星のささやき



「よぉ」
船内の通路。わたしの部屋の前。
夜も更けて、静まりかえったその場所に、細長い影があった。
それはわたしを見ると声をかけて、どこか張りつめた雰囲気をほどいて、ふっと小さく笑んだ。
「こんばんは」
「こんばんは、って他人行儀だな」
「夜はこんばんはでしょう?」
「そりゃそうだけど」
彼は肩をすくめて、唇をとがらせた。まるで少年のような仕草に、思わず笑ってしまう。身体はわたしより大きいのに、なんだかかわいらしくって。
「帰ってくるのは明日じゃなかったっけ」
「予定より早く片付いたから、真っ直ぐ帰ってきた」
「あら、寄り道しなかったの。えらいね」
「……おれはガキじゃねェぞ?」
「そうなの?」
「そうだよ」
「それなら、夜遅くに女の部屋の前にいるのはあまりよくないんじゃない?」
少し意地悪なことを訊いたかな、と思った。それでも、気まずげに目をそらす姿を見て、また笑みが深くなる。彼の髪や服には少しだけ乱れがあった。もしかして、急いで帰ってきたのかも。余裕があるように装っているのに、ちょっとしたほころびがある。それもまたかわいらしさに似たなにかを感じた。
「それなんだけどな、本当ならこのまま自分の部屋で寝るつもりだったんだ」
「だった、ってことはなにかあったのね」
「あぁ、ちょっとした一大事だ」
「ちょっとなのに一大事?」
「そう、ちょっとなのに一大事なんだよ」
真剣な顔で言うものだから、おかしくてくすくす笑う。そんなわたしを見下ろしながら、彼は続けた。
「お前の顔が見たくてさ」
その言葉に思わず、えっ、と声が出た。笑うのをやめて、息を呑む。見上げた瞳の奥にあるあたたかな気配に気がついて、じわじわと頬が熱くなった。ゆるやかに広がるその熱を耳の端にまで感じていると、彼が一歩近づいてきてわたしの手を取った。大きな手のひらに包まれると安心する。ぎゅっと握り返してから言う。
「……それなら、ご希望には添えたかしら」
「んー……半分」
「半分?」
「できれば、キスのひとつでもしてェんだけど」
つながっていた手が離れて、宙を泳いでわたしの顔へとやってきた。指先が、頬に触れる。普段はめているはずの手袋はしていなくて、直接、体温を感じた。
「もう我慢は使っちまったから、手加減できねェと思うんだ」
「我慢?」
そ、我慢。そう言いながら彼は笑う。困ったように眉を下げて、首を振りながら。
「ナマエのことが好きで好きでしかたがないっていう気持ちを、抑え込むための呪文」
「呪文」
「ちゃんと唱えとかねェと、ナマエに嫌われちまう」
「わたしに嫌われるのはだめなの?」
「ああ、だめだ。嫌われたくねェ」
迷いなく言われて、心臓が大きくはねる。胸の内側をくすぐられて、ゆっくりとあたたかさが広がった。
「それなら呪文が効くように、わたしは早く寝ないとね。間違いが起きたら困るでしょ」
「あぁ、そうだな。そうしてくれ」
「でもね、ベッドに行けないの」
「行けない?そりゃあ、どうして?」
「あなたがドアに寄りかかってて開けられないの」
そっとささやけば、あぁ悪ィ、と彼は言う。けれど、どくような素振りは見せなかった。むしろ、距離を詰めてきて、顔を近づけてくる。もしかして、このままくっついてしまうのではと思ったけど、唇が触れ合いそうになったところで止まった。
「……どいてくれる?」
「聞けねェって言ったら?」
「サボのこと、嫌いになる」
「それだけはやめろよ」
苦虫を噛みつぶしたみたいな表情をして、彼は離れていった。
わたしはドアを開けた。彼も自然な手つきでドアに触れたから、てっきり一緒に入ってくるのかと思えばやっぱりそうではなくて、きちんと鍵を締めるようにうながしてきた。
「また明日、顔見せてくれよ」
「わかった。サボもちゃんと寝て」
「おう」
「また明日」
「おやすみ」
挨拶を交わしてから、ドアを閉める。足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなると、少しだけさみしくなった。明日になったら会えるのに。そんなことを思いながら部屋の奥にあるベッドに腰かける。
まだ、頬が火照っている。心臓も、ちょっとだけ鼓動が早い。
夜でなかったら、キスのひとつくらい、できたのだけど。

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