嵐の子ども
耳をすますまでもなく聞こえる声を、うとましく感じる。
声を出さないでほしい。
わたしは自分の息づかいでさえ耳障りで、止めてしまいたい気分なのに。
「なにが不満だ」
ローの声は、少しだけ、とげとげしい。
話しかけても、何度も無視をするわたしが気に入らないらしい。べつに、無視しているわけじゃないけど。それどころじゃないから、返事をしないだけ。
「おい」
「うるさい」
「なにが不満だと言ってる」
「黙って」
取り合う暇が、惜しかった。
雨音がひどいせいで足音が聞こえないから、気を張り巡らせなければいけない。
細かい飛沫を上げ、視界を白く染める雨粒は、檻の中から見る鉄格子のよう。
行く手をはばむのはそれだけではなく、外に出るのもためらうほどの大雨だというのに、血気盛んな海兵たちがわたしたちを見つけ出そうと躍起になっている。
雨具に身を包み、小銃を抱え、鈍い足音を響かせ走り回っているのは、決して気軽にやり過ごせるものではなかった。
「あまり見るな」
「黙ってよ」
「落ち着け」
「うるさいってば」
「おい」
「黙ってって言ったじゃない」
「……一緒に見つかりてェなら止めねェ」
おれはいいぜと言わんばかりに、ローは肩をすくめてみせた。
焦燥感に擦れた胸の内側が、端からじりじりと焼ける音がした。
「なに、その言い方」
「突っかかるな」
「だれのせいでこうなってると思ってるの」
「おれのせいじゃねェ」
「だったら、上手くここから連れ出して」
後ろに立っている彼と向き合う。背の高い彼を見上げるのは、首が痛くなったり、声を張ったりと小さな努力が必要なのだけれど、今はそんなことなどどうでもよかった。
「……どうやって?」
「ローならできるでしょ」
深くかぶった帽子の奥に隠れる、金色の瞳を見つめる。彼の能力なら容易なはずだった。こうして頼ることはいけないとわかっているけれど、それでもこの状況では彼にすがるしかない。
それなのに。
「身体が濡れて、だりィから、嫌だ」
返事はなんとも、冷ややかなものだった。
建物のすき間、じめじめとよどんだ空気の流れる路地に身を潜めて、しばらく経つ。
お互いの身体は濡れていた。屋根や雨どいから受け止めきれなかった雨粒が絶えずしたたって、髪や肩にまとわりつくから。水を吸った服は重く、肌に張りつき、靴の中はぐちゃぐちゃになっている。ローはどうかわからないけど、デニムの裾の色が変わっているのは見えた。
足元に広がる泥の混じった水たまりは、ずっとゆがんでいて、波紋ばかりをつくる。
遠くから聞こえる怒鳴り声も、止みそうにない。
まだ見つからないのか、隅々まで探せとずっと、叫んでいる。
「早くしないと、捕まるかも」
泥で汚れた靴の先に目を落としながら小声で言う。ローはすぐには答えなくて、かなり間を置いてから、めんどくさそうに口を開いた。
「いつまで経ってもここに来ねェってことは、そんな心配はねェってことだ」
「でも……わからないじゃない!」
今はここに来なくても、いつかは必ずやってくるに決まってる。
詰め寄り、にらむようにして顔を見上げると、彼は少しだけ目を丸くして、「お前はずっと怒ってるな」と小さく笑った。
「……え?」
「昨日からだ」
「怒って、ないけど」
「今朝も機嫌が悪かった」
「怒ってないってば」
「夜だってあんだけかわいがってやったのに、つめてェ奴だ」
「だから、怒ってないって……!」
喉の下に、今すぐ飛び出したいとうずく言葉の塊がぐるぐると回っていたけれど、彼の言ったことの意味を理解して、ぐっと飲み込む。
思いがけないことを言われ、かっと頬が熱くなった。それは、たしかに、昨日の夜はそうだったかもしれないけれど。でも、今言うことじゃないじゃない。意識してしまうとどうしようもなく恥ずかしくなって、素早く視線をそらした。
「ははっ」
「っ、笑わないで」
「わかってる、冗談だ」
ふいに、腕を掴まれる。ローは喉の奥で笑いながら、わたしを抱き寄せた。呆気にとられたまま腕の中に収まった身体は、すっぽりと、彼の体温やいつもまとう清潔な香りに包まれてしまった。
いけない、と頭の後ろの方で、もうひとりのわたしがささやく。こんなことで気を許してはいけない、あんたは怒っているのよ、って。
窮屈で、しっかりした腕の中。身じろいで、広い胸を押す。手のひらに触れた墨の彫られた肌は、雨の連れている湿気のせいか、汗ばんだみたいにしっとりしていた。押す力を強めると、鼓動の音を拾う。降りしきる雨音なんか気にならないくらい、そのこもった音が、肌を通じて耳に届いた。
抱きしめられているせいで、服がより張りつく。肌との境界線が曖昧になって、一体化して、身体の中の水分が増えた気分。ぐらりと頭が重みを増す。
「ねぇ、」
「ん?」
「離して」
「……嫌だ」
「ローも、濡れちゃうから」
「気にしなくていい」
「具合でも、悪くなったらどうするの」
「お前の方がそうなりそうで、心配だ」
ローの声は静かで、やわらかかった。不安に駆られる心を落ち着かせるような、低い声。それと一緒に、なだめるようにわたしの濡れた髪を撫でつけてきた。指先はゆっくりとすいて、それから耳に触れ、軽くつまむ。
「くすぐったい」
払いのけることは、しなかった。できなかった。身体の力がどんどん抜けていって、彼にもたれかかってしまっていた。
怒ってる。そんなことはないはずだった。でも、たしかに、怒ってる。ふり続ける雨、濡れた髪や服、上気した体温、いつ見つかるかわからないという不安、ひょうひょうとしたローの態度。
すべてが、きっと、腹立たしいのだと思う。
「あ、」
ローの言うことは、当たっている。それさえ嫌で、にくらしくて、認めたくない。
だから、知らないふりをしていて、そのせいで上の空になっていた。
彼の気配が動いたのが、わからなかった。
気づいたときには遅くて、あわてて手で口を押さえる。
耳のふちに雨粒が当たったのかと思った。
しっとりした感触があって、それから固いなにかで、はさみ込まれていて。
甘く、噛まれていた。
「ちょっ、と」
「あまりへそを曲げられると、さみしい」
頭の中に直接吹き込むように、彼は笑った。
背筋がびりびりとしびれ、鳥肌が立つ。
わたしの機嫌を悪くさせているのは、ローだ。
今朝だって、歯磨きをしている途中でわき腹をくすぐってきた。
おなかを触られるのは、嫌い。好き勝手にあまった肉をつまんでくるのも、嫌い。前から何度もやめてって言ってるのに、指切りまでしたのに──どこかの国じゃ、そうやって約束を交わすらしい──やめることを知らないみたいに触れてくるのも、嫌い。
実は、わたしはその指切りの意味を知っている。約束を破ったら、拳で一万回殴ってもいいみたい。本当に、一万回殴ってやろうかと思ったこともある。でも、きっと、できない。わたしの身体は単純で、すっかり彼に絆されているから、どんなに嫌なことでもそのうち受け入れてしまう。殴る前に、そんな気分などなかったことにしてしまう。
今だって、そう。
焦燥感なんてなかったことにして、抱きしめられていることを当たり前のように感じている。
「機嫌直せ」
こめかみや、頬に、何度も唇が触れる。
長い指先がわたしの手を取った。
手首に絡みついて、親指が、血管をなぞるように撫でた。
「やめて」
「なんで」
「……恥ずかしいから」
「今さら?」
ローはおかしそうに笑い、わたしの顔をのぞき込んだ。
金色の瞳が揺れている。
視線が重なると、彼はその目尻を甘く溶かした。
「かわいいな」
「…………」
「顔が赤い」
「……うるさい」
「頬紅いらずだ」
「だ……黙ってって、ば……」
「口紅も、いらねェかもな」
空いたもう片方の手がゆっくりと伸びてきて、指先があごの下を押す。上を向かされ、彼の顔が迫ってくる。ほら、もう、正直だ。まぶたが重くなる。自然と目を閉じようとする。こうしなければいけないのが、わかっている。染みついているから。くやしいけれど、これがわたしの望むこと。
唇の先が、わずかにかすったときだった。
そこにいるのはだれだ、と雨粒のカーテンを切り裂くような鋭い声が響いた。
ふり返らなくても、わたしたちを探すために駆け回っていた海兵のものだと気づいた。
ローはゆっくりと顔を上げ、舌打ちをする。
ここにいたぞ、と仲間を呼ぶ海兵の声を聞いたと同時に、力強く抱きしめられた。
まばたきをする間に景色が変わった。
狭く、暗く、じめじめした路地にいたはずなのに今は街の開けた広場、そこに連なった店の前に立っていた。
テラスにかかるオーニングの下は濡れていない。人の気配がまったくなく、よく見るとどこも営業時間外を知らせる札が目立つところにかかっていた。
ひっそりとした肌寒い空気に気を取られていると、またローの手が伸びてきた。指先はわたしの唇をそっと撫で、それからついさっき触れ損ねたそこをやさしく塞ぐ。
「……能力、」
「ん?」
「使えないんじゃ、なかったの?」
ちゅう、と小さく吸い立てる唇が離れる合間に訊ねる。
「使えないとは言ってねェ」
「え?」
「嫌だとは言ったけどな」
「なに、それ」
「おれの能力だ、どう使おうが勝手だろ」
尊大な物言いに、言葉を失う。
それじゃあ、それなら、わたしは焦る必要なんて、なかったんじゃない。だって、いつでも逃げられたんだから。
一度、大きく息を吐く。両腕をだらりと下ろし、ただ茫然と立ち尽くすしかなくて。それをいいことにローは、なにも言わずにいるわたしにキスをし続けた。
頭と頬だけが、熱を持っていた。キスをしているせいじゃなくて、恥ずかしさと怒りがごちゃ混ぜになって、よくわからない感情が生まれてしまったから。
むかつく、なんなの、ローのバカ。ひとりだけ捕まっちゃえ。
よくわからない感情の生んだ衝動のままに、彼のシャツの襟を掴んで引き寄せ、唇に噛みついてやった。それまでされるがままだったわたしが急に動いたから、金色の目がきれいに丸くなっていた。
それを見て、ちょっとだけ、満足した。
フォロワーさんからいただいたシチュエーションを
全部詰め込んでみた話
いただいたものはこちら
血管をなぞる
歯磨き
耳をはむはむ甘噛みする
指切りげんまん
怒られる
雨の檻に閉じ込められたふたり