火酒
そういえば、めっきり力が入らない。
腕を動かすのも、足を折りたたむのも億劫で、両手足を放り投げぼんやりとどこでもない場所を見つめる。横着をしてグラスを持たず、ボトルにそのまま口をつけていたからなのかもしれない。それほど大きさのない小ぶりのものだったから、飲みきれると思った。でも、まだ中身が半分残っている。握りしめているせいで丈夫なガラスは生ぬるくなっていた。身体の中が、燃えるような温度になっているせいで。
「盛られたわ」
「なにを」
「なにか、よくないもの」
「へばってるだけだろうが」
ゾロはふっと小さく息を吐く。それが機嫌のいいときの笑い方だとわかっていた。視線を送ると、傷跡の走る閉じられた目元に惹きつけられる。意外にも長いまつ毛。通った鼻筋と形のいいあご。耳元には三つ連なったピアスが、夜の星々に負けないくらい静かに揺れていた。
「ゾロはいつも通り」
「当たり前だ。それにこんな量じゃ余計に喉が渇いちまう」
「じゃあ、これあげる」
中身の残ったボトルを渡すと、彼はありがとうとひと言告げて、ほとんど一気に飲み干してしまった。嚥下する喉仏に夢中になっていると、飲み終えた彼は居心地の悪そうな顔をしていた。首まわりは見られたくないのかもしれない。
手が熱い。手のひらから手首にかけて、真っ赤になっている。わたしは飲むと、秋島の木々に負けないくらい肌が赤く色づく。以前はそれが嫌いで、あまり人前でお酒を口にすることがなかった。飲めないふりをして、適当に席を外すのが常。けれどあるとき、夜遅くにひとりで飲んでいたらゾロに見つかってしまった。わたしは彼の嗅覚をなめていた。無類の酒好きの前に、隠すなんて行動は意味をなさなかったのだった。
以来、こうしてふたりでお酒を飲む。不思議なことに誘い合うことはしない。わたしが思いつくとふらりと彼がやってきて、わたしが気配を感じると彼が飲んでいて、それから一緒にたのしむという形がいつの間にかできあがっていた。
「くらくらする」
船の縁を背にして座っているはずなのに、背骨や腰骨が溶けてしまったように形を保てない。ずるずると音を立てて倒れ伏してしまいそうになる。おなかに力が入らないのを意識すればするほど力が抜けて、しまいには短くきれいに整えられた芝生が頬に刺さっていた。
「おい」
「んー」
「だらしねェぞ」
ゾロはわたしを一瞥し、ぴしゃりと叱った。いつも通りの凛とした声に、はあとアルコール混じりの息を吐く。揺らがないその様に感心する。
「だって、くらくらするのよ」
「寝るなら部屋で寝ろ」
「だから、くらくらするんだってば」
どうしてなのか、口からおなじ言葉ばかりが出ていく。「んなこたァ、見りゃわかんだよ」、とゾロは戸惑いや呆れの混じった声を漏らした。
酔うことは諦めることに似ているというけれど、たしかにそうだと思う。どれだけ気を張っていても、アルコールはそんな小さな努力など無視をして引き剥がしにかかる。無防備をさらしても、まあいいやと思ってしまう。
海風をつめたいと思うのは頬が火照っているせい。耳や首筋までも熱くなっているせい。たまにはと思って部屋ではなく夜の帳をかき分け進む船の甲板で飲んでいるせい。匂いを嗅ぎつけた彼に隣を許したせい。ここは世界で一番安心できる船の上だし、怖いものなんてなにもないから。尽きない言い訳を頭の中に並べる。どれも事実で、つむぐ必要などない無意味な言葉たちだった。
「飲めねェなら飲むんじゃねェ」
「だって、飲みたかったんだもん」
「ガキか」
「子どもじゃないよ」
子どもはわざわざこんなものを飲まなくたって、身体はあたたかく、自然と良い眠りにつくことができる。大人だけが、いつも心にかけているリボンを解かないと眠れないし、夢も見れない。面倒だけれど、そうして無垢な部分をさらけ出すことで、幸福な気持ちになれる。大人だけが、味わえる。
ふいに、ゾロの手が伸びてきてあごを掴まれた。指先には力が込められていて、わたしの顔を上に向かせる。痛くはないけれどびくともしない。動けないほどの強さに、自由を奪われた。
視界には逆さまに映る彼がいる。歪みのない整った顔立ちをしているのだと、あらためて気づいた。厚い皮をまとった親指の腹が、唇の端に触れた。下唇のふちをゆっくりなぞられるとむずがゆくて、つい口角が上がる。わたしが笑ったのだと思ったのか、彼もわずかに頬を緩ませた。どこか意地の悪い感じがした。
「……なに」
「赤いな」
「うん?」
「お前、いつもより赤いぞ」
ゾロはわたしをのぞき込むようにじっと見下ろしていた。なにかを探られているような気分になる。わたしも負けじと、じっと見つめ返す。瞳の中に映る自分が見えて、忙しなく血を送り続ける心臓が活発に動きだした。
「飲んで」
「あ?」
「赤くなる女は、いいんですって」
「なんだ、いきなり」
「前に、言われたの。それが嫌で、人前で飲まないのよ、わたし。すぐ肌が赤らむから」
「だれに」
「うーん……忘れちゃった」
きっと、どうでもいい相手だった。記憶にも残らない霞のような存在。けれど言葉だけが脳裏に刻まれていて、いまだにまとわりついている。
わたしの言ったことに対して、ゾロは納得していないようだった。眉間にしわを寄せて、なにかを考え込んでいるみたいに口を閉ざしてしまった。重たい腕を伸ばして、くしゃっとなったその場所に指先を這わせると、より深くしわが刻まれた。
「じゃあ、おれの前でだけ飲め」
「ええ?どうして」
「おれァ、そんなこと気にしねェ」
「ふふ、ゾロらしいね」
「そうだろ」
ゾロは満足げに笑い、もう一度指先でわたしの下唇をなぞった。さっきまでより少し、熱を感じた。豪快で大ざっぱなところばかりが目立つのに、その触れ方は繊細だった。気づいてしまうと、かっと頬に血の集まる気配。ただでさえ赤くなりやすい質なのに、これ以上色づいてしまったらと思うと恥ずかしい。とどまることを知らない熱心な視線から逃れるために飛び起きて、彼の手首を掴んだ。やわらかさのかけらもない。骨までしっかりしていて、血管が通っている内側でさえ皮膚が厚くなっているように思えた。
「どうした」
「手、熱いの」
「おう」
「すごく、熱い」
わたしは掴んだままの手を引き寄せて、自分の腕を巻きつけて、しっかりした肩に寄りかかる。
「このまま寝ちゃいそう」
「起こさねェぞ」
彼の腕に体重をかけながら、ゆっくりと目を閉じる。ふわふわと身体が浮くような感覚がつま先から這い上がってきた。
「おい」
「……うん」
「部屋に戻れ」
「わかってる」
でも、もうちょっと。あと少し。口は動いていたと思う、けれどそのまま浅い眠りに落ちていった。
自分自身を支えるということは、芯が強くなければいけないということ。
そして、たくましい精神を包むための身体が必要だということ。
今のわたしにはどちらも欠けている。
それらは明後日の方向に飛んでいってしまったようだ。
戻ってくるのはいつになるかわからない。
ひと眠りして、朝日を浴びてからだろうか。
それとも、風の精霊に連れて行かれてしまったのかもしれない。
今夜はとても、いい風が吹いている。
ワードパレット使用作品
3.くらくら/酔う/燃えるような
Thanks 憂/@torinaxx