翼を手折られた少女
奴隷となって半年が経つ頃には、リュシーはずいぶん男と――ニックと打ち解けていた。
ここに来る前は雑貨屋を営んでいただとか、リュシーと同い年の娘がいるのだとか。環境のせいもあって、そんな互いの心の柔いところまで話す間柄となっていた。
とは言っても、頻繁に喉を切るリュシーはほとんどニックの話を聞くばかりだったのだが。
ニックは時折、酷く懐かしそうに目を細めてはリュシーを見た。
物心つく前に別れてしまったため、きっとあの子は俺のことなんざ覚えてない。そう苦笑した彼がやけに記憶に残っている。
ニックは始め、リュシーの翼は噂に聞く悪魔の実によるものだと思っていたようだった。
一口でも食べると、実に宿る特殊な能力を得られるのというそれを、リュシーは本の話のように聞いていた。
母の故郷のことを考えるともしかしたら本当にあるのかもしれないが、枷の嵌った自分には関係のないことだと思ったのだ。
◆◆◆
ゆらり、ゆらり。瞼の裏を照らす何かにリュシーは目を覚ます。
一年もの間檻の中で眠っていたリュシーは、毛布もない冷たく硬い鉄の上でもすぐに眠りに就くことができるようになっていた。反面、生存本能が働いているのか、少しの物音や気配に反応し意識が覚醒してしまう。
けれどもおかげで鞭を打たれることが随分と少なくなり、リュシーのミミズ腫れはいくらか落ち着いていた。
リュシーはぼやけた視界で部屋の中を確認し、誰もいないとわかると上半身を起こした。
立ち上がるには不十分な高さの檻、鎖がぶつかって音を立てないようにそろそろと格子に近付く。
「――…!」
はくり、息を呑んだ。
目の前の光景が信じられず、リュシーは思わず鉄格子を握る手に力を込める。
夜だというのに、窓の外はいやに明るかった。赤く照らされた月星の光が、弱々しく輝いている。
「……」
地面が揺れた。
たくさんの足音と怒号が窓越しに聞こえ、どうやらそれが建物まで揺らしているらしかった。呆けて口も閉じられないリュシーの口内が、じわじわと渇いていく。
――――それは炎だった。
マリージョアの、天竜人の家々を焼き尽くす真っ赤な炎。轟々と燃え盛る焔に紛れて、悲鳴じみた数多の歓喜の声が聞こえる。
解放された。
救われた。
走れ。
逃げろ。
捕まるものか。
天竜人に、もう二度と。
「…、…、……ぁ」
それは、奴隷たちの声だった。窓を隔てた向こう側、どういうわけか枷を外した奴隷たちが逃げている。屋敷を燃やし、注意を逸らし、たくさんの奴隷たちが逃げているのだ。
足音が遠くなっていく様に、リュシーはハッと我に返る。
格子の隙間から手を伸ばした。手枷の鎖が当たってがしゃん、と音を立てたが、膝立ちになり限界まで手を伸ばし、どうにか窓を触ろうとする。
「っ、う…」
無理矢理引っ張られた手首が痛み、リュシーは小さく唸った。切れてしまった喉ではそれすらも辛く、音にならない想いを心の中で必死に叫ぶ。
たすけて。
リュシーが手を伸ばすたび、ぶつかった鎖がガン、ガン、と虚しく響く。
朝できたばかりの右腕の腫れが、手枷が動くごとに熱を持ったが、それでも構わず窓に手を伸ばした。
一晩中続いた救いを求めるリュシーの声は、ついぞ届くことなく朝を迎えた。
◆◆◆
後に英雄と称されるフィッシャー・タイガーによる聖地マリージョアの奴隷解放。その翌日。
火が消され、微かな焦げ臭さが空気に混ざって漂う中、リュシーは茫然と窓を見上げていた。
手首はすっかり赤黒くなり、所々に血が滲んでいる。痛いはずのそれに気付くこともなく、焦点の合わない青い瞳を閉じることもなく、リュシーは人形のように窓に視線を向けているのだった。
どしゃり、と床に叩きつけられた自分の身体に、ようやっとリュシーは意識を今≠ノ向ける。
力など残っているわけもない。数時間の抵抗は、連日の暴力と肉のない身体に着実に疲労を蓄積していた。
のそり。生気のない目を持ち上げれば、血走った目がいくつも、いくつも、いくつも、そこにあった。
リュシーは天竜人に首輪の鎖を引っ張られ、檻の外に投げ出されていたのだった。
「この」
「……」
「…この、この、このォオオ、おおおおおおおおおおお!! 下々民が!!!!! 下々民の分際で、私たちに、天竜人に逆らったのかえええええええええええええええええ!!!」
天竜人が咆哮する。
リュシーの主人以外の、他の天竜人も咆哮している。
集まっていた。この部屋に、きっと昨日逃げた奴隷の持ち主たちが集まっていた。
逃げた奴隷がどれほどいたのか、リュシーにはわからない。
それでもおそらく、この屋敷以外でも奴隷が残っている天竜人のもとでは同じことがされているのだろうと、そう思った。
だってリュシーだけじゃない。ニックが、この屋敷中の奴隷が、嬲られるためだけにこの部屋に集められているのだ。
ゴン、天竜人が怒り任せに男の奴隷を殴る。男が蹲って許しを乞う。
グリ、天竜人が体重をかけた足で女の奴隷の腹を踏む。女が身体を丸め涙を流す。
ドン、天竜人が金色の銃をニックに放つ。ニックの身体が幾度も跳ねる。
プツ、天竜人がリュシーの頬に爪を食い込ませる。痛みを逃がすために開けた口に何かを放り込まれた。
空腹が無意識に口を動かし、リュシーはつい咀嚼し――。
「…ぅ、うっ、ぇ゙、ゔ、…!」
襲ったのは耐えようもない吐き気だった。次いで腹を蹴られ、口内で胃液と”何か”の味が混ざる。
口端から垂れる唾液を気にする間もなく、リュシーは頬をぶたれ、頭を殴られ、怒鳴られながら切り付けられた。
暴力は何時間も続いた。いや、本当はほんの数十分のことだったのかもしれない。時間の感覚も曖昧になるほど、リュシーは甚振られていた。
実際、意識は何度も飛んでいたのだ。
霞んだ視界の中、リュシーはもはや呻くことすらできなかった。腫れ上がった頬、血を流す頭、赤黒い腹部、出血した四肢、止まらない鼻血。
それらを確認する気力も自覚する思考もなく、ただひたすら終わりを待っていた。
ふと、背中が軽くなる。
引き伸ばされた皮膚が、翼が持ち上げられていると知らせてくる。
「…」
耳鳴りがする。
心臓が拍動する。ドクドクと、ドクドクと。
「――…」
どくどく、どくどく、身体中の血が巡る。ちがめぐる。ちが。
「…ぁ」
ごとり、と、リュシーの背中が軽くなった。
眼球を、動かす。視界の端に映るなにか=B
「っ、あ、ああ、ああああああ」
あつい。あつい。あついあついあついあつい。
「あああああ!! ああああああああああああ!!! ああああああああああああああ゛あ゛あ゛!!」
リュシーは叫んだ。力の限り吼えた。喉が切れているのも構わず、体力が底を尽きているのも構わず。背中を覆う熱さに絶叫した。絶叫していたのだ。
「うるさいえ」
そんな小さな抵抗も、天竜人の前では無価値でしかないのに。
耳鳴りはまだ続いている。