朝の話





空気は動きはじめたばかりだった。
夜明け前の薄闇に包まれた世界が静かなのは、まだだれもが夢の中を歩いているから。そして水平線を切り裂いて太陽が頭を見せれば、人々は自然と覚醒する。にわとりが甲高い鳴き声を上げ、海鳥が飛び立ち、ひとりまたひとりと家の中から外へと出てくる。生まれたての新しい風が流れ出す。
朝一番の小鳥便が持ってきた手紙を片手に、朝露で濡れた石畳の坂道を下る。正面には海が広がる。沖の方に何隻か船が出ていて、坂の終わりの角を右に曲がったところにある港には、人影が目立って見えた。わたしの先を歩いていた数人が、そっちの方へ向かって行くのを見送りながら左に曲がる。こっちにはだれも、いなかった。海沿いにのびる遊歩道を行くと、海との境界を作りつつも石畳に調和した柵に寄りかかるサボの姿が見えた。おはよう、と声をかければ彼はふり向く。早い時間のせいか少しだけぼんやりとした表情をしていた。
「おはよう、早いな」
「サボこそ」
「まァな」
ぼんやりとしているのは表情だけではなく、声までもだった。かく言うわたしもまだ頭の片隅に眠気が残っていてふわふわしている。お互いになにも言わず視線を前に向ける。見慣れた広い青は一日のはじまりに生まれ産声を上げている太陽の光を反射させ、水面に白を混ぜていた。目を細めてしまうほどに明るく、そのかがやき方は暴力的にも思えた。
空の終わりまでよく見渡せる、とてもいいながめ。もやのような薄い雲の切れ間から、明るさが強まってきている。今日もよく晴れそう。
「まぶしい」
視界の端にきらりと光るものがあって追いかけてみれば、思わず声が出た。緩やかなくせのある金色の髪がつやつやときらめく。まつ毛や肌も、朝日の色に染まっている。彼がまばたきをするたびに光が散って、瞳の色が見え隠れするのがうつくしい。
「なにがまぶしいんだ?」
「あなたよ」
「おれ?」
「目がちかちかする」
サボは、いつも身につけているコートは脱いで、帽子も手元におさめていた。シャツの袖をまくって腕をさらし、手袋もしていない。襟元のボタンもいくつか外れていて、身支度の途中といった、薄着だった。島は初夏の気配に染まっている。今はひんやりとした空気が漂い、そよそよと吹く海風も肌に冷たさを残すけれど、すぐに汗ばむ陽気になるのを知っている。それでもめずらしかった。知るかぎりでは、彼はきちんと身だしなみを整えるから。もしかしたら今だけなのかもしれない。わからないけれど、あまり見つめていると眼球だか網膜だかが焼けてしまいそうだった。
「どう受け取ればいい?」
「え?」
「まぶしいなんて、なァ?」
サボはわたしの言った言葉に肩をすくめつつも、くちびるの端をあげてほほ笑む。きれいな歯並びがよく見えた。彼の笑顔には慣れているつもりなのに、間近でやわらかな視線を受けてしまうと心臓がどきりと跳ねてしまう。朝は日差しだけではなく空気も、あらゆるものをみずみずしく映し出す。ため息をついて、見つめてしまうほど。
「いい意味か?」
「……知らない」
「おれの好きに受け取っていいなら、いい意味にする」
「知らないってば」
「いい意味なんだな」
「もう!」
サボと話すときはよく、翻弄される。デリカシーのなさに腹を立てたり、あげ足を取られて憎らしく思ったり、思いがけずやさしく甘やかな言葉をかけられてときめいてしまったりと、感情がさまざまに行き交う。もやっとすることの方が多いけれど、それでさえあとからたのしかったと思ってしまったりして、どこまでも敵わない気分を味わう。
わたしは手に持っていた封筒を、にやにやと意地悪く笑む彼に押しつけた。四角くて分厚い中身をした羊皮紙はもちろんただの手紙ではない。本部からの連絡だった。
「熱烈なラブレターだな」
「仕事よ」
「今度、お前からの手紙がほしい」
「やだ」
「即答すんな、かなしいだろ」
なんてことを言いながら彼はにこやかに、封蝋印をはがして中身を確認する。数枚ある紙のすべてに目を通し、それからその手を火に変えて燃やした。
「ちゃんと見た?」
「見た」
「大丈夫そう?」
「あァ」
「よかった」
火はすぐに消え、灰すら残らない。小さな火の粉も、一瞬の間に空中に消える。彼の能力を、ときどきうらやましく思う。機密文書の処理にはいつだって苦労するから。
「それで、迎えはどこだって?」
「南の方。道なりに行けば今は使ってない港があるから、そこに来るって」
「……へェ」
「なに、その顔」
「ん?」
「また変な顔して」
「変はねェだろ。迎えが早ェと思っただけだ」
「そんなことないと思うけど……もしかして、行きたいところでもあるの?」
「いや、別にねェ。けど、」
「けど?」
「うれしいんだよ」
「え?」
「お前が、一緒にいてくれるのが」
「……いつも一緒だと思うけど……?」
「だから、もっといられたらって思う」
サボはまた口の端を上げ、ほほ笑んだ。
こういうことを言うとき、彼は決まってやさしい顔をしている。いつからその顔を見せるようになったのかは覚えていないけれど、気づいてからというものわたしの胸の中はざわついて、落ち着かなくなる。もしばれてしまったら、これから先の長い人生、彼にずっといじられてしまうことが目に見えているから知らないふりをするつもりだけど、必死にひた隠しにするのも骨が折れるのだった。こっそり深呼吸をして、また目の前にある広い青を見ようとした。すると、彼のなにもまとっていないなめらかな素手が伸びてきて、頬に触れた。親指が下唇に触れて、それからあごの丸みにそって、ゆっくりと撫でられた。
「おれもお前がまぶしく見えるときがある」
「そう、なの?」
「おれを見てねェときの横顔とか、おれ以外の奴としゃべってるときとか」
あごの下を軽く押され、上を向く。彼の指先が首筋を下りていく。肌の表面をすべって動く指先に、身体が強張った。
「こっち見りァいいのにって思うんだけど、見ないでくれとも思うんだよ」
「なにそれ」
「なんだろうな、おれもわかんねェ」
指先は、咲き誇る花びらを愛でるように繊細で、朝の雰囲気には似つかわしくない甘さがあった。さあっと前髪をかき分け、こめかみの生え際を撫でつける風が通り抜けた。おでこが冷えて、頬の下にあった熱が落ち着いてくる。わたしは彼の手を払いのけ、立ち上がった。
「行こう」
「もう?」
「ちゃんと待ってないと、みんなが心配する」
「おれは一緒にいてェのに」
「文句は歩きながら聞いてあげる」
「文句じゃねェよ」
彼もおなじように立ち上がり、それからコートを着る。帽子を手に持ったままで、ゆらゆらと揺れていて、わたしが手を伸ばすと預けてきた。袖に腕が通るとき、しゅるりとシャツの擦れる音がした。帽子を持ったまま背中を向けて先に歩き出すと、彼が後ろをついてくる。あっという間に隣に並んで、トレードマークを取り戻すついでに手を繋いできた。
彼の手のひらは、熱くなかった。黙って握り返しながら、顔を上げて横顔を盗み見る。いつになくまぶしいのは、気のせいではなかった。



ワードパレット使用作品
6.一瞬の/視線/きらめく
Thanks 憂/@torinaxx
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