いつもよりさみしい夜
思い立ってすぐ、深夜の食堂に忍び込んだ。ひっそりと静まりかえった厨房は、夜の闇よりもなお暗く、月明かりだけが窓のむこうから淡い光を投げかけていた。
自慢ではないけれど、物をとってくるのは得意だった。手癖が悪いとも言うみたいだけどそんなにひどいことをしているつもりはない。ちょっと借りるだけ。それもちょっと長めに。返すつもりではいる。借りる相手がだれだかわからなかったりするだけ。
棚の中にビスケットが入っているのは知っている。いつもお菓子をもらうから。わたしはこの大きな船の人たちに子どもだと思われているのかよく、あめやら焼き菓子やらをポケットに入れられる。だからビスケット一枚ぐらい、もらってもばれないと思うし、なによりお腹が空いている。大人はお腹を空かした子どもにはやさしいから、きっと大丈夫。
棚の中には予想通りビスケットがあって、近くにはかごに入ったさくらんぼまであった。これも一緒にもらっていく。わたしはくだものも好き。
取りすぎない程度に、心のおもむくままポケットに忍ばせる。通りすがりにミルクの瓶も手に取って、足音を立てないように食堂をあとにした。
ひんやりとした空気の流れる通路に出たとき、ちょうど外が見えて、細い月が浮かんでいた。
吹き込んでくる風は乾いていて、落ち葉の匂いが混ざっていた。もう少し様子をうかがうと、空には夏と秋の星が混じり合って座っていた。きっとどこかに秋の島がある。
秋は好き、お菓子がおいしい季節だから。
ふたりで寝るには狭いベッドの上。もらってきたものをハンカチの上に広げて食べながら、窮屈そうに背中を丸めて、わたしの膝に頭を乗せるエースに向けて言った。彼はなんの返事もしない。少し前から口をつぐんだままだった。わたしが食堂に行ったときに一度起き上がったきりずっと、抱きついたまま離れない。
「ねえ」
呼びかけてもやっぱり返事はなくて、小さくため息をついた。ビスケットをかじるときつね色のかけらがぽろぽろと彼の髪の上に落ちて、はらってあげると、腰に回る腕が息苦しいほどに締め上げてきた。
「もう寝ちゃった?」
返事の代わりに首が横にふられる。ゆるいくせにある髪がさらさらと足の上でおどった。
「どうしたの?元気ないね」
「…………」
「さくらんぼ食べる?甘くておいしいよ」
「…………」
「おいしかったって明日言いに行こ。そうしたらこれでパイとか焼いてもらえるかも」
部屋の中に、わたしの話し声とお菓子を食べる音だけがする。なんだか味気なくて、むなしくなった。まるでひとりきりでいるみたい。むしろ、ひとりでいるよりも心細くて、手や足の先から目立って冷えていくようだった。
エースはとても饒舌というわけではない。かといってとても聞き上手というわけでもない。それでもわたしたちはよく話をするほうだと思う。どんなにくだらないことでも、ほんの少しでも彼と言葉を交わし合うことがわたしは好きだった。こうして身を寄せて触れ合うことよりも、身につけているものをすべてとりはらって抱きしめ合うことよりも、より深くまで分かり合える気がするから。
背中を丸めて、すぐそばにある肩におでこをくっつけるようにして彼をのぞき込む。胸の形がゆがんで、呼吸がしにくい。おかげでますますむなしくなる。
「エースがしゃべってくれないとつまんない」
窮屈な体勢をしているから、くぐもった声が出る。やっぱりエースはなにも言わない。
「ねえってば」
「じゃあ、どっかいけよ」
ようやく口を開いたかと思えば、つめたい捨て台詞をひとつ投げつけられて、おどろいた。
やだ、とすかさず言って、目の前にある肩をぎゅっと掴む。
「わたしはわたしがいたいところにいる」
足に触れる髪がまたおどった。身じろいだ彼と目が合う。まぶたは半分閉じかかって眠たげで、そのまま夢の世界に飛んでいってしまいそうだったけれど、重たげなまぶたの奥の瞳はどこか不安の色がにじんでいた。
そっと頬をつままれた。そのまま引っぱられたけれど、痛くない。
「変な奴」
ぽつりとつぶやかれた声は、シーツの衣擦れの音にかき消されてしまいそうなほど小さかった。
自然と身体が動く。彼にならって、彼とおなじように、わたしもベッドに横になる。シーツがぐちゃぐちゃになるのも気にしないほど素早い動きだったのは、それだけ早く彼の気持ちに応えたかったのかもしれない。そう思うと、この身体にはちゃんと彼への気持ちがあるのだとわかって、もやもやと胸の中にかかるこの霧も悪くないのではとさえ感じた。
「顔、見えないの嫌」
「見たっていいことねェぞ」
「安心する」
「……お前はほんと、さみしがりやだな」
「そう、さみしがりやなの。だから、見てくれないとかなしくなっちゃう」
そう言うと、エースはひとつ、大きく息を吐く。
「それは、おれがどんな人間かってのをわかって言ってんのか」
深く、沈みこむような声。
けれど、眼差しはまっすぐにわたしをとらえていた。
まだ本当のことを言っていない。
少し前、夏の島の近くを通っていて蒸し暑かった夜。エースから、彼の出自のことを教えてもらった。
この混乱した時代のきっかけを生み出した人の血を、鬼の血を引いている。
彼はいつになく真剣に、静かに語ってくれた。
彼の口からつむがれるすべての言葉が、わたしの中に染み込んで、隅々まで行き渡って、降り積もっていった。
わたしはなにも言えなかった。どんな言葉を返せばいいのかわからなくて、短い相槌を打ったあとはしばらく沈黙が流れたほどだった。
同情するのはなんだか違うし、あわれむこともない。拒絶することはもっとない。
どんな過去があったって、わたしは彼が好きだと言い切ることができる。けれど、ずっと秘密を抱えながらわたしと接してくれていたのかと思うと、ひどく胸が痛んだのだった。
「エース」
「……うん」
「わたしが言ったこと忘れた?」
エースは眉をひそめて首をかしげる。その顔に手を伸ばして、さっき彼がしたように頬をつまんだ。
「それでも好きって、言ったでしょ」
わたしに特別な力はない。なにか立派なことを言えるほど生きてもいないし、知識もない。
だから、好きな人に気持ちを伝えることなんて、たかが知れている。
「だれの血を引いてるとか、犯罪者とか、関係ない」
つまんだ頬に今度は手のひらを当てて、目の下を親指のはらでそっと撫でる。
「わたしがどんな人を好きになるかは、わたしが決める」
いつも彼がわたしにしてくれるみたいに、体温に乗せてひそかに込めた感情を分ける。間近にある黒い瞳の中にはわたしが映っていた。パッとしない表情をしている。慣れないことをしている証拠だけれど、恥ずかしさを感じることはなかった。
言いたいことがたくさんある。エースはわたしが隣にいることを許してくれている。本当にどこかに行ってほしいと思っていたら、もっとはっきりと態度に、言葉にあらわすから。だから伝えなければいけない。子どもの心を持ったわたしには、不完全で未熟なものしか持ち合わせていないけれど、胸の奥に潜むあたたかさを、愛情という宝を、彼に移したかった。
「エースが好き」
言葉ひとつで、恐怖や不安をとり除ければいいのに。
わたしが能力者だったらできたかも。そんな妄想じみた考えが何度も脳裏をよぎる。
「馬鹿だな、お前」
エースの声は相変わらず低く、けれどさっきの消え入りそうな小ささはなくなっていた。静まり返った部屋に、夜の空気に、馴染んで、海の泡のように溶けていく。それから薄く笑って見せて、わたしの背中に腕を回してきた。ただでさえベッドが狭いから、すでにぴったりと寄り添って横になっていたのに、わずかなすき間も許さないといった具合に抱きしめられる。
「馬鹿だろ、ほんとに」
そしてエースはわたしにもう一度、馬鹿だと言った。
それは今まできいてきたどんな憎まれ口よりも、はるかにやわらかいものだった。
ワードパレット使用作品
22.代わり/本当のこと/細い月
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