愛情
意外にも、エースはやさしい。
なんてことを思うのがよくないことなのはわかっているけれど。
胸がときめいた回数とおなじだけ実感する。
今もこうしておなじベッドに横になっているけれど、お互いに羽化を待つさなぎみたいに毛布に包まっている。毛足が寝てちょっと毛羽立った肌なじみのいい布の下で、彼が身を守るみたいにして腕を組んでいるのを知っている。それだって、わたしを拒んでいるのではなくて、安心してくれと態度で示しているだけなのも知っている。
思えば凪いだ海みたいな、ゆったりとした歩み寄り。気持ちを自覚し、伝えたのは早かったと思う。でも、まず、手を繋ぐまでが長かった。一緒に遊びに行った数を、両手で数え終わるか終わらないかくらいまで、彼はおもしろいくらいにわたしに触れなかった。指一本って、こんな感じなのねと感心してしまうほど。こんなにも控えめだとは思わなかったから、おどろいた。彼は人に好かれるタイプだし、人付き合いを苦手とはしていないし、友達とじゃれあったりすることもあるみたいだから潔癖というわけではないだろうし、わたし以外の女の子と数人付き合ったことがあるとも言っていたし。
「だからね、意外だと思って」
枕に顔を半分埋めながら笑ってみせると、エースはぎゅっと眉間にしわを寄せた。
「もっと、手が早いと思ってて」
「失礼だぞ」
「ごめんね。でも、そういう話も聞いてたし」
「そりゃあ、ただの偏見だ」
まったく一体だれがそんな適当なことを、とぼそぼそとつぶやく。
「手、繋ぎたいってわたしが言うまで、なにもしないのは本当におどろいたんだよ」
「……そうか?」
「それもちょっとだけだったし」
駅に向かう途中、信号が変わるのを待っている間に手を繋ぎたいと言ったとき、彼は少し困った顔をしていた。それまで触れずにいたから、もしかしたら嫌だと言われるかもとさみしい予感が脳裏をよぎったけれど、ごく自然にすんなり繋いでくれた。だから、そのあっさりとした様にまたおどろいてしまった。
今思い出しても、なんとも不思議な一瞬だった。
「だけど、次の信号までっていうのはないと思う」
「いいだろ、繋いだんだからよ」
「次の信号まで5歩くらいしかなかったのに!」
「はァ?そんなに短くなかったって」
「短かったよ! すぐだったもん!」
「大げさだな」
呆れたように言って、エースが寝返りを打つ。向かい合う体勢になったことがうれしくもあり、距離の近さに少し恥ずかしさがあって、毛布の端を握った。
「あとね」
「おう」
「もうひとつ、偏見がある」
「うん」
「男の人ってもっと……なんていうのかな……欲求に忠実だと思ってて」
「……だれの話だ?」
「え?」
「だれだ」
「うーん……知ってる人……?」
というよりも、知っていた人、かもしれない。彼とはなんの関係もない存在はおぼろげで、どんな姿かたちをしていたのかすら定かではないけれど。
たとえば、頑固すぎるとか、融通がきかないとか、もっと心を開いてとか、黙って言うことを聞いてほしいとか。
わたしの中にはどうしても結びついて離れない言葉のかけらが、ある。それらはめちゃくちゃな片結びをしているからなかなか解けなくて、解こうとすると指先や爪が痛くなる。うんざりしちゃうわね、の心の中であきらめればゆうゆうとそこに居座り続けて、ふとした瞬間に存在感をあらわにするから、とても厄介なものだった。
「お前、おれ以外の男の話すんな」
「えぇ?そういうわけじゃないんだけど」
「じゃあ、だれだよ」
「だれでもないよ」
「言え」
「わかんない、忘れちゃった。でも、わたしが言いたいのは、そういうことじゃなくて」
「…………」
「やりたいときに、やりたいことをしたがるじゃない?」
「……やりたいことって?」
「いろんなこと」
人って、自分にとって都合のいいものが好きだから。
それは決して間違っていないし、だれでも持ちうる欲求で、感情であるけれど、わたしはその欲求を向けられるとなぜか途端に疲れてしまう。
きっとそれは顔や態度に出ていて、だからぐちゃぐちゃの片結びが今もわたしの中に存在している。
結びつけていった人たちは、みんなおなじことを口にして、とびきり苦い顔を見せていった。
エースは少しのあいだ口を閉じていた。
「まァ……間違っちゃいねェけどよ」
「うん」
「おなじだと思われんのは、おもしろくねェ」
「エースが、おなじだとは思ってないよ。全然ちがう」
「そうでなきゃ、困る」
「困るの?」
「お前を捕まえるためにおれがどれだけ苦労したと思ってんだ」
「がんばったの?」
「がんばった」
「知らなかった」
「おれは、」
「うん」
「お前が覚悟決めねェ限り、なにもしねェ」
「覚悟?」
「おれを受け入れるかどうかっていう、覚悟」
エースはゆっくりとした口調で静かに語り、枕に頭を乗せ直して、深いため息をつく。
わたしは毛布の端を指先でもてあそびながら聞いていた。
「お前、なんでもかんでも許して受け入れるだろ」
「そんなことない、ちゃんと考えてる」
「じゃあ、なんでそんな変なのに引っかかってんだ」
「それは……わかんないけど……」
言われてみると、覚悟なんてしたことがなかった。
ただなんとなく付き合って、なんとなく触れ合って、なんとなく別れる。
後腐れがないのが自分の強みだと思っていたけれど、もしかしたら最初からなんの感情も持っていなかったから、片結びなんてものができてしまったのかもしれない。
「無理強いしたくねェ」
「うん」
「あとはおれのためでもある」
「エースの?」
「調子乗って、お前を傷つけたら嫌だから」
そう言うエースの顔は、それまでよりもずっと眠たげだった。黒い瞳がとろんと溶けて、ゆらゆらしている。まぶたを擦るのを見て、そういえばこんなふうにだれかを見つめたことなんてないと気づいて、はっと息を呑む。
「やさしいね」
「……付き合うなら当たり前だろ」
「エースは特別やさしい」
「…………おう」
「こんな人見たことない」
「だから、知らねェ男と比べんな」
「エースだけだよ」
エースだけ。もう一度くり返すと、彼はにやりと笑った。
急にまぶたが重くなった。なんでだろう。眠そうなエースを見ていたからか、彼のやさしさが身に染みたからか、照れくさくて逃れたかったからか。毛布を胸の前でかき合わせ一度息をついて目を閉じると、「もう寝ろよ」と耳触りのいい低い声が聞こえ、頭の中に白いもやがかかりだす。
「ねぇ」
「…………うん」
「聞いてもいい?」
返事が遅い。
早く捕まえないと、わたしも眠ってしまいそう。
「どうしてそんなにやさしいの?」
エースは力を抜くように笑う。もう目が閉じていた。
けれど、つむがれた声ははっきりと、よく聞こえた。
「好きだからに決まってんじゃねェか」