きっと見つかる話
濃く、深い霧の漂う島は、朝も夜も先の見えない白い闇に覆われていた。
晴れることはほとんどないらしく、いつだってしっとりした澄んだ空気が流れているという。
もう長いこと住んでいるから、空の色も、街の景色も、海の様子も、よくわかるよ。
道に迷い、手探りでたどり着いた本屋の店主が笑いながら言った。外から来た人たちはみんな不思議がるけどね、とつけくわえて、この島で一番わかりやすいという地図をくれた。
広げて見ると、街は定規で線を引いたみたいに、規則正しく道が通っていた。まるでチェスの盤面みたい、とわたしがつぶやくと、見えにくいのは最初だけ、と店主が言う。
お嬢さんも、すぐに、慣れる。なんでも見えるようになるよ。
それはまるで、不安で目の前が真っ暗になっている幼い子どもをなだめるような口調だった。わたしは申し訳なさと、わずかな恥ずかしさに愛想笑いを浮かべることしかできなかった。
それから、せっかくだからと本を数冊買った。店主はにこやかに笑い、またおいで、と送り出してくれた。
「ひとりで出歩くな」
迷子になって、本屋で本を買って帰ったとき、ローはわたしにそう言った。
朝、出かけると言って、黄色い船に戻るころには夕方になっていた。白い霧にきらめくオレンジ色の帯が溶け込んでいるのを見つけて、今日は晴れていたのだとはじめて知った。
「危ねェだろ」
たしかに慣れない土地で、ひとりで外に出た。視界は悪いし、帰ってくるまでにとても時間はかかったけれど、時計の短い針は七にも届いていなかった。
まるで、門限破って親に叱られている子どもみたい。そう思いはしたけれど口には出さなかった。顔には出ていたかもしれない。ローがおもしろくなさそうに、表情を曇らせたから。
ちょっとぎすぎすした空気を生み出して、見つめ合っているような、にらみ合っているようなわたしたちを、通りすがりのペンギンとシャチが、キャプテンの過保護がはじまったぞーと冷やかした。ローがひとつ、舌打ちをして、それが聞こえたのかふたりは尻尾を巻いて逃げた。わたしも逃げたかった。だって、なんにも、悪いことはしてない。
「ごめんね」
機嫌を悪くさせるだけさせて、逃げたふたりを恨めしく思いながら素直に謝る。わたしは子どもじゃない、大人だから、気に食わないものも軽く飲み込んでしまえる。
ローは帽子のつばに手を当て、ため息をつくように目を伏せた。
「次は気をつけろ」
どこか、不貞腐れたみたいに言うからつい、笑ってしまいそうになった。
指輪がない。
右手の小指を彩っていたはずの、金色の細い指輪が。
ショックなことが起きたときに味わう、あの胸の締めつけられる感覚が、身体の中心に突如としてあらわれ、戸惑った。
必死に、思い返す。昨日は指にはまっていた。その前の晩も。顔を洗ったときも、ご飯を食べていたときも、シャワーを浴びたときも、ずっと身に着けていたはず。
ベッドから飛び起きて、毛布をめくり、枕をひっくり返した。マットとベッドフレームのすき間に、手を這わしてもみた。隅々までシーツの下を撫でてもみた。ベッドの下はどうだろうとカーテンを開けると、向かいの三段ベッドから寝ている仲間の寝返りを打つ音がして、少し冷静になった。
潜水艦の狭い空間で生活していると、行動範囲は限られてくる。持ち物には名前を書くようになるし、保管しておく場所も、自然と決まる。
いくつかある三段ベッドの真ん中が、わたしに与えられた個人スペースだった。そして、私物の中でも大事なものは、この場所に置くようにしている。
ここになければ、もう、どこにもないのと一緒だった。
あぁ、と声になりきらなかったため息が、口から漏れる。ゆっくり、静かにはしごを降りて、部屋の外に出て、そっとドアにもたれながらうつむくと、涙が出そうになった。
あれは、わたしにとって、唯一無二の宝物。
早朝のひんやりとした空気に身ぶるいしながら、羽織ったカーディガンをぎゅっと握りしめながら、思い知らされた。
霧に包まれた海沿いの道を歩く足どりが、重い。日が昇って間もない空はぼんやりと明るく、波を打ち消すブロックに海水が当たって砕ける音だけが耳に届く。それ以外は、よくわからない。慣れれば景色が見えると言うけれど、はたしてそれは本当なのだろうか。とても、あやしい。わたしには、なにも見えていない。身近にあった宝物だって、簡単に、失くしてしまった。
飾りもついていない、ただの輪っかだった。けれど、わたしが持っている少ないアクセサリーたちの中で、一番かがやいていた。サイズが、ちょうどよかった。ぴったりと指におさまって、肌と馴染むようで、そして窮屈ではなくて、お気に入りだった。
思えば思うほど、失くしたもののいとおしさが込み上げてくる。やけに軽い右手が物足りなくて、さみしくて、身体がどんどん冷えていく。
こんなことになるのなら、いっそ、なにも持たずにいればよかったとさえ感じてしまう。
「ひとりで出歩くなと、言っただろ」
きゅっと、靴底が、砂の粒を踏んだ音がした。砂浜から風に乗って飛んできて、薄く積もっているから、道は砂だらけ。
そしてその音を立てたのは、わたしじゃない。後ろをふり向く。きっと後ろだと思う。霧の中では、前後の感覚なんてわからない。
「ロー」
低い声が、耳によく馴染む。ローは凛と佇んでいた。ついさっきまで、わたしだけが歩いていた道にいるのは、違和感があるのと同時に安堵を覚えた。白い闇の中でひとりではないのだと思うと、胸の奥を巣食うざわめきが、一気に凪いだ。
「こんな勝手は許してねェ」
「……ごめんなさい」
ローの剣幕は、この島で迷子になった日よりもひどく、たじろぐほかなかった。後ずさると腕を掴まれ、「おれを見ろ」とうつむくわたしの頭に声が落ちた。言われるままに、顔を上げる。ローは腕を離すかわりに、両手でわたしの頬をはさんだ。怖い顔をしている。怒ってる。当たり前だけど。
彼の金色の瞳の中には、おびえて肩をすくめるわたしがいた。
「心配した」
「…………うん」
「知らねェ土地で視界が悪けりゃ、迷子になるってわかってるはずだ」
「……うん」
「約束しろ。二度とこんなことはするな」
うん。
喉からしぼり出した声はか細く、吹けば消えて飛んでいってしまいそうだった。
それでもローの耳には届いたのか、頬の強張りを解いてわたしを引き寄せ、抱きしめた。大きな手のひらに背中を撫でられ、あっという間に彼の体温に包まれる。広い胸に寄せた頬に、耳に、温もりを感じると涙腺が解け、目頭に熱が溜まって、鼻の奥が痛くなった。
「……ロー」
「なんだ」
「ローがくれた指輪……失くしちゃった……」
言いたくないことを口にすると、舌が痺れた。認めたくない事実に、半分だけ泣いてしまう。
ローの胸を押し、そっと離れる。
「探そうと、思ったの。でも、どこで失くしたのかわからないから、探せなかった」
あんなにもわたしにくっついて離れなかったのに、突然音もなく消えてしまうなんて。
身体の内側に通った芯が、ぽっきりと折れてしまったように打ちのめされるのは、はじめてだった。
ローが、くれたの。わたしに、わたしにだけに。船に乗ったときに手渡されたチャレンジコインと一緒に、お守りだと言ってくれた、世界でたったひとつの指輪。
「また、渡す」
「ちがうの、それじゃ、だめなの」
ちゃんと、大事にしなくちゃいけなかったの。
つむいだ声は、震えていた。彼に結ばれた縁を、砕かれた心の一部を、与えられた友情を、愛情を、わたしは取りこぼしてしまったのだった。
「失くしちゃって……本当に、ごめんなさい」
指輪は、彼の船に乗るだれもが渡され、持っているのだと思った。けれど、もらったのはわたしだけだった。そのことを仲間たちに話題にされるとローは、こいつは危なっかしいから、とか、おれの知らねェところで死なれちゃたまらねェ、とか、いろいろ言い訳をしていた。キャプテン、お前のことが特別大事なんだよ、とシャチがこっそり耳打ちしてきて、キャプテンおれにもくださいよ、とペンギンがからかって、怒られていたのを覚えている。
わたしはそのとき、ほんの少し恥ずかしかったのと、彼は居場所をくれただけではなく生きるよすがまで与えてくれたのだと感じて、うれしくなった。自覚はなかったけれど、もしかしたらわたしの存在は、危ういほど希薄だったのかもしれない。繋いでおいておかないと、それこそ霧が晴れてしまうみたいに、指輪みたいに、消えてなくなってしまう、と。
「お前は悪くないよ」
ローが、これまで聞いたことがないくらい、やわらかい声で言った。
反論しようとするとさえぎるみたいにして、それまでよりもやさしく包み込むように、まるであやすような手つきで、もう一度抱きしめてきた。
「言い方が悪かった」
「ロー……」
「大事にしてたんだな」
うれしい、と耳元でそっとささやかれ、喉の奥がぎゅっと締まる。
「まだ、焦ってるみてェだ」
「焦ってる?」
「お前がいなくて、おどろいた」
だれにもなにも言わず、船を飛び出してきた、と彼はどこか照れくさそうに小さく笑った。
「……そんなに?」
「そんなに、だ」
「どうして?」
「お前はあっという間にどこかに行っちまいそうで、」
「うん」
「近くにいてもらわねェと、落ち着かねェ」
「……ローだって、勝手にどこか行っちゃうのに」
「おれは必ず帰る」
「そうね、そうだけど……」
いつも、心配してる。
つぶやいて、しがみつくみたいにローの背中に手を回した。彼のシャツを握りしめ、目を閉じると静かな鼓動の音が頭の中に響いた。
「ローは、勝手に失くなったりしないでね」
ローまで失くしちゃったら、わたし、消えちゃうかも。
その気持ちがちゃんと言葉になったかは、わからない。急に強い風が吹いて止んだかと思うと、それまでわたしたちを、街を、島全体を取り囲んでいた霧がさっと消えてなくなって、白金の朝日に染まる青い空と海が目の前に現れたことにおどろいたから。
「ときどき、数時間だけ、晴れることがあるらしい」
ローのシャツを握りしめる手を解いて、ここにきてはじめて見えた景色に見惚れていると、彼がそうささやいた。
「きっと見つかる」
続けてささやいて、歩き出し、わたしの手を引く。海鳥の鳴く声と、街が動き出す気配を感じた。
ただ、繋いだ手に力を込めて、わたしもなんだかそんな気がするのと口の中でつぶやきながら、澄んだ空気を思いきり吸い込んだ。
ワードパレット使用作品
19.きらめく/瞳の中/手を引く
Thanks 憂/@torinaxx