居座る話
自分でもわかる。まぶたが今にも閉じそうだって。
起きていたくないって頭が言ってる。海の中を行く船は、とても静か。障害となる敵も、地形の起伏も、海王類もいない。ひたすらに潜り、進む。
だから、いいじゃない。枕に顔を半分埋め、シーツに寄ったしわを見つめる。洗いざらしの綿は肌触りがよくて、身体に馴染む。それだけじゃない。古い紙の匂い。羊皮紙の上で踊るインクの匂い。鼻の奥に居座り続ける消毒液の匂い。時間が経てば経つほど透き通った甘さが濃くなる香水の匂い。深く息を吸うほど、部屋の中に存在するあらゆるものがわたしのところにやってきて、胸の中いっぱいに広がる。
「ずっとここにいたい」
ほとんど無意識のうちに出した声は、偽りのない素直な心の内側そのもので、思いのほか細かった。眠ることはあきらめることに似ているから、いつの間にかなにもかもをさらけ出している。わたしの声は、意外としっかりしていないみたい。
机の上には物が多くて、本棚には分厚い背表紙が窮屈そうに並ぶ。壁には月日が経って端が変色した古い海図と、どこかの国の地図と、走り書きのメモなんかがピンで止められている。ふたりの人間がいる空間に、声は水の中で泡が消えるみたいに溶けた。
「お前がずっとここにいたら、おれが寝れねェ」
机に向かい、それまでなにも言わずにペンを走らせていたローが、口を開く。ずっと黙っているから、寝てるのかと思った。わたしの軽口に、彼は少しだけ視線を寄越し、ほほ笑む。テーブルライトのほのかで淡いオレンジ色が、彼の整った横顔を照らしていて、それはいつもよりおだやかな表情に見えた。
「でも、もう眠いの」
「自分のベッドに行け」
「一緒に寝て」
「バカ言うな」
ペンの走る音が止まない。もしかしたら、今この黄色い船の中で、一番大きな音を立てているかも。時計の秒針の音すら聞こえない。ずっしりと重い部屋の扉が、空気すら遮っている気さえした。わたしには、ローが生み出す音しか聞こえない。
「決めたの、今からここはわたしのベッド」
そう言うと、ペン先が紙の上でつまづく音がした。椅子の背もたれに体重がかかり、鈍い悲鳴が上げる。
「おい」
「決めたの」
「勝手なことを言うんじゃねェ」
「油断してるから取られるのよ」
わたしはベッドで寝るけどね、ローはつめたい床で寝るのよ。
枕の下に手を入れて、抱きしめながら笑って言ってみせるけれど、本当にそんなことをする気はない。端にくらいには、詰めてあげるつもりだ。動きたくないくらい眠いし、さっきから肩の先やつま先が冷えるから彼とともに眠りたい気分になっていた。ひとりきりのつめたいシーツの中でなんて、いい夢は見られない。ちょうど彼もひとりで寝るのだし、悪くない提案だと思うけど。
「……おれの居場所を奪うなんて、いい度胸じゃねェか」
深く息を吸い、深く吐く。
ローの声は低く、耳の裏を舐め、鼓膜を叩き、顔の周りの神経にまとわりつくようだった。
ぴり、と空気を裂く音がして、反射的に目を閉じる。押し寄せる波は熱い。人の気配は、近くにあればあるほど大きく、立ちはだかる。彼は背が高いからなおのこと。わたしは浜に打ち上げられた魚。
マットレスの沈んだ感覚がして、それからベッドフレームの軋む音がした。それが頭の中で反響して、やがて思考をくるりと包んでしまう。なめらかな毛足の上質な毛布をかけられ、眠りの奥深くにいざなわれているみたいに、意識の輪郭がおぼろげになる。
「奪い返すのに手加減はしねェ」
「返さないもん」
薄く目を開けると、弓なりにゆがんだ金色の瞳が見下ろしていた。にやりと悪い笑みを浮かべ、わたしのシャツの袖を勝手にまくり、二の腕を、墨の刻んだ指先で撫でる。開かない目で、追いかける。筋肉よりも脂肪のやわらかさの目立つ皮膚に、唇が触れ、前歯が沈み込んだ。
「いやよ」
枕を抱きしめる腕の力を強めたけれど、それは錯覚だったみたいで、ローはわたしの片腕を簡単に奪った。
手を取り、指先を絡め。肘のくぼみや腕のふくらみ、手首の内側や手のひらに口づけていく。
「やだ」
手のひらを開いて絡んだ指を解こうとしたけれど、ローは喉の奥で笑いながら、わたしの親指のつけ根に唇を寄せた。冷えていた指先に、血が通いだす。閉じていたつぼみが一気に花開くみたいに、彼の触れるところはすべてあたたまり、それがひと筋の道になって光る。
「やめて」
「嫌だ」
「ちょっと、うっとうしい」
「嫌がらせとしては成功だな」
「最低」
枕を盾みたいに胸の前で構えると、ローは目を細め、わたしの人差し指を噛んだ。
「手加減しねェって言っただろ」
それからそれぞれの指先にひとつずつ唇を寄せ、また手の甲や手のひら、手首と道をさかのぼる。二の腕を食み、肩の先、首筋、あごの骨。絡んだ指をしっかりと繋ぎながら頬に、それから下唇。つがいの全身をくまなく羽づくろいするふくろうみたいに、ローは甘いたわむれをたのしんでいた。
ぐらり、と身体の中を通る軸がぶれる感覚。力が抜け、マットレスに沈んでいく。強い眠気がつま先から忍び寄る。ぎゅっ、と詰め込まれたウレタンがうめいた。ローはするりと流れるようにシャツを脱ぐ。胸に大きく刻まれたタトゥーが、霞んだ視界に見えた。
「なんで、脱ぐの……?」
「おれも寝る」
「床で寝て」
「今すぐお前を裸にしてもいいが?」
「やだ、もう」
しょうがないなぁ、と口の中でつぶやき、ベッドの端の方に寄る。つめたい壁の感触を背中で受けたけれど、長い腕がわたしをもとの場所に引き寄せた。
それからなにか、言った気がする。ローもなにかを言った気がするけど、よく聞こえなかった。胸の奥から響く規則正しい鼓動に、意識が向いていた。腕の中にあったやわらかさが引き抜かれ、頭の下に戻る。あとはただ、夢の中を泳ぐだけ。起きたらきっと隣に、彼がいる。
ワードパレット使用作品
5.今にも閉じそう/素直な/指先で撫でる
Thanks 憂/@torinaxx