箱庭
火拳のエース!
と、通りの向こうからだれかの大きな声が聞こえた。
弾けるように顔を上げた。随分と切羽詰まった声だったから、胸の中に一気に不安の霧が立ち込めた。
しばらくすると周りにいた人たちがざわつきだして、やがて音の塊が近づくのを感じた。空気も揺らす地響きもして、一体なにが迫ってくるのかと思えば、数十人もの海兵。それを引き連れているのは、先頭を走っているエース。
どうしてこんなことに、と内心あきれて、まぁこれがいつも通り、と安心した。本当なら安心することなどしてはいけないのだけれど、彼と一緒にいる上で慣れてしまったことのひとつ。彼はどこへ行ってもこんな感じで、喧嘩をしたり、食い逃げをしたり、海軍に追われたりして騒がしい。そしてよく巻き添えを食らうこともあって、それだけが問題だった。
「おい!」
さてどうしよう、などと悠長に思い巡らせていたら、エースがよく通る声でわたしの名前を呼んだ。周りにいた何人かが、ふり返ってこちらを見た。
悪目立ちして恥ずかしいし、とても嫌な予感がした。そう思う前に、彼があっという間にわたしの前に来て、腕を掴んで、「行くぞ!」と言ったのだった。
「行くぞじゃないのよ」
通りから離れて、入り組んだ路地をひたすら走った。
たどり着いたのは廃墟と化した建物が連なる一画。目に見える範囲はごみ捨て場のようになっていて、さびがこびりついた廃材や、折れた柱のようなものとか、壊れた家具なんかが目についた。
わたしとエースはそのごみの山のような中にまぎれていた。
「どうしてわたしまで隠れなきゃいけないの」
「しかたねェだろ、お前を見つけちまったんだからよ」
そう言いながら、エースはわたしをぎゅっと引き寄せた。ふたりでいるにはちょっと狭い、立てかけられた分厚い木の板のすき間に入り込んでいるのに、念を重ねるような態度だと思った。
「わたしのことなんてだれも気にしないよ」
「おれはお前を放っておくことはできねェ」
こんなときに、なんてわがままを言うのだろうと思った。わたしのことをだれも気にしないのは本当のことだし、一緒にいても戦うことなんてできないのに。彼の守ろうとしてくれる姿勢はとてもうれしいけれど、足を引っ張るようなことはしたくない。心臓の音まで伝わってしまいそうなほど近くにいることが急に息苦しく思えてきて、そっと息を吐いたときだった。
ざらついた足音が、耳に届いた。エースも気づいたようで、警戒してわたしをさらに抱きしめた。しばらくして、足音と共に話し声が聞こえてきた。ふたり分の低い声。体格のいい海兵を想像して肩に力が入った。
────どうだった。
────いや、いなかった。
────しかたない、次は向こうを探そう。
聞きとれたのはそんな会話。その間に、砂利を踏む音、廃材を蹴る音なんかを絶えず響かせていた。おなかの上のあたりがぎゅっと締めつけられる。足からさっと血の気の引く感覚。気持ち悪くて、それに耐えているうちに乱暴な音を立てながら男たちは去っていった。話し声と足音が完全に消えてから、ようやく息を吸えるようになった。
「……行ったみたい?」
「あァ」
密着していた身体を離す。まだ肩が強張っている気がする。心臓の鼓動も落ちつかない。そんな中、エースがふいに耳元でわたしの名前を呼んだ。
「なあに」
「怖かっただろ」
「……ううん、平気」
「さっき、震えてたじゃねェか」
「びっくりしただけ。かくれんぼってドキドキするでしょ?」
「かくれんぼって、なァ……」
「子供のころやったきりだったから、緊張したの」
そう言って笑って見せたけど、本当は少しだけ怖かった。エースが一緒にいてくれなかったらと思うとぞっとした。追いかけられることに慣れていないから、余計にそう感じてしまう。
「……エースがいてくれてよかった」
安心している気持ちを伝えたくてそう言うと、エースは目を細めた。わたしの顔色をうかがいながらしばらく黙っていたけれど、やがてぽつりとつぶやいた。
「今度するか?かくれんぼ」
「えっ、」
「また追っかけ回されたら大変だしな」
「また追いかけられるのなんて、嫌だよ」
「でも、おれと一緒にいるんだったら何度もおなじ目にあうぜ?」
「そんなに自信もって言わないで」
あまりにも胸を張って見せる姿にあきれてしまう。けれど、そんなわたしを尻目に彼はにやりと笑った。
「まァ、おれはお前を守るし、絶対に傷つけさせねェけどな」
その言葉を聞いて、わたしはエースの顔を見上げた。誇らしげで晴れやかな表情からは嘘を感じられなかった。ただ真っ直ぐこちらを見ていた。
「本当?」
「当たり前だろ」
力強く返されて、胸の奥があたたかくなる。
「しょうがないなぁ」
照れくささをごまかすために笑ったけれど、じわじわと迫り上がる恥ずかしさに耐えられなくてうつむいた。それを追いかけるようにエースはわたしの顔をのぞき込む。前髪が混ざり合って、おでこが重なって、そのまま視線を合わせていると静かな声でそっと訊ねてきた。
「なァ」
「うん」
「キスしてもいいか?」
「え……今?」
「今」
「隠れてるんじゃなかったの?」
「もうだれも来ねェよ」
「どうして、急に」
「だめか?」
なァ、だめか、いいだろ。
唇を尖らせてわたしにうながすから吹き出すと、彼もつられて笑い出した。窮屈な空間に、くすくすと小さな笑い声が広がる。固くなった肩や落ちつかない感覚が、跡形もなく消え去っていく。
「ここから出たらね」
返事をすると同時に手を引かれた。
その急ぐような勢いに笑い声が止まらなくなってたのしくなりながらも、どうかだれにも見つかりませんようにとひそかに祈るのだった。