誕生日の話
野辺の花のような淑やかな香りが、早朝の冷えた風にのって流れてきた。
船は広い海原をかき分け進んでいる。周囲に島影は見当たらない。それなら、この香りは人工的なもので、そして誰のものであるのか、容易に想像がついた。
頼もしくも愛らしい我らが航海士のものでも、美しくも聡明な考古学者のものでもなく。
ひと夏の夢のような、儚くも鮮烈に記憶に残る、不思議な魅力を持つ彼女のものだ。
そんな彼女が足音を忍ばせて、背後からおれの方にやってくるのがわかった。いたずらを企てている子供みたいで、無邪気で、それだけでもうかわいらしい。このまま振り向いて正面から受け止めたい衝動を抑えるのがやっとだった。
「おはよう、花束のお届けよ」
どこか弾んだ声とともに、甘すぎない香りに混ざって白く細い腕が伸びてきて、やさしく身体にまとわりついた。
あたたかくて、やわらかい。永遠に縛られたって、跡なんかつかないほど頼りない拘束。
「おはよう、レディ。花束って?」
「わたし」
詩的な言い方が気になって訊ねれば、ささやくような静かな声を耳の傍で感じて、心臓が一度、大きく鼓動した。
かわいい。こんなにかわいい子が、こんなにかわいいことをしていいんだろうか。
顔の中心に血が集まって、鼻を伝って吹き出そうになるのを何とか堪えた。スマートに振る舞いたい。それでも頬の筋肉が崩壊したようににやけるのが止まらない。だって彼女がかわいすぎるから。背中があたたかいのも、うれしくてしょうがない。ずっとくっついていてほしい、と天に祈りたくなった。
「あ、あんまりかわいいことを言わないでくれよ。どうにかなっちまいそうだ」
「でも、今日のわたしは花束なのよ」
「たしかに[FN:ナマエ]ちゃんはいつだって花も恥じらうほど美しいけど」
「そうじゃないの、花束なのよ」
随分と食い下がる様子に、おれは黙って耳を傾けることにした。
「花束の香りの香水をつけたの。だから今日はわたしは花束なのよ。サンジくんにあげる」
だって、お祝いする日なんでしょう?と言う彼女におれは息を飲んだ。
今日という日がどんな意味を持つのか、それはおれが一番よく知っている。けれど、あまり手放しで喜べない。いまだに足を引っ張ってくる過去がある。いまは仲間に恵まれたおかげで受け入れてはいるが、好きかと言われたらすぐに答えることは出来ない。
そもそもおれは、祝うとか、めでたいと思うとか、そういうのはしてやりたい側の人間だから、してもらう側に立つと居心地が悪くて困ってしまう。そういう性分だった。
「わたしね、絶対に、一番最初にあげたかったかったの。花はすぐに萎れちゃうし、香りだって飛んじゃうのよ。だからがんばって早起きもしたの」
「それは……大変だったんじゃないかい?[FN:ナマエ]ちゃん、朝が苦手だろ?」
「うん。だから、がんばったのよ。ねぇ、わたしが一番?」
「そうだよ。とびきり素敵なプレゼントを持ってきてくれた、[FN:ナマエ]ちゃんが一番」
「やった!あ、でも、これで満足しちゃだめよ?今日ははじまったばかりで、きっととても忙しくなるんだから!」
くすくすと笑う彼女の声の振動が、背中を伝ってくる。それと一緒に、上品な香りも身体を包む。
いつもとは違う朝、うれしいサプライズに、いつも以上にミステリアスで魅力的な彼女が、おれの近くにいる。
たったそれだけのことで、胸の奥が締めつけられて。そしてこのうえなく幸福な気持ちになってくるのがたまらなくなったから、身体に巻きついている華奢な腕を片方ほどいて、その指先にキスをした。
敬愛する、花弁のような爪を持つやさしいレディに。
幸せな朝を与えてくれたお礼に。