2023/03/02
季節外れの雪が降ってきた。
ここは春の島。大通りに広がる大きなマーケットは、春のはじまりを祝う祭りの目玉。
咲きほこる花の香り、あざやかな色の刺しゅうがほどこされた垂れ幕や花飾り、電飾なんかもすべて春の色に染まっているというのに、空模様だけが冬だった。
昼間は薄い雲がかかっていたけれど晴れていた。空気はつめたかったけれど風もなく、コートとマフラーを身につけていれば気にならなかった。それなのに、夕方から天気が崩れ出した。雪が降る。うつくしくも頼もしいわたしたちの航海士が言った通り、日が沈む前にあたりは真っ暗になって白い雪片がちらつきだし、あっという間に指先がかじかんで感覚も失いかけるほどの気温になった。
それでも通りは多くの人でにぎわっていた。肌を切りつけるような凍てつく風が吹き抜けるとどよめきが聞こえ広がるのに、いつの間にか笑い声に変わっている。ここはとても明るいところらしい。
雰囲気は素晴らしいのだけれど、にぎやかさに疲れたわたしはホットワインを片手に、広場の中心に鎮座する噴水の縁に座っていた。
湯気の立つ真紅にはいくつものスパイスが溶け込んでいる。そのどれもが身体の中に入ると火の粉みたいにぱちぱちとはじけ、束の間のあたたかさを連れてきてくれる。両手で包むと隠れてしまう大きさのマグカップにも、春の訪れを祝う花々が描かれていた。白やピンクや黄色やオレンジ。心踊るデザインも相まってきっと飛ぶように売れているのだろう。数十ベリー多く支払えばカップごと購入できる。かわいらしい春を買える。ぼんやりと眺める先には、長蛇の列のできた店があった。わたしもついさっきまであそこに立っていたのだと思うと不思議な感覚に陥る。
「失礼、雪化粧の街並みがお似合いのレディ」
透き通った空気を切り裂くたばこの匂い。それから鼓膜を叩くすっかり耳に馴染んだ声。
振り向くと、やわらかな気配がそこにあった。
「サンジくん」
「寒ィだろ、こんなにつめたくなって」
そう言って流れるようにわたしの隣に座り、片手をとって、指先をやさしく握ってくれた。黒いコートと青いマフラーを身につけている彼も、鼻の頭が赤くなっていて寒そうだった。
「サンジくんも寒いんじゃない?」
「おれは平気」
「わたしも身体の中はあったかい」
「ね、どこか建物の中に行こう。風邪をひいたら大変だ」
「人混みで疲れちゃって、動きたくない」
「そっかぁ。でもな、ナマエちゃん、おれ心配だよ。本当に具合が悪くなっちまうんじゃ」
「足が棒みたい、ううん、氷みたいになってるの」
「それならますますあったまらねェと!」
「ふふ、嘘。気にしないで」
繋いだ手を離して、またマグカップを包み込む。真紅はまだ冷めていなくて、口に含むと熱と刺激的な香りが粘膜をくすぐった。
「なんだかナマエちゃんと距離を感じる」
続けて飲もうとすると、サンジくんがそんなことをつぶやくからおどろいてしまった。
「距離?」
「うんと遠くにいるみたいだ」
こんなに近くにいるのに、いきなりなにを言うのだろう。わたしたちの間には少しでも動けば肩が触れるくらいの間隔しかないのに。
さっきまで手を繋いでいたのに。
サンジくんは深く息を吸って、吐いた。視線をさまよわせ、うつむいて、あご先をマフラーの中へと隠してしまった。
「サンジくん?」
「おれを誘ってくれりゃァよかったのに」
「それは……昨日のお誕生日の宴で疲れてるだろうと思って」
「そんなことねェよ、去年のほうが騒がしくて大変だった」
「今朝もしっかりご飯作ってくれたし」
「いつも通りさ、特別なことじゃない」
「ひとりの時間が必要だと思って」
「おれはナマエちゃんとの時間がほしかった」
「もしかして、怒ってる?」
「まさか、怒らねェよ」
少し顔を上げて、目を合わせてくれた。眉を下げて、困った顔をしている。マグカップを持つ手に力が入った。なにか、とんでもない間違いを犯してしまったかもしれない。わずかな沈黙がおそろしいとさえ感じる。
「ただ、昨日も、おれのところに来てくれなかったし、さ」
たどたどしいながらも伝えられた言葉に、胸がひどく傷んだ。
たしかに、昨日、わたしは進んで彼の元に行かなかった。宴だと騒ぐ我らが船長を含む仲間たちのために、いつも以上に張り切って働いていたから、邪魔にならないようにしていたというのもあるけれど。年に一度の特別な日を祝われている彼を見ていたかったから、離れていた。
だって、とてもしあわせそうに笑っていたから。
わたしはサンジくんが好き。あらゆる意味で彼が好きだから、好きな人のやわらかくて、あたたかくて、きらきらした、うつくしい表情を、目に焼きつけて頭の中にとどめておきたかった。
芳しい春の匂いに包まれた、好きな人の尊い姿は、これから生きていく中でなによりの宝になるはずだから。
「寒くても一緒がよかった?」
手元に目線を落として訊いてみる。小さな赤い水鏡に、わたしの情けない顔が映っていた。
「寒いからこそ一緒がよかった」
つむがれた声は、それまでよりも一番力強かった。紛れもない本心だと理解した。彼がわたしのところに来たのも、偶然なんかじゃなくて、きっとわざわざ探しに来たんだ。ただ季節外れの寒さがあるだけだったら気にしなくても──彼はやさしい人だからどんな状況でも気にかけているだろうけど──雪が降り出してきたから、早く見つけなければと焦りだって感じていたかもしれない。
わたしは残っていた真紅を一気に飲み干して、カップを置いて、隣にいる彼に思いきり抱きついた。
「……ナマエちゃん?」
「ホットワインがなくなっちゃった」
身体をあたためるものがなにもない。今はみぞおちのあたりにある熱も、きっとすぐに冷めてしまう。
「サンジくんしか、あったかいものがないの」
あごを乗せた彼の肩に、粉砂糖みたいな雪のかけらが降り落ちてきては消え、消えてはまた降り落ちてくる。厚着をしているせいできちんと抱きしめられないことがもどかしい。ただでさえ自分のでこぼこした身体が嫌だというのに。ぴったりとくっつき合えたら、きっと不安もかなしみもすぐに吹き飛んでいくのに。
「ごめんね」
「うん?」
「サンジくんのこと、傷つけた」
「傷ついてねェさ。勝手にさみしくなっただけで」
「ごめんなさい」
「ナマエちゃんがひとりで凍えてなくてよかった」
わたしの頭に、彼は自分のをあずけてきた。その温度に、思わず飛び退いて頬を両手ではさむ。
「やだ、つめたい」
「はは、ナマエちゃんはあったかいな」
「わけてあげる」
一度だけ、触れるだけのキスをした。重なる唇の温度もまったく違った。わたしのほうがあたたかい。彼のほうがその胸に、その身体に、あたたかな気持ちを山ほど蓄えているというのに。
肩に腕を回して抱きつくと、サンジくんはしっかり受け止めてくれた。彼のマフラーが鼻をかすめてくすぐったい。いくつか濡れている場所があって、頬に染みた。
「寒くない?」
「あぁ、ちっとも」
「よかった」
でも、魔法が切れる前に帰ろうか。サンジくんはそう言ってわたしの背中を撫で、離れるようにうながした。
魔法って?訊けば大きな手のひらを差し出される。握ると包み込むように握り返された。
まるでつめたさから守っているみたい。
「ナマエちゃんがかけてくれたのさ」
火の粉がまた、ぱちっとはじけた。
手を引かれ、空のマグカップを片手に立ち上がる。
色ばかりがあざやかなそれは、もうすっかりつめたくなっていた。