仲直りする話
「よォ」
暗く、狭く、配管だらけのつめたい通路に立ち塞がる影。
目深にかぶった帽子のてっぺんには、かわいらしいペンギンが乗っている。
でも、わたしを見下ろす彼自身は、残念ながらかわいらしさのかけらも見当たらない。
立派な、ひとりの男だった。
「……こんばんは」
「おねーさん、かわいいね。ひとり?おれと一緒に飲まない?」
「なあに、その言いかた」
「かわいい子見たら誘わねェと、な?」
へらりと人のいい笑顔を見せてくるから、思わずわたしも頬が緩んでしまう。手慣れているところがちょっと気に入らないけれど。
「ごめんなさい、今日は先約があるの」
軽い口調で答える。
彼に合わせるのは悪い気がしない。普段から冗談まじりのやりとりをすることがあるけれど、そのたびに気持ちだけは幼いころに戻ったようで心地よくて、たのしい。
「いいなァ、相手は?」
「教えない」
「いい奴?」
「そうね、いい人よ。頭が切れて、ぶっきらぼうだけどやさしい人」
「そんなのここにいたっけ?」
「あら、いるわよ」
知りたがりの子どもみたいにたずねてくるのがおかしくて、こらえきれないあたたかなため息をつく。やっぱり彼はおもしろい。わたしの心を弾ませるくらい、簡単にやってのける。
「──キャプテン?」
それなのに、返ってきた言葉は予想を裏切った。
周りの温度が急に下がったみたいだった。深海を航行するときのよう。耳を打った低い声にぴんと糸が張ったような感覚があり、それが威圧感だと理解するのに時間がかかった。視線を迷わせながらもゆっくりと見上げる。翳る目元の奥に、獲物を狙う獰猛な獣に似た鋭さが宿っていた。
「……うん」
「へェ」
ペンギンは片眉を上げ、探りを入れるような視線を送ってきた。逃れるようにして目を伏せる。やましいことなんてなにもないのに、目を合わせることができなかった。
「相変わらず仲いいな」
うらやましい、と言う声が目の前で響く。顔を上げると、彼の顔がより近くにあった。違和感は距離を詰められたせいなのだと、遅れて気づく。通路に響き渡る聞き慣れたモーターの音が、やけに耳にこびりつく。
「あんまり見せつけられると、ひどいことしたくなるなァ」
それはわたしに向かって言うというよりは、独り言に近い言葉だった。腕が伸びてきて、あごを掴まれる。彼の手は大きい。成人した男の手は、女のわたしからしてみればみんな大きいけれど、彼も例外なくしっかりしている。骨張っていて、指は細く、長い。爪は深爪するくらい短く、乾燥しているのか表面がわずかに白っぽい。手の甲は血管が浮いていて、細かい傷跡がいくつかある。手のひらには、得物を持つせいでできたタコが、薬指と小指の付け根にある。
「考え事とか余裕じゃん」
そう、にんまりと笑う。上を向かされているからよく見える。
「このまま口くっつけてもいい?」
親指が、下唇のふちをそっと撫でていく。
口を開けた瞬間、息を吸った瞬間、自由を奪われてしまいそうだと思った。
ペンギンの顔が近づいてくる。鼻先をかすめ、吐く息がかかるほどの距離になって、ようやく挑発的な態度の意味を知る。
「酔ってるのね」
口をついた言葉に色はなく。無機質な通路に似合いの、冷めた声になった。
「えー、あー……うん」
彼は我に返ったのか、歯切れの悪い返事とともに離れていく。
毅然とした態度のままでいると、困ったように眉を下げて愛想笑いを見せてきた。
「あきれた」
そうは言いつつも、けっしてあきれたわけではなく。
そうでも言わないと、揺れる鼓動が落ち着かないから。
「悪ふざけをする人は嫌いよ」
わたしは頭が固く、浮ついたことを許せない。たとえ目の前の、心を許せる彼であったとしても。
ペンギンは目を丸くしたあとすかさず、ごめんと謝罪を口にする。
「わりィ、ちょっと飲みすぎたな」
「……そうね、気をつけて」
「ほんと、わりィ」
「いいの。でも、もうしちゃだめよ」
「うん」
素直な返事をする彼はあどけない。思いのほか開いてしまった互いの距離を取り戻しているようで、少しだけ気まずい。
「じゃあ……もういくね。おやすみ」
「おう」
ひらひらと手を振る彼に見送られて歩き出す。すれ違いざまに横目で見た彼の背中は、小さかった。
もし、あのまま、なにもしないでいたら、キスをしていたかもしれない。
アルコールの回った熱い唇が、わたしと触れ合う想像をして、一体なにをと思いなおって頭をふる。
きっと受け入れていた。なんて、ふざけたことを、思うなんて。
◆
街は華やいでいるようで、混沌としている。
大通りは明るく、人があふれ、活気に満ちていて、さまざまな店が立ち並んでいる。
けれど目を凝らしてみると、不安をかき立てる空気が細い路地から漂う。
暗く、狭く、先の見えない迷路の入り口。一度近づいてしまえば、大きく口を開けてこちらを吸い込んでしまいそう。足を踏み入れたが最後、進む道はうねる曲がり角ばかりなのか、行き止まりなのか、人を食らう獣が待ち構えているのか、なにもわからない。
ここを訪れるたびにいつもそんな想像が頭の中をめぐる。以前は一緒だったローが、今回わたしを送り出す際に何度も気をつけろと念を押した理由がわかる。立っているだけで、精神がむしばまれそうなほど居心地が悪い。
かつては世界中の医者から重宝されるほど、製薬に力を入れていた国だった。この国で作られた薬なら安心だと、世間に疎いわたしでさえ聞いたことがあるほど有名だった。けれど、いつしか良い薬は毒へと姿を変えた。違法薬物の生産と売買の国に成り果てた。しかも政府が金になるからとあえて取り締まらずそのまま見逃しているのだという。真相はわからないが、今でも大勢の人間──後ろ暗さがにじみ出た、いかにもな連中が出入りしているところを見ると、当たらずといえども遠からずといった具合だろう。
ローはいくつかの薬品を必ずこの国で入手する。どれだけ変わり果てても、信用できる店がまだいくつかはあるそうで、ここでしか買えないものもあると言っていた。
──今日は一緒には行けない。だれか一人を連れて、頼んでおいたものを受け取ってこい。
彼はたしかにそう言った。けれどわたしはひとりきりで雑踏の中を行く。
クルーと仲が悪いとか、嫌われているとか、嫌いだとか、そういうわけではなくて。
この不安定な街並みを立ち止まらずに、一心不乱に進み続けるといった行動が、案外心地がいいと思っているからだ。
普段は海の中にいる。しかも小さな箱庭で、他人と寝食をともにしている。それだって嫌ではない。わたしの、ローの、みんなの、かけがえのない居場所。愛すべき場所。でも、ひとりになりたいときもある。ローだって、ある日ふと姿を消して、何食わぬ顔をして帰ってくる。わたしだってそう。海の中も好きだけれど、せっかく足があるのだから歩きたい。脇目もふらず、ひたすらに。
気づけば騒がしさも遠ざかり、自分の足音だけが聞こえるようになっていく。歩調は早い。気を緩めてはいけない。いつ、どこで、だれが狙っているのかわからない。ネズミしか通れないような隙間からだって、命を狙われる可能性がある。
焦燥感と使命感がせめぎ合い、わたしを追い立てる。まるで機械にでもなったみたい。けれど、それがとてもたのしい。
薄暗い道を進んでいくうちに、視界が開ける。一軒のさびれた店がある。吹けば飛んでいきそうなゆがんだ屋根が乗り、壁の塗装は剥がれてただれた皮膚炎みたいになっていて、こけやさびやつたなんかがそこかしこに入り混じってまとわりついている。
見た目はとんでもないが、ここが行きつけの場所だった。ドアにはかたむいた小さな看板が付いていて、かすれた文字で薬売りとある。
恐る恐るドアを開ける。立て付けが悪く蝶番が金切り声に似た鈍い音を立てるし、ドアノブがいまにも外れそうだから。中に入れば、外見からは想像できないほど整頓された空間が広がる。清潔感のある白い照明は目にやさしく、種類別に薬品が陳列された棚がそびえ立ち、その奥にカウンターがあり店主の男性がいる。
声をかけると、店主はわかりきった様子でいくつかの紙の包みを取り出した。わたしはあらかじめ用意しておいたお金をカウンターに置き、紙に印字された薬品名と中身を確認しながら受け取る。次はこれをとポケットから出した折り目のついた注文票を差し出すと、店主は一瞥したあとアルバトロス便で送ると言った。
ありがとうございます。まいどあり。
短いやり取りをして店を出ると、急に目の前が暗くなり、なにかにぶつかった。
「わっ、」
「おーい、ちゃんと前見とけ」
聞き覚えのある声に顔を上げる。見慣れた白いつなぎではなく、不安定な街並みでも浮かない黒いシャツにパンツを身につけていたけれど、かわいらしいペンギンが乗っている帽子をかぶっていて。目元にかかるつばのそのさきに──きらきらとあやしく光る瞳が、わたしを見下ろしていた。
「ペンギン」
「お前はほんと、危なっかしいな」
彼はそう言って、ため息混じりに笑んだ。ぶつかったときに掴んだままのわたしの腕をやさしく握りしめ、不注意をいさめるように親指がするりと撫でつける。
「ごめんね」
「おう、気をつけろよ」
「でも、どうしてここに?」
「別に、来ただけ」
「わざわざ?」
「本当は一緒に行きたかったんだけどな、お前が先に行くから」
「そう、なの」
「しかも歩くの早ェし、追いつくの苦労した」
「……つけてたの?」
「人聞きがわりィな、追いかけてたんだよ。お前わざと回り道しやがるから、大変だったんだぜ?」
「ごめん……」
「まァ、お前を追いかけるのは慣れてるからな、たのしかったぜ」
腕を掴んでいた手がするすると下りていき、わたしの手を包む。このまま歩き出そうとしたときだった。後ろから金切り声に似た音がして、ふり返ると店のドアから店主が顔を出していた。聞けば、以前手に入らなかった商品が明日入荷するという。
──もしまだ必要だってなら取っておく、あんたの旦那に聞いておいてくれ。
店主の言うことにお礼を述べて、今度こそ店を後にする。船に戻ったら、ローにきかないと。
「旦那って、なに」
感情の抜け落ちた、平坦な声。
けれどたしかに、いらだっているような声。
昨日の夜と同じ。隣に立つペンギンから、息苦しい威圧感が流れてくる。
「……この前この店に来たとき、キャプテンと一緒だったから」
「旦那だって紹介したのか?」
「まさか、あの人がそう思ってるだけ」
「違ェなら、なんで違ェって言わねェんだ」
「べつに、どうでもいいことよ」
「どうでもよくねェ!」
突然声を張られ、身構える。あごを引いて彼を見ると、うまく聞き取れない言葉をいくつか口の中で転がしていた。
「ペンギン?」
「お、おれは、嫌だ!お前が、勘違いでも、キャプテンのもんだって思われんの、」
繋いだ手に力がこもる。指先を締めつけられて、とても窮屈で、反射的に引こうと肩が揺れた。
「すげェ、ムカつく」
それはあの店主の言っていたことに対してなのか、もがくわたしの態度に対してなのか、わからない。
彼は手を離し、次いで肩を掴み、訴えてくる。帽子のつばで隠れがちの目に、怒りと、かなしみが織り混ざった炎の影が見えた。
「なァ、お前は知らねェだろうけど、おれァずっと我慢してんだ。キャプテンと仲がいいのも、一緒にどっか行ったりすんのも、お前の勝手だし自由にすりゃいい、でも」
息苦しい。肩に彼の指先が食い込む。わたしは呼吸も忘れて見つめることしかできない。
「許せねェ。なんでおれじゃねェんだって、おれのほうがずっと近くにいんのに。知らねェだろ、おれはお前が船に乗ったときからずっと見てんだぜ。好きだから……両手じゃ数えきれないくれェ守ってんのに、ふり向きもしねェでキャプテンのところに行くのが、」
深く息を吸って、そのまま。
「許せねェ」
吐き出した嘆きは、震えていた。
痛々しいまでに純粋な本心であるとわかり、胸の奥が灼けつく。
肩の痛みなんてどうでもいい。苦しんでいるのは、わたしじゃない。
「ペンギン」
「お前を嫌いになりてェ」
「ねぇ、」
「うるせェ、ほっとけよ!」
繋ごうとしたはずの手が勢いよくふりほどかれる。
弾かれた衝撃に、喉の下が締めつけられて、胸の奥がひんやりと凝り固まった。
「おれはお前といても、いないのと同じだ」
耳に届いた叫びに、わたしはなす術もなく。
彼の背が小さくなっていくのを、ただ立ち尽くして見ることしかできなかった。
◆
船に戻ってからも、一晩たったいまも、ペンギンの機嫌は直らなかった。
ところ構わず当たり散らすことはないけれど、いつも通りにふるまっているのに浮かべる笑顔、態度の下にはたしかにくすぶっているものがあって。わたしも、ほかのクルーたちもそれを感じ取っていた。
「おい、なにがあった」
ローもペンギンの態度を察知して、すぐにわたしの元へきて問いただした。まだ、だれもわたしのせいだと言っていないのに、なぜわかっているのか不思議だった。
「なんでわたしにきくの?」
「お前しかいない。四六時中べったりしてんだからわかるだろ」
「え……そんなことないけど」
「あるだろ、なんでわかんねェんだ」
ローは顔をしかめ、首を横にふる。めんどうなことを増やしやがってとでも言いたげで、執りなすのも楽ではないのだからと態度を示す。
「……わたしが怒らせちゃったの」
「いい年してガキみてェに喧嘩か」
「そうじゃ……いえ、そうね……ごめんなさい」
「原因は?」
そうきかれると、答えるのに戸惑ってしまう。言ったところであきれられるのが目に見えてわかっていた。
「うまく言えないんだけど、とにかくわたしが悪いのよ」
「……とっととあれをどうにかしてこい。これから何十時間も潜らなきゃならねェんだ」
クルーに余計なストレスを与えるんじゃねェ。
はっきりと叱る声に、うつむくことしかできなかった。
おれはお前といてもいないのと同じ。
その言葉がずっと心の奥底に引っかかっていた。
氷でできた杭が、胸に刺さっている。つめたい人間にはふさわしいだろうとでも言われているみたいだった。
そうなのかもしれない。わたしは彼が好きだけれど、好きな人を大切にできないのなら、罰を受けるのは当然だ。
そう、好きなんだ。彼とおなじくらい、わたしだって。
「ペンギン」
小さな照明がつく狭い通路を進み、たどり着いた倉庫の奥にいる背中に声をかける。昨日見たときと同じように小さかった。
忙しなく動く彼は、あちこちに物を移したり、運んだりしている。わたしが来たことには気づいているはずなのに、ふり返らない。
「ありがとう」
出した声は、大きな荷物が床を擦る音でかき消された。拒絶されているようだった。倉庫の中はそれほど広くない。わたしも、彼も、十数歩も足を動かす必要もないほど。けれど、わたしたちの距離はうんと離れていた。どんなに近づいても離れていってしまう影ぼうしみたいで、いつか消えていってしまいそうで、気が遠くなった。
足元に視線を落とす。みっともなく指を組み、握りしめる自分の手があった。
「あなたがいるのが当たり前だと思ってたけど、そうじゃなくて、一緒にいてくれてたのよね。昨日だってわざわざ……気づくのが遅くなって、ごめんね」
そう言うと、彼が手を止める。大きく息を吸い、見せつけるように吐いて、ふり返る。
「鈍感」
「うん」
「すぐ、周りが見えなくなるところが、嫌いだ」
「うん」
「……まァ、嫌いになりきれねェんだけど」
「好きでいてくれるの?」
「このタイミングでそんなこと聞くかよ」
肩をすくめ、それから見せてくれたほほえみに、彼の気持ちが離れていったときからずっとあったせつなさが、氷の杭が溶けて、あたたかな水が染み込んでいくのがわかった。
「よかった、嫌われるのを覚悟してたの」
彼の隣にそっと並ぶ。やはりそれほど遠くなかった。手を伸ばして、手首を掴んでも、ふりはらわれたりしなかった。
「わたしもね、ペンギンのこと好きだから」
大きな手のひらをしっかりと繋ぎとめ、
「だからまだ、一緒にいて」
と心の底からの気持ちを伝えれば、彼はぽかんと口を開けたままこちらを見つめ、視線を落としたあとにもう一度目を合わせてくれた。
空いているもう片方の手で顔を覆って、「なーんでそうやってかわいいことするかな……」とつぶやく。
「嫌ならやめる」
「いい、止めないで、もっとして、すげェうれしいから」
「素直なところ、好き」
「うわ、うれし」
頬が持ち上がり、白い歯を見せて笑ってくれる。それがどんなに素晴らしいことなのか、身を持って知った。
かわいげのないわたしは、ずっと彼のやさしさを避けていた。受けたら受けただけ。返すことはしないで、そっぽを向いたまま。
ずっと、うれしくて、愛を感じていたのに。
彼の素直さがうらやましいと思う。わたしにもきちんと備わっていたら、傷つけることもなかった。嫌われることに怯えることもなく、もっと仲良くなれた。
いい年してと言われたけれど、本当にその通り。自分の至らなさ、不完全さにため息が出る。
肩を落としていると、しっかりした腕が伸びてきて、彼の身体にぴったりと寄り添うように閉じ込められた。
耳をつけた胸からは、静かな鼓動が聞こえる。喉の奥で笑う声もして、背中をさすってくれる手のひらはあたたかくて。
頭の先からつま先まで、すべてを丸ごと愛してくれているようで、涙が出そうになった。
ワードパレット使用作品
27.回り道/愛想笑い/翳る
Thanks 憂/@torinaxx