返事には「ふーん」とだけ返す。その理由もなんとなく分かるのだから、それ以上は踏み込まないことにした。
だってそりゃあ、クラスメイトからのあからさまな腫れ物扱いが薄らいだだけでも多少はマシになるだろうし。『右腕』にするくらい松野と仲良くなったのであれば、そりゃあ、今までよりきっと、ずっと楽しいだろう。
「ふふ」
「何笑ってんだよ」
「いやー? 私のおかげかなって思って。学校が楽しいって思えるくらいの友達ができて良かったね」
「……は」
「あれ、知らない? 松野に場地のこと教えたの、実は私なんだよね。や、どの人? って聞かれたからあの人って言っただけだけど」
「……そーいう」
「何だと思ったの?」
「別に」
「ああそう」
場地は案外秘密主義者だ。何かしらのことは考えているのだろうな、ということまではなんとなく分かっても、それ以上のことを教えてくれないときもままある。そもそも何を考えているかが分かり辛いタイプだし。『何かしらのことは考えているのだろうな』と思ったとて、本当に何かしらのことを考えているとも限らないのだ。もしかしたらなんにも考えていないのかもしれない。
それでも別に、場地の意思を無視してまで場地の全部が知りたいとも思わない。私個人の知りたい気持ちを理由にして、場地の全部を教えろなんて言えるわけもない。進級したての頃よりは遥かに気安くなった距離で、相変わらず毛並みの綺麗な珍獣だなあ、と思えるだけで楽しいのだ。それでいいじゃないか。
──そこまで考えて、ふと、眠いなと思った。普段とは違う頭の回し方をしたからか、それとも、未だにずっと頭の上に乗せられている手のせいか。どちらでも構わないし、多分、どちらもだった。この手は心地良い。
「場地、」
「おう」
「ちょっと寝る」
「……は?」
問題しかないやる気のないヘアケアを聞いて発狂したときも思ったけれど、場地は割と体温が高い。ぽっかぽかなのだ。年はひとつ上なのに子供体温なのか、それとも筋肉量が多いからこそ体温も高くなるのか。前者ならどこか面白いし、後者なら素直に納得できる。不良だしな、そりゃ筋肉量も多いよな。そもそも普通に男の子だし。
つまり何が言いたいのかといえば、そんなぽっかぽかの大きな手でゆるゆると頭を撫でられていれば眠くなるのも当然だろう、という話だ。謎の安心感もある。
「おやすみ〜……」
「待て待て待て待て……! 寝んな! 起きろ!」
「あ〜……先帰ってていいよお……」
「そーいう問題じゃねえだろ!!!」
「声でか……」
もぞもぞと動いて腕を枕にし、既にほとんど落ち切っていた瞼をどうにかしてこじ開けようと試みた。それでも、既に少しも開かない目でどうにか場地の方を見て。「うるさい」と言えば、どこか引き攣った様な声で「うるさくしてんだワ」と返されてしまったから。ああそう、なんて思いつつ──そのまま、寝た。
──
────
──────
少しの肌寒さと叩き付ける様な水の音で目を覚ます。のろのろと身動ぎをすれば、肩から何かがずり落ちそうになった感触があって、反射で肩の辺りを手で押さえた。目も開けないままに硬めの手触りをした布に鼻を寄せると、うっすらと石鹸の香りがする。これは多分、柔軟剤というよりも。
「起きたか」
何度かゆっくりと瞬きをし、焦点を合わせて。それから、寝る前と変わらない距離から聞こえてきた低く落ち着いた、心地の良い声に視線を向ける。いつもは真面目にきっちり着込んでいるブレザーを着ていない場地が、頬杖をついてこちらをじっと眺めていた。──多分、匂い嗅いだところも見られたな、コレ。
柔軟剤ではなさそうな石鹸の匂いとはつまり、牛乳石鹸かシーブリーズの青の匂いだった。おそらく持ち主であろう本人に見られるとかどんな恥だ。今すぐに机の角に場地の頭を叩き付けたら忘れてくれないだろうか。勉強周りのことを忘れられては今日のお互いの苦労が水の泡になるし、できれば都合良くこの記憶だけ飛ばしてほしい。それかいっそ殺してくれ。全部無理ですね。知っています。
とはいえ、正直もう、過ぎたことは仕方ないのだ。わざわざ忘れてくれと言う方が恥ずかしいし、本当にどうにもならない。少しの間考えて、結局のところ、恥ずかしさもそのままに開き直ることにした。
寝惚けていたので当然覚えていません、ということにしよう。寝惚けた無意識の状態での行動だと思われることもそれはそれで恥ずかしいけれども。おそらくバッチリ見られている以上、本当にどうしようもないのだから。肉を切らせて骨を断つとは、きっと今みたいな状況のことを指すのだろう。そんなわけがない。
そうして、痺れる腕を枕の役割から解放しつつ「まだいたんだ」なんて声を出す。頭はそれなりに覚醒している割の寝惚け声が聞こえ、恥の上塗りすぎるな、なんてことを考えた。
いや、コレであれば覚えていないことにも説得力が出るかもしれない。都合良く寝惚け声を出してくれてありがとう、私の声帯。ナイスタイミングだったよ。
「オマエな……」
「ン……?」
「こーろーしゃ置いて帰れるワケねえだろ」
「別に気にしなくて良かったのに」
「そーいうワケにもいかねえって」
「そう。あ、ブレザーありがとね」
「オウ」
肩に掛けてくれていたブレザーを返し、小さく身震いをする。思ったよりも寒いな。寝ている間に窓の外が土砂降りになっていたからだろうか。それも、厳密に言えば予報外れの。
帰りどうするかな。一応折りたたみ傘は常に鞄に入っているけれど、折りたたみ傘程度で凌げる気がしない。場地が傘を持っているとも思えないし。
「……寒ィならそのまま羽織っとけ」
「や、いいよ。場地が冷えるじゃん」
「オレは寒くねえし」
「はは、そんなわけ」
笑いながら目の前あった手に触れれば、本当に割と温かかった。いいな、冷え性とかなさそう。
予告なく触れた手自体は一瞬ピクリと動いたものの、特に何も言われない。振り払われることもなく、大人しくされるがままになっているのをいいことに好き勝手握りこんでいく。やはり冷え性知らずの温かさ、羨ましい限りだ。
手のひらも指先も割と硬めであるらしい。喧嘩をする人らしく程よく短く切りそろえられた爪は全体的に四角く、関節もしっかりとした大きな手だった。
血管が浮いた場地の手の甲に自分の指を這わせ、軽い力でぷにぷにと押してみる。すごい、ミミズみたいな触り心地だ。流石にミミズを素手で触った記憶はないけれども。多分こんな感じなのだろう。
次いで第二関節を指先で摘んで、自分にはない薄い皮膚の質感に不思議な感動を覚えて。勝手にひっくり返した手のひらを合わせて大きさを比べ、そのまま指同士を絡ませて握り込む。水掻きの皮膚すら薄いらしい。無駄な皮下脂肪が少ないのだろうか。羨ましすぎる。
「……あ、」
「……………………何だよ」
「これ喧嘩タコ?」
「あー……オウ」
「ちゃんと不良なんだねえ」
「……今かよ」
「今だね」
そもそも私は、場地が喧嘩をしている現場を見たことがない。教師には相変わらずすぐに凄むし、あの気合いの入った不良だった松野がここまで懐く人なのだ。場地から否定されたこともないし、不良であることはただの事実なのだろうな、とは思っているけれども。今までの私への態度からしてなんとなくの輪郭でしかなかった噂が急に現実味を帯びた存在として実感できた、というところだろうか。
「パンチとかするタイプの不良なんだ?」
「……パンチはしたことねえ」
「……? じゃあこの喧嘩タコは?」
「ア? ……? ……あー、そっちか」
「はは、どっち」
「パンチパーマかと思った」
「は!?!?!?!?」
静かに落とされた声に、思わず食い気味に反応してしまった。机越しに身を乗り出して「絶対しないで」と言えば、若干身を引かれて。そんなに分かりやすくドン引きしなくても良くない? と不貞腐れつつ座り直した。
「……そんな似合わねえか」
「似合う似合わないの話じゃなくてね」
ついつい強めに握り込んでしまった手を離し、後ろで一纏めにして胸元へと流された艶やかな黒髪を一房掬い取る。こんなに綺麗な烏の濡れ羽色の髪が、パンチパーマでチリチリになるとか。絶対に耐えられない。せっかくの最優良遺伝子なのに、そのおかげでノーケアかつありえないの極みである石鹸洗髪でもこのうるツヤなのに。
いくら場地が一ミリも気にしていないとて、この最上級の髪がなくなってしまうなんて悲しすぎる。世界の損失と言っても過言ではない。
とはいえ、まあ。私がどう思っていたとて、この髪は私のモノではないのだ。その辺りはきちんと認識しているつもりだから。
「……まあ、場地がしたいならすればいいと思うけど」
「すげえ嫌そうなのは分かるぞ。流石に」
「そりゃ個人的にはね。この綺麗な髪がチリチリになるのは世界の損失だよ」
「それはねえだろ」
「だから『個人的に』って言ったじゃん」
相変わらずするすると指通りの良い美髪を指先で弄ぶ。ただ眺めているだけの私が耐えられないからといって、持ち主である場地にその感情を押し付けてはいけない。だからこその『個人的に』だった。
「場地さあ、」
「……オウ」
「パンチパーマにしたら一番に見せに来てよ。私に」
「おー……?」
「うわあ、嫌そう」
「や、別に良いけどよ。何でだ……?」
「目の前で全力のギャン泣きして場地の良心抉ってやるから」
場地がしたいならすればいいし、私がとやかく言うことではない。ただ、それに私が耐えられるかどうかはまた別問題、というだけの話だ。私の『耐えられない』を場地に押し付けるわけにはいかないし、それを場地が気にする必要もない。
けれど、本当のところはあるかも分からない良心に付け込もうとすることくらいなら。それでもう、少なくとも私の前ではやめておこうくらいに思わせることができたら。そうなればきっと、私の勝利だ。何と戦っているかすら分からないけれども。
「嫌がりすぎだろ……」
「そりゃあ嫌だけど、場地がしたいなら私がどうこう言うべきじゃないでしょ」
気まずそうに首筋を触り「……そもそもするつもりねーワ」と言った場地に、何度かパチパチと瞬きをして。それから、「なら良かった」と笑ったのだ。どうも、中学二年生としてのプライドをかなぐり捨ててまで全力のギャン泣きを披露せずとも、この勝負には勝ててしまったらしい。多分今は場地のパンチパーマ欲に勝ったのだと思う。
「……雨だねえ」
「今か」
「実はずっと思ってたんだよね。帰りどうしようって」
「分かんねえよ」
「よく言われる」
ふと、ゆったりとした会話が自然に途切れたタイミングで窓の外を見た。朝の天気予報では小雨の夕立ちのようなものだと言っていたけれど、どう見ても土砂降りだった。この分であればすぐには止まないだろう。
「場地、傘ある?」
「ねえ」
「だよねえ……」
ふと、場地に傘を貸して私は走ったら早いのではないのだろうか、と思って。「家どの辺?」と聞けば、場地は少し不思議そうな表情で首を傾げて。それから、長い指で窓の外を指差した。
「向こうの団地」
「ここから見える?」
「あー……まあ、頑張れば」
席を立って、窓に寄って。目の上に手でひさしを作りつつも目を凝らす。指を指された方をじっと見ていけば、いくつかそれらしい建物群が見えた。「……どれ?」なんて聞き直せば、私が張り付いているすぐ側の窓枠に手が付かれる。目線を合わせるためだろうか。反対側からはさっきに散々好き勝手した指先が目線の位置に伸びてきた。次いで、耳元であの心地良い声が聞こえた。
「……アレ」
「…………手前から二番目?」
「や、三番目」
「なるほど」
だとしたらやはり、場地の家の方が遠い。ならば場地に傘を貸してしまった方が良いだろう。我ながら名案だ。「場地」なんて声をあげて場地の声が聞こえた方に顔を向けた──ところ、文字通りの目と鼻の先に場地の顔があって。一瞬頭が真っ白になった。
「……何だよ」
──まさかそのまま喋るつもりか、この男。
反射で距離を取ろうと思っても、場地の顔がある方の反対側は、未だ窓枠についたままな場地の腕に阻まれている。腕側を強行突破をするつもりで素直に身を引いたら、おそらくそのまま場地の胸に飛び込むことになる。
頭突きをすればワンチャン……? いや、ないな。無理だ。私は特に石頭ではないし、そもそも体幹からして違うのだ。男女差然り、純粋な年齢差然り。この歳の一歳差は侮れない上に、相手は現役バリバリの不良であるらしいし。つまり──身動きが、取れない。
相変わらず碌な打開策も浮かばない真っ白な頭でも、これが……あの狂犬松野が惚れ込んだ不良の囲い込み術……! なんて感動する余裕は一応、あるらしいのだけれども。どうにかして「いや、」と絞り出した声は、我ながら分かりやすくか細く、上擦ったもので。パチリと瞬きをした場地はそのまま固まってしまった。
多分見ていられない様な顔をしているから、あまり見ないでほしい。普通に恥ずかしい。何で凝視してるの。瞬きくらいしてよ。そもそも固まるなら少しでも顔を離してからにしてほしい。うわ睫毛結構長い。肌荒れとかなさそう。つまりそれが私に分かるということは、場地にも分かる距離だということで。
そろそろ勘弁して──と目をぎゅっと瞑った直後、すごい勢いで頬が片手で鷲掴みにされて。思わず目を開けてしまった挙句、「ぷへ」なんて間抜けな声が漏れた。
「……」
「……あの、」
「……」
「場地〜……」
「……」
ダメだ。全く反応がない。もうずっと瞬きすらしていない。中身をそれなりに知っている場地だからそこまでではないだけで、不良のガン見は普通に迫力があるのだ。そもそも女には手を出さないのではなかったか。今まさに結構な握力で顔面を鷲掴みにされているのだけれども。
これが……不良の握力……! なんて感動している場合ではない。当然、ガン付けてんじゃねえよ! とか言うべき場面ってもしかして今……!? みたいなことを考えている場合でもない。
とうとうどうしようもなくなって「そろそろ痛いです」と両手を顔の横まで挙げて申告すれば、少しの間を置いてバッとその身が離された。良かった、ようやく離れてくれ──待って、勢いが良すぎる。離れてくれたのは助かったけれども。普通に転けます、これ。アーメン。カチ割れた頭の骨くらいは場地が拾ってほしい。もう全部場地のせいにしてやるから。
「ッ、ぶね……」
「……ごめん、ありがとう。助かった」
「ハ? フツーにオレのせいだろ」
「だいたいそうなんだけどね」
私が体勢を崩したのを察したのか、ギョッとした顔で戻ってきた場地は、腕を背中側に回して支えてくれた。自分の足で立たせてもらう間には「ソッコーで諦めんな」「受け身くらい取れ」なんてお叱りも受けたけれども。だいたい場地のせいだけどね、なんてことを考えながらウンウンと頷いておいた。確かに体勢を崩して持ち直そうとしなかったのは私だからね。でも場地も悪いんだけどね。──これはもう蒸し返したくなかったから、深追いしないことにした。下手に思い出したら私が耐えられない。今度こそ顔から火が出る気がする。
「で? 結局何だったんだよ」
「あ、そうそう。私家近いし、場地に折りたたみ傘貸してあげる〜って思って」
「……オマエは?」
「走って帰る」
「馬ッッッ鹿じゃねえの」
「は? どう考えても名案でしょ。しかも場地にだけは言われたくないから」
途端にぐぅっ、と言い返せない顔をしたので、今回の舌戦は私の完全勝利らしい。やはり自他ともに認める事実に基づいたド正論ストレートパンチは強い。
それからしばらく、場地は言葉を探す様に視線をウロウロとさせていたものの。一度大きな溜め息を吐き「どーでもいいけど」と低く呟き、私の頭に手を乗せた。──好きなのかな、それ。まあ私も場地の髪触るの好きだしな。割と好き勝手に触らせてもらっている以上、なんにも文句は言えない。
「そろそろ帰んぞ」
「うん。傘は場地が使ってね」
「はァ? まだ諦めてねえのかよ」
「私の足の速さはチーターとかバイク並みなんでしょ?」
「……オマエ送って、その後借りる、で良いだろ」
「? そんなに大きくないよ。折りたたみだし」
「じゃー借りねえ」
「頑固!?」
教室から始まったそんな言い合いは昇降口まで続き、最終的にはじゃんけんをして勝った方の案を呑むことになった。──で。
「……」
「……」
「……弱くねえ?」
「黙りな」
一度負けて、後出しで三回勝負を宣言して。更に後出しで五回勝負を宣言して。結局五回とも全部負けた。そんなことある? あった。そもそも三回勝負なら三回目をするまでもなく二回目で負けは確定するし、五回勝負でも三連続で負けた時点で終わりなのだけれども。途中からはどこまで連続で負け続けるのかが気になって、結局最後までしてしまったというわけだ。場地はじゃんけんが強いね。
「本当に大きい傘じゃないし、あんまり意味ないと思うよ」
「? 寄れば良いだろ」
「あのねえ……」
鞄から傘を出して、袋から出して。本当にそこまで大きくもない折りたたみ傘をパッと広げても、場地の表情は特に変わらなくて。二人で一つの傘を使うということは、具体的な言語化はしたくないからしないけれど、つまりはそういう状況になる。実情はともかく、不良のお友達に出くわしでもしたら間違いなく揶揄われると思うのだけれども。
その辺りのことは分かっているのだろうか。私がさした傘に少し身を屈めて入ってくる場地は、相変わらず表情が変わらない。この分であれば分かっていなさそうだ。本当にヤだこの年上同級生。松野に少女漫画貸してもらいなよ。
「……オレが持っていいか」
「頼んだ」
「ン」
「腕死ぬ」
「だろーな。プルプルしてんじゃねえか」
「頑張ったんだよ」
「無理するくらいなら最初に言えよ」
「なんか、できるかなって思って」
いつもよりかなり高めの位置まで傘を上げていたとはいえ、流石にずっと微妙な猫背は辛いのだろう。とうとうされた提案には素直に頷いた。私もそろそろ腕が痛くなる頃だったし、場地も楽な姿勢の方がいいだろうから。
そうして。それっきり、場地の居ない側の肩が濡れることもなくなって。何だかなあ、と思ったのだ。下心があるのかないのかすらも分からない。多分何も考えていないのだろうなとは思っても、当たり前の様に私の肩が濡れない位置に無言で傘を置き直した辺り、きっと自分の肩が濡れないことに違和感はあったのだろう。細やかな気遣いができるのは最高だと思うけれど、今されると自惚れそうにもなる。勘弁してほしいな。
「さっき、」
「うん」
「痛くして悪かったな」
「──ああ、うん」
──いや、言い方。もう少し何とかならなかったのか。しかも全力で頭から追い出そうとしているところを蒸し返さないでほしい。
「ちょっとびっくりした」
「マジで悪い」
私が居ない方の肩を丸々濡らした場地は、微妙に気まずそうな表情をして「考える前に手出てた」と懺悔する。考える前に手が出たとて、どういう感情だったのかは教えてくれないらしい。
とはいえ、そもそもずっと気に病んでほしいわけでも、ずっと申し訳なさそうな顔をしていてほしいわけでもない。傘を持たなくなったおかげで手持ち無沙汰になった手を何度か握り込みながら「アレが……不良男子の握力……!」と改めて感動し直していれば、少し高い位置から「何でちょっとテンション高ェんだよ……」なんて声が聞こえてきた。あ、コレは分かる。ちょっと引かれていると見た。割とドン引きに近いかもしれないけれど、その辺りの細かなことまでは流石に分からない。場地検定は多分、松野の方が級が高いとも思うし。
「なんか面白いじゃん」
「何がだよ」
「松野もあれくらい握力あるのかな」
「……千冬にはさせんな」
「させるわけないじゃん。痛いのヤだし」
「言ったな? 絶対すんなよ」
「はは、しつこいな。しないってば」
「信じらんねー……」
「場地の中で私ってどういうイメージなの???」
「…………あー、珍獣」
「場地にだけは言われたくないから」
「は? 何でだよ」
──そもそも、場地の言い分を信じるとすれば、手が出る前後は何かしら考えていたということだろうか。あの至近距離も? 流石にそれはないか。
「そういや家どこ」
「あそこ。青い屋根の」
「……マジで近ェな」
「だからそう言ったじゃん」
そろそろ自宅は目と鼻の先だ。なれば後のことは特に考えなくてもいいか、と思って。「そういえば何で顔掴んだの?」なんて、実は一番気になっていたことを聞いた。
「……マジで悪かった」
「そう何度も謝ってほしいわけじゃないよ。普通に何で? ってだけ」
「……」
「……?」
家の前まで来て、場地と共に足を止める。そんなに答え辛いことを聞いただろうか。それとも遂に怒らせてしまったか。
不安になって黙り込んでしまった場地を見上げれば、無言のままで目を細め、じっとこちらを見下ろしていた。睨まれている──わけでは、なさそうか。分からないけれども。少なくとも眉間にシワは寄っていない。なんとなく、怒られている様な空気も感じない。単に見ているだけ、みたいな、良くも悪くもいつも通りに近い雰囲気だった。
「……それはどういう顔?」
「……や、オマエ、あんなかわいー顔もすんだなって。思ってただけ」
そう言うや否や、場地はわざわざ少し屈んで、私の耳元に口を寄せた。そのまま内緒話をする様に「傘借りてく。鍵はさっさと閉めろよ」とだけ言って、一度丁寧な手付きで髪を梳いて、そのまま来た道を戻って行った。ご丁寧にも、私を屋根の下に押し込めてから。
「……マジかあ」
──それはちょっと、狡すぎないか。