そんなの前から決まってる






「好きだ」
羊皮紙に染み込むインクみたいになめらかな声が、しんと静まりかえった部屋全体に響いた気がした。
壁一面に置かれた本棚、その本棚におさまるたくさんの本たち、古い紙の匂い、窓ガラスから差し込むオレンジ色の夕日。
どれも、わたしたちのためだけに存在しているようだった。
彼がつむいだ言葉の意味は、以前からわかっていた。
表情、仕草、態度、声色。そのすべてに、春の海に吹くおだやかな風を感じさせるやわらかさがあったから。
うれしかったけれど、わずかに耳を疑った。夢のようだと感じ手の甲をつねるとひりひりとした痛みが肌を伝ったから、ようやく現実なのだと理解した。
ローは、わたしのことが好き。
それはなんて、甘く、きらめいた思いなのだろう。

「でも、言うだけ言って帰るのはひどくない?」
青い月が、濃紺の空に昇った夜。以前送られてきた手紙に書いてあった番号に電話をした。
受話器は取っているはずなのに、わたしの言ったことに返事はない。いつの間にか姿を変えた電伝虫は、ユキヒョウみたいなまだらの帽子をかぶってはいなかったけれど、目つきの悪さが大変かわいくなくなっているから、そこにはいるはずなのだけど。
「わたしね、うれしかったよの」
「…………」
「ちゃんと、返事をしようと思ったの。それなのに、さっさと帰っちゃうんだもん。びっくりした」
「…………」
「言い逃げは、よくないと思う」
「…………悪かった」
ようやく返ってきた声色は、いつもより少し低くて、口ごもっているようだった。
もしかしたら照れているのかも。そう思うと、自然と口元がゆるんでしまう。
「ねぇ、今どこにいるの? 教えてくれたら会いに行く」
「海賊のいる場所なんか知ろうとするな」
「勝手にこっちに来るくせに」
「どこに行くかはおれが決める」
「一般人を好きになるし」
「好きになっちゃならねェとは言われてねェ」
ああ言えばこう言う。なんてかわいくないのかしら。でもこっそり、彼の言った言葉に対して胸の奥が緩やかに締めつけられていた。
素直じゃないのが、なんとも彼らしい。
「わがままね」
「うるせェ」
「嫌いじゃないよ」
「……返事は?」
「え?」
「返事をしようとしたって言った」
「あぁ……そうね……ローが今度こっち来たときに言う」
「今、言え」
「嫌」
「お前の城を奪ってもいいんだぞ」
「まぁ、なんてこと言うの!」
わざとおどけた調子を見せると、くつくつと喉の奥で笑う声がする。それにつられてわたしも笑いながら、次に彼が来るときまでに読みたがっていた本を用意しておくことを伝えた。
いつになるかわからねェぞ、と夜の深みに似合いの低い声でそっとささやいてくる。鼓膜を伝い、わたしの頭の中に彼の姿が浮かび上がる。
つややかな黒い髪、きらめく金色の瞳、通った鼻筋、形のいい唇、ゆがみひとつないあごの曲線。神様に愛されたような整った面立ち。背筋は伸びて、きっと足を組んだり、テーブルに肘をついたりしてくつろいで。そんな姿も様になっているに違いない。近くで見られないことが惜しいけれど、会えなくたって、わたしは思い出すことができる。
「いいのよ、いつでも。待ってるから」
そう言えば、ローはまた黙ってしまった。
部屋を照らす角灯のほのかな明かりだけが、小さく揺れた。

年に数回、彼はわたしの城にやってくる。
だれも気にも止めない忘れられた島。その島の、緑の折り重なった閑寂な森の中で、赤いレンガを積み上げた塀の中にそびえ立つ図書館に。
わたしは島で唯一の司書。そして、レンガの塀の中の図書館に勤めていて、ついでにそこで暮らしている。以前は街から通っていたのだけれど、親代わりとして育ててくれていた祖父母が亡くなったとき、住んでいた家を手放さなければいけなくなって転がり込んだ。というよりも、そうするようにと隣の島の図書館に勤めている上司──わたしが司書補佐として働いていたときに指導してくれた人──が強くすすめてきた。図書館には別棟があって、居住スペースが設けられていた。
きみまでいなくなってしまったら、だれがそこにある本たちを守るんだ。
なんて上司はちょっと格好つけた口調で電話越しに言っていたけれど、自分や自分の部下たちをそっちの島に向かわせたりはしないからなという本心が透けて見えていた。上司やほかの司書たちは、わたしの城である塀の中の図書館が嫌いだった。森の中にあって一年中じめじめしているせいか、本の管理に気を使わなければならないし、図書館全体に陰気な雰囲気が漂っていて気が滅入るとたびたびぼやいていたのを知っていた。
まるで牢獄だ。以前、一緒に働いていた司書が言っていた。わたしには数名、同僚がいたけれど、みんな隣の島に移ってしまった。わたしは生まれも育ちもこの忘れられた島だったし、当時は祖父母と暮らしていたから移ることはなかった。
なにが牢獄よ、ここは城だわ。
わたしは司書補佐のころから塀の中の図書館が好きだった。いや、もっと前、子どもころから、森の中にたたずむ荘厳な様に心惹かれていた。忘れられた島と言われるくらいだから、島全体がひっそりとしていて、朝も夜も静寂に包まれている。人は住んでいるし、街もある。船の行き来もあるし、自然が豊かだから観光客も訪れる。それなのに、いつだって、閑かだった。それがとてもうつくしく思えて、好きだった。
トラファルガー・ローがわたしの城にはじめて来たのは、わたしが二十歳の誕生日を迎えてすぐ。
春が終わり、夏の匂いが風に混じりはじめたころ。
滅多に来ない利用者が来たかと思えば、「医学書の棚はどこだ」とカウンターの中にいたわたしに言ったのが、最初。
わたしたちは同い年だった。これは彼がよく訪れるようになって、話をするようになってから知ったことだけれど、わたしにとって胸を弾ませることのひとつだった。
この島は子どもが少ない。長く住むのは年寄りか、職人か、わたしのようにひとりきりで仕事を任されている人ばかり。そしてみんな共通して、だれかと深く関わり合うことを最優先にしていない。忘れられた島にそんなものは不要だと言わんばかりに、自分の時間を黙々と生きている。たとえ子どもが産まれ育ったとしても、大抵は成人してすぐ島の外に出て行く。
きっと、静かすぎるのがいけないの。なにか夢中になれるものがないとひどい退屈に襲われてしまうから。たまに訪れる観光客だって、本当はあっという間に帰ってしまう。
「ナマエはひとりで平気なのか」
ローはよく、わたしを気遣ってくれた。その気遣いに対してお礼を言うと、彼は即座に否定したけれど。
いくら静かなところだといえ、女がたったひとりで生きているのが、不思議でしょうがないのだろう。
「平気、慣れてるし」
「そういう状態が、一番無防備だってのを知らねェのか」
「それはわかってるけど、でも、本当に平気だから」
自分を取り巻く環境が、とても恵まれていることは理解している。家も仕事もあるし、食事をとることもできるし、夜はぐっすり眠ることができる。家族はいないけれど友人がいるし、なによりわたしは防壁に囲まれた城に住んでいる。
「城か」
「そう」
「いい城だな。奪いたくなる」
「あげないわよ」
「冗談だ」
「それはよかった」
ふたりきりで過ごす時間は決して長くはない。けれど、ときどきわき上がって身体の中を埋め尽くす水泡みたいな不安を一瞬で払拭できるくらい、彼と過ごすのはたのしかった。
わたしたちはお互いに本が好きで、これまで読んできた本やこの図書館で読んだ本についてよく話した。もちろん本以外に、いろいろなことを話した。好きな食べ物とか、趣味とか、生い立ちについてなんかも。
「わたし、頭がいいの」
図書館と居住スペースである別棟を繋ぐ通路に、テーブルと椅子が置いてある。わたしたちはよくそこで、お茶を用意してお昼やおやつを食べた。本当は、図書館で飲食してはいけないのだけれど、このあたりに本はないし、司書のわたしがいいと言ってるからいいのよとローに言えば、悪い司書だなと呆れた顔をされた。
「司書になったのは十六歳のとき。この図書館で最年少だった。司書になる試験も余裕でパスしちゃった」
「へェ」
「記憶力も、いい方よ。ここに置いてある本がどこにあるかはっきり言える。奥に保管してるものもね」
「全部か?」
「ローが借りた本も覚えてる」
この前は消化器系疾患の症例をまとめた論文、その前は感染症についての本。植物とか、海洋生物の図鑑なんかもよく見ているし、海の戦士ソラの小説本(初版)は何度も読んでいるのを知っている。
「ね?あってるでしょ?」
「すげェな」
「ここじゃわたしに隠しごとはできないわよ」
「つまり、この仕事は天職ってわけか」
「そうかも。働いててとてもたのしいし、満足してる。ただ、周りは気に食わないみたい」
笑いながら言うと、ローは眉をひそめた。
「みんな、わたしのこと、嫌いなのよ」
「どうして?」
「わたしが賢いから。賢い女って嫌われるの。特にこの島にはわたしみたいな若い女は他にいないし、だから、すごく目立つ」
「それで?」
「祖父母が続けて亡くなったとき、葬儀の手伝いに来てくれた近所の人たちが言ってるのを聞いたの。いい気味ねって」
「……」
「聞こえてきたのはたまたまだけど、ずっと忘れなかった」
上司がわたしをここに押しとどめた理由は、身寄りのない人間への親切や職務を全うしろという責任感だけではない。
異質なわたしを島の外に出すのが嫌なのも、理由のひとつ。
わたしは、この島で生まれ育って、ほとんど外に出かけたことはない。子どもを一番最初に旅に連れ出してくれるであろうはずの両親は、わたしが生まれてすぐに亡くなってしまい、顔は写真でしか見たことがない。代わりに育ててくれた祖父母はやさしく、いつだってふたりの深い愛を強く感じていたけれど、それとおなじくらいのさみしさをいつも感じていた。
「でもね、そんなことどうでもいいの。ここで本に囲まれて暮らせるだけで十分。それに、ローが来てくれた」
「おれが?」
「そう。ローが来るようになってから、毎日がたのしい」
「いつもいるわけじゃねェのに?」
「うん」
「そんなふうに言われんのは、はじめてだ」
「だれかに言われたことがあるの?」
「女はみんな、一緒にいてほしいって言うだろ」
それは一体だれのことなのか、わたしにはわからなかった。けれどローは、赤の他人であるはずなのに関わりが深くなるにつれてどの女性もみんなおなじことを口にしたと、しみじみ語った。
さみしかったのね、きっと。それが当たり前。さみしさに慣れてる人なんてほとんどいない。抗えないし、抗ってはいけないのかもしれない。
わたしだって、もし違う島で生まれて育っていたら、そんなことを口にしたかも。言葉の裏に隠れた冷ややかな意味や態度に、描いていた未来や夢や目標を、諦めるしかないと感じ殻に閉じこもってしまっていたかもしれない。
でも、わたしも、はじめてだった。
だれかを待つことに胸が踊るなんて。
ひとりで過ごしていて感じていたさみしさや孤独が薄れ、いつだって胸の中に日の光を吸い込んだ海原のきらめきがあり続けるなんて。
はじめて経験することだと、そう伝えたら、ローは静かに笑っていた。

ローが出会って、親しくなってから六年ちかくが経つ。わたしたちはおなじ年を重ね、いくつも重なったカーテンを開くみたいに隔たりを取り払い、言葉を交わし、その言葉に愛を感じるようになっていった。
今日はちょうど、仕事がなかった。数日前に近いうちに行くと手紙がきて、そろそろ頃合いだと思って城を出て、街を抜け、港に面した海岸線を歩いていた。
死の外科医として大きく名前が掲げられた手配書が出回っているから、てっきり目立たないように行動するかと思えば、彼はあまり気にせず普通の人のように振る舞う。後ろめたいことなんてないからな、とやけに誇らしげに言っていて、不思議な人だと笑った覚えがある。そのおかげか、彼と外で会ったり、隣を歩いたりしたとき、一度も指をさされることはなかった。
頬を撫で、首筋を通り抜ける潮風は、肌をやわらかく包む。道を進んでいると、向かいから、よく知る影が歩いてきていた。
背が高く、すらっとしていて、影さえうつくしく整っている。図書館で本を読んでいるときも、いつもそう感じていた。静かな場所を追い求めてたどり着いたらしいけれど、ここはまるで彼のために存在し続けていたかのよう。忘れられた島は、たとえどんな悪い存在も、そっと包んで隠してしまう最上の蓑。
「ロー」
名前を呼ぶと、彼は顔を上げた。それまで静かだった胸の内に夏の花が咲き、青緑色のさわやかな風が吹く。駆け出すと、彼は怜悧な表情をわずかに崩した。わたしが胸に飛び込む前に、墨の入った腕が伸ばされた。抱きついたというより、抱き寄せられたといった感じで、再会の抱擁を交わした。
「よかった、会えた」
「今日、おれが来るって知ってたのか?」
「ううん。でも、来る気がして」
勘が冴えわたる日は、頭の中に鮮やかな虹がかかる。今日もそういう日だった。
「わたしに隠しごとはできないわよ」
「それは城の中でだけじゃなかったか?」
そうだったっけ、と肩をすくめると、ローは静かな笑みを深くした。
「ナマエに訊きたいことがあって来た」
耳元でそっとささやかれ、その声のなめらかさに思わず距離をとろうと身動いだけれど、彼は背中に回した腕を解かなかった。
「返事は?」
金色の眼差しは鋭くわたしを射抜き、最後に交わした話の続きをせがむ。ローはどこか誇らしげに静かに笑う。わたしが口を開き、息を吸うと、背中に添えられた手のひらがひとつ、ゆっくりと撫でていった。



ワードパレット使用作品
20.抗えない/思わず/諦めるしかない
Thanks 憂/@torinaxx
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