名前を呼んで、それから



前触れはきっとあったのだと思う。
わたしが気づかないふりをしていたのか、彼がうまく隠していたのか。
時に炎へと姿を変えるあたたかい手のひらが、指に触れて、手をつかみ、手首までおおって腕を引いた。言葉で伝えられる代わりに力強く抱きしめられて、彼の高い体温に包まれてからようやく、何をしたいのかを悟った。それまで互いの間に流れていた空気を切り裂くほど、強い感情を肌に感じて鳥肌がたった。心臓も、一度大きくはねて、それから小刻みに忙しなく胸を叩いた。
息が詰まって、苦しくて、けれど待ちかねていた瞬間でもあった。
「怖いか?」
耳元で静かにエースが言う。
「怖くないよ」
心の準備はできている。それを伝えたくて、彼の背中に腕を回した。目の前の厚い胸板に寄りかかり、耳をすますと身体の奥から鼓動が聞こえた。わたしと同じように忙しなく動いている。その早さが心地よかった。誰よりも近くで、生きている音を感じていることが不思議で、それがとても愛おしく思えた。
「なァ、」
声を受け取り、彼を見上げる。
熱を孕んだ黒い瞳の中に、わたしが映っている。
「名前、呼んでくれねェか」
懇願するように、それでも瞳にこもる情熱はそのまま、エースはわたしのおでこに自分のを重ねて言った。
「……エース」
一呼吸。ほんの数秒。口にするのに時間がかかった。何かが喉を締め上げているような気がして、呼び慣れた彼の名前なのに、初めて声に出した感覚さえした。
けれど口にした瞬間、抑えていた何かが溢れ出したようだった。
もう一度、今度はしっかり彼の目を見て名前を呼ぶ。
「エース」
名前を呼ばれたエースは、うれしそうにはにかんだ。
それからわたしの後頭部に手を当てて、そのままゆっくりと引き寄せられた。
唇と唇が触れ合う寸前、彼が小さく呟いた。
「好きだ」
それが合図だったかのように、わたしたちの距離がゼロになった。
キスをしたのは初めてではないのに、今まで経験してきたものとは違うなにかが、唇を伝って喉へと落ちて胸に溜まる。
あったかい。気持ちいい。くらくらする。このまま溶けていってしまいそう。
何度も角度を変えて、啄むようなキスをくり返しながら、やがて舌先がそっと入り込んできた。
触れた舌はとても熱く、わたしのものを容易く絡めとってしまって。
ぼんやりした頭で、呼吸の仕方なんてわからなくなっていたのに、その苦しささえも甘く感じて。
もっと触れていたい。自然と彼を求めていた。息つぎのために口を離すことすら惜しかった。
ほんの一瞬、離れた舌先を追いかけて、また深く絡ませ合う。
貪るように舌を吸われて、口の端から唾液が溢れても拭わずに、何度もくり返した。
そして、いつの間にか床に押し倒されていたことに気づく。眼前にあるのは天井と、わたしを一心に見つめる彼。
「エース」
荒い息をこぼしながら、束の間の自由を得た唇を動かして、また名前を呼んだ。
エースは薄く微笑んで、それから今度はわたしの首筋に唇を寄せた。
いくつか軽い音がしたあと、ちくりと小さな痛みを感じた。それと同時に快感が背筋を走る。
これがなんなのか、知っている。知っていた。ずっと、誰にも明け渡さずに持っていたもの。
それを今、愛した人に与えるのだというよろこびが、わたしの全身を震わせた。
そのことがとてもうれしくて、きっとエースもそうで、このあたたかな気持ちを分かち合いたくて、ひたすら夢中で抱き合った。

お題ガチャ消化作品

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