おやすみのキス





この間、そんな色のウィスキーを飲んだ。
そう言ったナマエの声は、いつもよりやわらかく、無防備で、おれのためにだけささやいていると錯覚しそうな甘さがあった。
薄暗くて、所々に照明の淡いオレンジが染み渡る部屋の中。どこもかしこも目の前にいる彼女の気配があった。こいつの部屋だから当然だけれど、気を抜くことができなくて少々居心地が悪い。
「そんなってどんなだ」
「目」
「目?」
「ローの目の色に、似てた」
テーブルに寄りかかり、肘をつき、手のひらに頭を乗せて、おれを見ながら笑う。
アルコールが回っているおかげで、額も、頬も、唇も、ほんのり赤く染まっていた。おれを見つめるその瞳が、濡れたように光っている。
手を伸ばし、頬に触れた。親指の腹でそっと撫でると、ナマエは目を閉じ、指先にすり寄ってきた。猫みたいだ。いや、犬かもしれない。気を許してくれている。それがうれしくて、身体の奥底から、かわいいとかいとしいとかそういった感情が込み上げてくる。おもむくままに抱き寄せようと腕を伸ばす。けれど、触れる寸前、彼女はぱちりと目を開き、素早く身をかわした。
「やだ」
「まだなにもしてない」
「いま、くすぐろうとしたでしょ」
わかってる、その手には乗らないんだから。
くすくすと笑いながら、半端に宙を漂うおれの腕を押し返す。それから、それまで脱力していた身体を起こし、何事もなかったかのようにまたグラスを傾けはじめた。
「酔ってるな」
「どうだろう……もっと飲んだらわかるかも」
「飲むな、グラスを置け」
「もうちょっとだけ」
「やめろ、明日に障る」
「それは、ローが起こしてくれるから大丈夫」
「おれは帰るから無理だ」
「泊まっていけばいいじゃない」
「そういうわけにはいかねェ」
「どうして?わたしはローにとって大切なひとなのに?」
おれを見上げるナマエの目はやはり潤んでいて、けれど弓形に形を変えていた。
押せば折れると思っているらしい。呆れやあきらめに似た感情が背中に張りついて、凝り固まっていく。
「おい、」
「ねぇ、ロー」
しっとりとした声で名前を呼ばれ、服の下で肌が粟立った。薄い爪の乗った指先が、頬に触れる。頬骨から、顔の輪郭をなぞってあごへと伝い、唇のふちをくすぐった。
「わたしのこと、好き?」
声を出したくても、唇をもてあそばれているため動かせなくて、うなずくことしかできなかった。
「ちゃんと言って」
ナマエの目尻がふわりとゆるみ、細められ、そのままゆっくりと顔を近づけてくる。おれはそれをじっと見下ろしていた。彼女の吐いた息は甘ったるく、熟れた果物のような香りがした。
「……嫌だ」
いい加減むずがゆくなって、小さく頼りない手を振り払った。ナマエは、「えー!なんで!」とそれまでの扇情的にも見えた態度と打って変わって、子どもじみた駄々をこねはじめた。
「酔っ払いに言うわけねェだろ」
「だって聞きたいもん!」
「じゃあ明日な」
「やだ!いま!いまがいい!」
「明日は明日だ」
「ケチ!」
頬をふくらませ、拗ねた態度をとる。ただのガキにしか見えない。けれどすぐに表情を崩して、「うへへ」と気味の悪い笑い声をあげ、またテーブルの上に身体を伏せた。
「おい、寝るなよ」
「うん」
「起きろ、ほら」
「ローは起こしてくれないんでしょ?じゃあ、ここで寝る」
「ナマエ」
「起きないもん」
「…………」
「このまま寝ちゃったら風邪ひいちゃうかも。そうしたらローのせいね」
「…………」
「ね、お願い」
にやにやと締まりのない表情をしながらおれを見てくるナマエ。
こいつ、かわいい顔すりゃいいと思っていやがる。なんて奴だ。
「しょうがねェな」
「やったぁ」
「だが、泊まらねェ」
「えっ」
「代わりに寝かしつけてやるから、大人しく寝ろ」
「んー……まぁそれでいいか」
納得したのかしないのか、ナマエは小さくあくびをして、それから両腕を広げてきた。おれはなにも言わずに、椅子に座るナマエを抱き上げた。軽い身体は簡単に持ち上がり、首にしがみつくように腕が回される。たった数歩しか離れていない寝室のベッドの上に降ろして横たわせてやる。毛布をかけてやって、寝かしつけると言った手前帰るわけにもいかないから、ベッドの縁に軽く腰かける。ナマエは毛布をぐちゃぐちゃにしながら体勢を変え、おれの腕を掴んでしばらくじっとしていた。
「ねぇ、ロー」
静かな寝室に似合いの小さな声で呼ばれた。声は出さずに、視線を合わせて聞こえていることを伝える。
「キスしたい」
「……大人しく寝ろって言っただろ」
「おやすみのキスは大事だよ?」
「しねェよ、寝ろ」
「やだ」
「うるせェな」
「おやすみのちゅーしてくれたらいい子になる」
ナマエは待ち遠しくてたまらないといったように笑う。腕を這う手にひらが、どんどんあたたまっていく。
「さっきからガキみたいだな、お前」
「ローもだよ。頑固で、意地っ張り」
「…………」
「ローといるときは、いつも子どもでいられる気がする。すごく、たのしい」
「…………」
「それに、子どものわたしも、ローは好きでしょ?」
「一言余計だ」
「わたしはローが好き」
「……知ってる」
「ふふ、うれしい」
「ほら、もう寝ろ」
「おやすみのキスしてあげる」
「いらない」
「だめ、目を閉じて」
腕を引かれる。意外にも、かなり力がこもっている。細い腕からは想像できないほどの。
しぶしぶ目を閉じて前屈みになると、頬にやわらかいものが押しつけられた。それは一度離れてからまた押しつけられ、最後に唇に触れた。
「おやすみ」
ナマエはおれの耳元でささやいたあと毛布の中にもぐり込んで、それからすぐにおだやかな寝息が聞こえてきた。
自分の鼓動だけが耳に響く。相変わらず全身を緊張感が支配していて、そわそわと落ち着かない。
少しの間、枕の上に散らばった髪や、頭の先、前髪からのぞく額なんかをぼんやりと見つめていた。ずっと見ていたいような、そうでないような。不思議な感覚を味わいながら、彼女を起こさないようにベッドを離れ、部屋の明かりを落とした。
上着を羽織り、部屋の鍵を手に玄関を出る。勝手は知り尽くしている。
ドアを閉める瞬間に、部屋の香りが後を追ってわずかに外へとやってきた。
どこまでもしつこくつきまとうのが、彼女そのもののようで、けれどそれは決して悪い気はしないのだった。



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