わけもなく落ち込むときもある話





彼がとてもやさしくて、それから感情豊かな人だというのは知っている。
だから、思いが通じ合う前も、通じ合ってからも、注意深く気にかけていた。
そのはずなのに。
「サンジくん、どうしてそんなに隅っこにいるの?」
キッチンの端でちょっと猫背になっている背中に声をかけると、びくっと身体を震わせながら勢いよくふり返って、目を丸くする。いたずらしているところを見つかった子どもみたいだった。
「あー……えっと、ちょっと考え事してたんだ」
ルフィの奴が盗み食いするから、明日作るものが作れなくなっちまいそうでさ。へらりと笑って見せる顔はほがらかで、それは困ったね、とわたしが言うと、本当に参っちまうよ、と眉を下げる。
それはよく見るいつもの彼だった。なのに、なにかを隠してるような気がした。キッチンの端と端。ほんの数歩の距離が、とても大きく、長く感じた。
きっとわたしには言えないことを抱えているのかもしれない。そしてそれは、わたしが踏み込んでいい領域ではないんだと思う。
でも、それならどうしたらいい?こんなとき、わたし以外の人なら、なんて言うだろう。
考えてみる。この船の人たちはみんな、さり気なく労わるのが上手い。わたしもよく、上手くいかないことがあったり、わけもなく落ち込んだときなんかに、見えない毛布のようなやわらかい気遣いをかけてもらっている。サンジくんもそういったことがとても上手い。あたたかくていい香りのするお茶を淹れてくれたり、特別だと言ってわたしの大好きな透明なつやつやの飴をまとわせたいちごやりんごをくれたりする。
わたしは彼からもらったものを口にすると、たちまち元気になる。ほかのみんなの気遣いも、あっという間に心にかかった霧が消えてしまうほど素晴らしい。
「ねぇ、サンジくん」
「ん?」
「わたし、お茶を飲みにきたんだけど」
「いいよ、いま用意する」
「よかったら一緒にどう?」
「えっ」
お茶が飲みたかったのは本当のこと。わざとらしくならないようにしたけれど、なにかをわたしから誘うことは決して多くないから、ぎこちなくなってしまったかもしれない。慣れないことをするのってとても大変。勇気をふり絞らないといけないし、自分がいかに甘やかされていたか、そして愛されていたかを知る。身体の内側に降り積もったこのあたたかさを、いまこそ次の必要な人へと渡すときだというのに。
いつものようにやさしくほほえんでくれると思った。でも一瞬、片側しか見えない瞳が揺らいだ気がした。まばたきひとつの誤差で、勘違いだったかもしれなかったけれど、そう見えた。失敗したかなと思った。落ち込みそうになったけれど、彼はすぐにいつもの姿へと戻る。待っててと言いながらやかんに手をかけて、お湯を沸かしだす。
「わたしもやる」
「いいよ、座ってて」
「ひとりじゃだめ、一緒にやるの」
そう言ってキッチンの中へと入って隣に並んだ。ここは彼の大切な場所。でも、いまは少しくらい強引になってもいいと感じた。
わたしもルフィやナミに、気分じゃないのに引っ張り出されるときがある。買い出しに街へ行ったり、冒険だと言って森の中に連れて行かれたりする。最初はとっても嫌なのだけど、どうしてなのか船に帰るころにはすっかりたのしかったと思えるようになるから、それを真似してみた。
サンジくんはなにも言わずに棚からマグカップを出した。わたしがいつも使っている白いカップ。それから彼の愛用している青いカップのふたつ。
わたしがいるのを許してくれたみたいだった。それがうれしくてつい頬が緩む。
「どれがいい?」
紅茶の葉っぱが入った缶をいくつか順番に手に取って、蓋を開けて見せてくれる。ビスケットみたいな甘い香り。透き通ったマスカットの香り。ほろ苦いキャラメルの香り。気持ちが落ち着くハーブの香り。りんごとシナモンの香りのものもあって、これはおれのおすすめと言われた。
「サンジくんは?」
「君とおなじのがいい」
「じゃあ、キャラメル」
「りんごじゃなくていいの?」
「それは、また今度サンジくんと飲む」
「はは、次があるのか」
「嫌だ?」
「まさか」
彼は小さく首を横に振る。次の約束ができることをよろこんでいるような顔をする。短い言葉が、それまでよりもやわらかくなっていた気がした。
マグカップに注がれたキャラメルの紅茶は、琥珀色に輝いていてとてもきれい。手の中に隠れてしまう花びらみたいな繊細なティーカップで飲むのも好きだけれど、わたしはマグカップにたっぷり淹れて飲むほうが好きだった。本を読みたいときや夜ふかしをしたいときなんかにちょうどいい。ひと口飲むたびに胸の奥があたたかくなって、ほっと胸を撫で下ろす。鼻を抜ける香りはとても甘い。
いくつか他愛のない話をしていると、ふいにサンジくんの手が肩に触れて、ゆっくり抱き寄せられた。
「なあに?」
「ん、いやァ……こういうのいいなと思って」
へへ、と照れくさそうに笑ってみせる。もう、なにかを無理している笑顔ではなかった。いつもの彼。わたしのよく知るやさしい人。
「ふふ、やっと気づいたの?一緒に準備するのも楽しいんだよ」
「おれは愛しのレディに尽くしたいんだ。でも、ありがとう、教えてくれて」
おれのレディは世界一かわいいね。
そう言って頭を撫でてくれる大きな手のひらが気持ちよくて、あたたまった身体はこのまま溶けてしまいそうになる。もしここがベッドの中だったら、あっという間に眠ってしまったかも。
「そうだ、知らないことを知った記念に、いいものあげる」
「いいもの?」
「サンジくんにだけ特別に、わたしのとっておき、教えてあげる」
今日のわたしは、彼にとことん分け与えたい気分だった。マグカップを置いて、キッチンを出て、ダイニングテーブルの下にもぐる。床板のつなぎ目を指先でなぞると、一枚だけ簡単に外せる箇所にたどり着く。椅子の脚の間でサンジくんが戸惑う気配がわかった。
「えっ、」
「しっ!大きな声出しちゃだめ」
腕を伸ばして探り、青くて丸いクッキーの缶を取り出す。ふたを開けると濃厚な甘い香りが漂ってくる。色とりどりの紙に包まれたチョコレートの数々。缶の中をのぞき込んだ彼が目を見開いた。
「すげェ」
「わたしのご褒美のおやつ。せっかくだから何個か食べよう」
「いいのかい?」
「もちろん。はい、今日一日がんばったサンジくんに」
丸だったり、四角だったり、いろんな形をしているチョコレートをいくつか選ぶ。
「ハートの形もあげるね」
「ハートをくれるなんて、ヴィーナスも裸足で逃げちまうくらいの愛を感じるよ」
「ヴィーナスがいなくなったら世界から愛が消えちゃう」
「おれが君の愛をひとり占めするから問題ねェさ」
「だめ、愛は平等になきゃ。わたしがサンジくんに愛をあげられない」
テーブルに缶を置き、紙を剥いてハートのチョコレート出す。はい、あーんしてと彼の口元に持っていけば、ふにゃっと表情を綻ばせながら食べる。
「ん、これ、ブランデーの香りが強いな」
「お酒が飲みたいけど飲めないときにいいの」
「君のハートは刺激的な味がするんだね」
「かわいい見た目なのに辛口なのっておもしろいでしょ」
「うん、うまい」
彼はとてもしあわせそうな顔をして大事そうに味わっている。その姿を見るだけで、心が満たされていく気がした。
「それにしてもこんなところに隠してたなんてな」
「前にウソップに言って作ってもらった。出しておくと食べられちゃうもん」
「賢いなァ」
「いまのところだれにも見つかってないから、内緒にしててね?サンジくんとわたしだけの秘密」
「もちろん……でも、いいのか?」
「なにが?」
「だって、こんな貴重なお宝をおれなんかに分け与えちまってさ」
「わたしの愛はいらない?」
「ほしい」
「そうでしょ?」
だからいいのと笑いかける。サンジくんは宝物も渡せちゃうくらい大事な人だから。そう言うと、彼はため息を吐きながらわたしの名前を呼んで抱きしめてきた。さっきよりもしっかりと、気持ちを直接伝えるようにぴったりと胸と胸をくっつけて。
こういうとき、わたしの身体がでこぼこしているのが嫌だった。もっと平らだったら、しっかりと抱き合えたのにと思う。
鼻をすする音がして、泣いているのかと思って広い背中を撫でた。どちらかといえばよろこんでほしいのだけど、彼はうれしいときにも涙を流すのを知っているから、静かに受け止めた。
「ありがとう」
「なにが?」
「君の愛をたくさんもらったから」
「いつもサンジくんがくれるから、お返し。返せてるかわからないけど」
「十分すぎて、なんだか申し訳ねェよ」
「まだこれから返す予定だから覚悟して」
そう言うと、彼が息を呑むのがわかった。触れ合っている胸の奥から、少し駆け足な鼓動の音が伝わってくる。
「……なァ」
「うん」
「かっこ悪いかもしれねェけど、」
「うん」
「まだ……いかないでくれるかな」
「いいよ」
一緒にいよう。
そうささやけば、こめかみにそっと唇が触れて、またぎゅっと抱きしめられる。
わたしにできることは少ない。特別な力でも持っていれば、彼が憂うことすべてをなかったことにできるけれど、思いつくのはこんな些細なことしかない。
それでも、彼が笑ってくれるならいいかと、思ってしまう。
それとおなじくらい、もっと、この胸の内に蓄えられている甘やかな気持ちを上手く伝えられるようになれたらと、思わずにはいられなかった。



ワードパレット使用作品
1.いかないで/隅/ひとり
Thanks 憂/@torinaxx



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