飢えた獣は喉を鳴らす





夏の島なのに、日が落ちるのが早い。
特に今日は雨が降っていたから、ますますそう感じた。
空は鉛色で、分厚い雲がどこまでも続いていて、つめたい雨粒が止むことをしらないように地面へと落ちる。
傘はさしていた。けれど二人でひとつを使っていた。強い雨足のせいで、わたしが泊まるためにとっていた部屋に戻るころには、全身がびしょ濡れになっていた。
服は肌に張りついて気持ち悪い。髪からは水が滴っていた。
「風邪ひくぞ」
「平気」
「待ってろ」
ローはバスルームへと消えていった。わたしはソファーに座って、ブーツを脱いだ。靴下も脱いで、足の指を自由にしてあげる。床には濡れた足跡ができた。
「じっとしてろ」
声が落ちてきて、目の前にタオルがあらわれ、頭を包まれる。彼の大きな手が、頭皮から毛先にかけて触れる指先の感触が、くすぐったい。されるがままになっているうちに、どんどん水気が吸い取られ、頭が軽くなるのがわかった。
自然と目を閉じていた。実は、ソファーに身をあずけてから緩やかな眠気に襲われていた。雨の中を歩いたことに加えて、昨夜あまり眠れなかったことを思い出してしまって、まぶたの重さが増し続けている。
ローの手もいけない。骨張っているけれど、あたたかくて、安心してしまって。こうしてずっとわたしに触れていればいいのになんて思ってしまう。
「眠いのか」
「んー……ちょっとね」
「もう少し我慢しろ、すぐ終わる」
うん、とは返事をしたけれど、頭がぼんやりとするのにかわりはなかった。身体がふわふわと浮いている気がして、手足の先から空気が漏れるみたいに力が抜けていく。
「まだ寝るな」
「うん」
「服、脱げるか」
「脱がして」
髪を包む指の動きがぴたりと止む。止めないでほしかった。頭の先にあった手のひらが、後頭部を持ち上げるみたいに動く。少しだけ顔を上げるような格好になる。タオル越しに首の後ろを支えられるのは、わたしにもいつかあった赤ん坊のころを想像させた。
「あまり勝手なことを言ってると、食われるぞ」
目を開ける。
金色の眼差しが、真っ直ぐに見下ろしている。
きれいな目。夜の闇に浮かぶ月の色。
眠気のせいで上手く動かない手を伸ばし、彼の頬に触れる。頬骨からあごに向かって指先でなぞると、わたしの手を彼が捕まえて、手のひらにそっと唇が触れた。
その仕草が、やけに目についた。このまま食べられてしまいそうだと、頭ではなく、本能的に思った。
じっと見つめていると、わずかに伏せられていたまぶたが持ち上がり、眼球だけが動いて視線がかち合った。
射抜くような強さに、心臓が大げさに揺り動く。琥珀にも勝るうつくしい瞳と向き合うのは何百と重ねているけれど、いまわたしが目にしている色を見るのは、はじめてだった。
「食べたいの?」
全身のうぶ毛が逆立ち、肌が粟立つ。彼は答えなかった。かわりに親指の付け根に唇が吸いついた。ちゅう、と音を立てて、何度も吸われる。
やがて、舌先が皮膚の上に触れた。手のひらの真ん中を縦に、切り開くみたいにして舐められて、小さく声を漏らしてため息を吐いた。
ローの口の端が上がる。意地の悪い笑みだった。残りの指の付け根にそれぞれキスが落ちて、指のはらや水かきの名残のある間、関節に舌が絡みつく。唾液に濡れて、湿った音が耳に届くたびに、思考がごちゃ混ぜになってくらくらする。
手首にも唇が触れる。垂れた唾液をすするみたいに舌が這って、前歯が浅く食い込む。心臓の裏側、胸の奥が、寒気立つ。背骨のあたりでぱちっと弾ける感覚があって、導火線を伝う火花みたいにして背中を駆け抜け、頭の後ろへとやってくる。
首の後ろが開く。ひんやりする。甘く噛まれることが嫌なんじゃない。もっと、刺激がほしい、ともうひとりのわたしが耳元でせがむ。
手首の内側、皮膚の薄い部分、尖らせた舌がその下にある血管に沿って動く。
熱い息が、そのまま動脈にまでたどり着いてしまいそうだった。
「食べないで」
大きく息を吸い込んで、乱れかけていた呼吸と鼓動をなんとか落ち着かせ、締まりの失せた口角に力を入れて言う。
ローは最後に音を立てて唇を離した。視線は変わらずわたしを真っ直ぐにとらえている。自分の手首を一瞥すると、蝸牛の這った跡に似たきらめきが残っていた。
「ちょっとやりすぎ」
「でも好きだろ、お前」
「嫌な言い方」
「事実だ」
おれは知ってる。
誇らしげに言う彼に小さく笑って、掴まれていた腕を引き抜いた。中途半端に首にかかったタオルは手の中に、脱ぎ捨てたままにしていた靴下を拾って、立ち上がる。どこかの誰かさんのおかげで、眠気は尻尾を巻いて逃げていた。
「シャワー浴びてくる」
「じゃあ、服脱げよ」
「脱ぐよ、自分で」
「脱がせてほしいんだろ」
遠慮するなといかつい墨の入った腕が腰に巻きつく。濡れた服の裾を引っ張られた。身体に張りついて、体温で生ぬるくなった生地をかき分けて、簡単に滑り込んでくる。
「いい、大丈夫」
「お前が頼んだんだろ、やってやるよ、ほら」
最近気になっているわき腹のあまった肉を容赦なく摘まれ、揉むように動かされると、くすぐったいのとそれ以外の感覚が込み上げてきて、つい笑ってしまう。
だめだってば。
身をよじって逃げようとするけれど、ローはたのしげに目の奥を輝かせて、離そうとしない。
「やだ、もう」
「おれがやってやるって言ってる」
「おなか触ってくる人にはやらせない」
「やわらかいから触りたくなる」
「そうよ、おなかはやわらかいの。だから大事にしなきゃ」
急所をさらしちゃいけないの。
四つ足の獣だけじゃない。二本の足で立って歩くわたしたち、人間だってそう。特に女に生まれた者にとっては、無意識に植えつけられていること。
いつでも牙を剥ける相手に、喉元を差し出してはいけない。
「それなら簡単に明け渡そうとするんじゃねェよ」
手のひらが胸の下に添えられる。そのまま軽く押されると息苦しくなって、か細い悲鳴を口からこぼしてしまう。
「奪うのはいつだってできるんだ、それを忘れるな」
首筋に、彼の髪が触れる。濡羽色の無造作な髪は、わたしよりもしっとりとしていて、束になっているところがあった。
鼻先がかすめ、唇が押しつけられる。
重なろうとする広い胸を押すと、濡れた服の奥で、低くこもった鼓動が獣のうなり声に似た音を奏でていた。



ワードパレット使用作品
6.止めないで/本能/日が落ちる
Thanks 憂/@torinaxx


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