だれよりも仲がいい話
外に出ると、蒸し暑かった。
昨日まで気が滅入るほど雨が降っていて、ようやく見せた晴れ間だというのに、空気は湿って肌に張りつく。息をすると、細かい水の粒が肺の中を埋め尽くすよう。日のあたるところを少し歩いただけで、じんわりと汗をかく。おでこや頬があっという間に火照って、このままのぼせてしまいそうだった。
「ハンバーガーとピザ、どっちがいい?」と端末からメッセージを送ったのはお昼になる少し前。即座に「ハンバーガー!」とシュールで癖になるゆるキャラのスタンプと一緒に返ってきて、頬が緩む。それから支度をして、駅に向かい、待ち合わせ場所のターミナル駅行きの電車に乗る。その間も、細やかにメッセージのやり取りをしていて、それがまたたのしくて、あっという間に目的地に着いていた。
改札を抜け、あふれかえるほど多くの人の行き交いや熱気に気圧されながら、ハイブランドの広告が流れる電光掲示板の前に立つ。それからすぐ。待つという感覚もなく、こもった空気を切り裂くように名前を呼ばれ顔を上げると、全身に衝撃が走った。急いできたのか身体は熱く、背中に回る腕は力強くて、結構硬い。彼の肩からずり落ちたリュックの角がおなかに刺さって痛くて、近くを通りすぎる人の視線もわずかに気になった。
「ルフィ」
抱きつく彼の名前を呼ぶ。飛びついてきたのとおなじように、離れるのも勢いがよかった。
「会いたかった!」
咲き誇るひまわりを思わせる笑顔で、彼が言う。
立ち込めた湿気などひと息で吹き飛ばしてしまうほど、きらきらしていた。
ルフィとは、幼なじみだ。
いくつか年が離れているけれど、だれよりも仲がいい。趣味も合う。わたしは標本を集めるのが好きで、彼は虫が好きだった。
標本は、きれいだ。鮮やかな色の模様を持つチョウやときどき虹の帯を背負うつやつやした甲虫のおさめられた箱は、いくらでも見ていられるほど魅力が詰まっている。わたしの趣味を知る人は大抵、女のくせに虫が好きなんてとバカにするけれど、ルフィは違う。昔からわたしの味方で、きれいな箱をともに眺める仲間だった。
「それ、くれ!」
家中に響くくらいの大きな声で言われ、思わず手にしていたガラスケースを落としそうになった。子どものエネルギーの凄まじさに感動し、それからちょっと、かなり、うんざりする。細いけどもちもちしてやわらかい手は、容赦なくわたしの腕を掴んで引っ張る。バランスを崩しかけ、ガラスケースの中で眠るアオスジアゲハをひっくり返しそうになった。わたしは慌ててガラスケースを持ち上げ、わんぱくな盛りの欲しがり怪獣から宝物を遠ざける。
「なぁ、くれよ!」
「だめ、あげない」
「ケチ!いーじゃねェか、いっぱい持ってんだろ!」
「だめったらだめ」
「やだ!くれるまで離さねェ!」
「子どもはだめ」
「なんでだよ!意地悪すんな!」
「もうちょっと大きくなったらね」
そう言うと、彼は丸いほっぺたをふくらませて、怒る。子どもとか、大きくなったらとか、そういうことは言われたくないみたいだから、わざと言ったのだった。そうでもしないと、炸裂してたくさんの星々を生み出せるくらいのエネルギーの塊は、あきらめてくれない。アオスジアゲハは静かに眠っている。標本は、そっと寝かせてあげないといけないのを、小さな彼はまだ知らなかった。
浅い眠りの合間に見た夢は、夢というより過去の記憶。周囲に立ち込めていた人の気配が消えて、ドアが閉まり、電車が走り出す。目を開ける。向かいの座席には、だれも座っていない。よく見渡すと、車両自体にほとんど人がいない。冷房の風が隅々まで広がっているようで、右肩の先が際立ってひんやりする。左肩はあたたかい。隣に座るルフィが寄りかかっている。つややかな真っ黒な髪が、耳や首筋に当たってくすぐったい。彼はうつむき、熱心に手の中で操作する端末の液晶画面を見ている。パズルゲームをしているみたい。わたしの知らないアプリだった。
夢の中、いや、記憶の中では、彼は小さくてかわいい男の子だった。アオスジアゲハを欲しいと言ったころは、たしか幼稚園生。わたしは小学生で、毎日のように一緒に遊んでいた。彼の身長はわたしのおなかのあたりまでしかなくて、手も足も両手で包んで隠せてしまうくらいで、泣き虫で、甘えん坊で、抱きしめるとはちみつをかけたホットケーキと太陽の匂いがして、食べてしまいたくなるくらい、好きだった。彼の標本が、あったらいいなんて思いもした。ガラスケースに閉じ込めて、わたしの宝物たちと並べて、飾る。あのころのわたしは、ちょっと猟奇的だった。大切なものはしまっておかないといけないと思っていた。だれかに盗られるのが、怖かった。
ルフィはもう、立派なひとりの男の子だった。そう感じたのは、彼が高校生になったとき。わたしは入学のお祝いとして、ヘラクレスをプレゼントした。
小学生のときにはアトラス、中学生のときにはコーカサス。そして、ヘラクレス。アオスジアゲハよりかっこいいからという理由で、ガラスケースの中で眠る宝石を手渡した。本当なら、だれかの手に渡るのは許せないことだったのだけれど、彼は仲間だから安心して委ねることができたし、勉強の苦手な彼が受験に苦労したのは知っていた。だから、英雄を渡そうと決めた。
小さな欲しがり怪獣は、声を上げて、よろこぶと思った。だけど、違った。ルフィはなにも言わなかった。しばらく渡したガラスケースを見つめていて、それから勢いよく抱きついてきて、耳元で静かに「ありがとう」とだけつぶやいた。
そのとき、もう彼がかわいい男の子ではないのだと気づいた。身長は追い越しているし、肩幅は広いし、身体はやわらかくないし、腕は長いし、手のひらは大きいし。
まるで別人のように、成長していた。
少し気が遠くなって、それから、うれしくなった。仲間が英雄を手にするのにふさわしい変貌を遂げたことに、よろこばないことはないから。
電車が止まり、ドアが開く。だれも乗ってこないし、だれも降りない。すぐにドアは閉まり、走り出す。見下ろす先の液晶画面が暗い。ルフィは端末の操作を止め、わたしを見ていた。
黒くて丸い目、長いまつ毛。かわいらしさの名残もあるけど、大人びた色もしている。
「なあに?」
「寝てたんじゃねェのか」
「寝てたよ。お昼、いっぱい食べたから」
そう言うと、彼は怪訝な表情になる。ハンバーガー一個でおなかいっぱいになるのが、おかしいと感じるらしい。しかも、分厚いパティが苦手だから、食べたのは揚げたむね肉がはさまった淡白なもの。パティとチーズがいくつも重なったものを食べていた彼とは大違い。
「だからこんなに細ェのか」
端末をリュックの中に放り込み、大きな手のひらがわたしの手首を握る。ちょっとだけ湿っていて、やっぱりあたたかい。
「お前、弱っちいな」
指が回った内側のところを、するりと撫でられる。くすぐったくて、小さな笑い声が出た。
おなかがいっぱいなのも本当だけど、実は昨夜、彼に会えるのがたのしみすぎて寝れなかった。どんどん大人になっていく彼と反して、わたしは子どもに返っているような気がする。いつまでも、昔の淡い記憶に浸っていたいのかもしれない。学生を終え、社会に出て、ひとりで暮らしていると、ときどき自分を見失いそうになる。
「ルフィが強くなったんだよ」
そう言うと、彼はししっ、と小さく笑った。笑い方は、小さな欲しがり怪獣から変わらない。それがとても、安心する。
「ヘラクレス」
「おう」
「元気?」
「うん、ちゃんと飾ってる。アトラスも、コーカサスも」
「よかった」
「好きだからな」
手首を掴む手のひらが動き、わたしの手を覆い、指先が絡んだ。親指が、あやすように肌をなぞる。
「ナマエも、ナマエのくれたもんも、全部」
電車が止まる。ドアが開き、冷えた空気が逃げ、湿った空気が滑り込んでくる。
ドアが閉まる。車内に響くアナウンスが駅名を告げる。次で降りなきゃ。暑いから、降りたくない。
「うれしい」
絡んだルフィの指を、手のひらを、お互いの肌のすき間をなくすみたいに、ぎゅっと握る。
わたしの仕草に、くすぐってェと彼は軽やかに、笑った。
ワードパレット使用作品
11.楽しみすぎて/お互い/大きな声
Thanks 憂/@torinaxx