蒸し暑い夜にじゃれる話
「寝たふりをしてんじゃねェ」
そんなひと言とともにブーツの底を軽く蹴られて、お行儀が悪いなぁなんて他人事のように思った。
痛い、とわざとらしく声を張れば、ゾロの眉間のしわが深くなる。
「おい」
「折れたわ」
「起きろ」
「残念、わたしは寝てるの」
「寝てる奴がそんなふうにしゃべるかよ」
「あら、寝言をご存知ないのね」
ふふ、と声を出して笑うと、彼の表情はとても険しくなった。声なんかかけなきゃよかったと後悔するように、大きなため息をつく。その息づかいすらも、ひどい湿気がこもっているようだった。
耳の中が痛くなるほど静かな夜。
風がなくて、空気が停滞していて、それからひどく蒸し暑い。
三つ子の夏島があるせいよ、とわたしたちのかわいくて頼もしい航海士が言っていた。とても近い距離に三つの夏の島が並んでいて、それぞれが競い合うように暑さをはじめとした気候を主張しているから、沖合の方まで影響しているのだとか。今日は三回、にわか雨がやってきた。お昼に一回と夕方に二回。三つ子の夏島では必ず三回、雨とか風とか雷が、降ったり吹いたり鳴ったりするらしい。どんな変化が起こるのかはその日次第。三回のにわか雨のあと、三回気温が上がり、そして息苦しくなるほどの湿気が生まれた。だからそのせいで、とてもじゃないけど部屋で眠れなくなって、甲板に出た。雨が上がってから時間が経っているはずなのに芝生は乾ききっていなくて、寝転がったら背中がしっとりした。湿気を吸って、重たくなったシーツの上で寝るのと変わりない。水気を含んだ青い匂いが、鼻の奥にあった。
「隣にくれば?」
いつまでもこちらを見下ろし、立っている彼に言う。
「それも寝言か?」
「どうかな」
「適当なことばっか言いやがって」
「嫌ならいいのよ」
そう笑いながら肩をすくめてみせると、ゾロはもう一度、深く息を吐いた。船の中から漏れた角灯の明かりが、彼の横顔や肩なんかを照らして浮き上がらせている。月も星もない空のおかげで、その姿がよく見えた。真っ直ぐ伸びていた影が揺れ、ブーツの底が芝生を踏む。ほんの数歩。わたしの顔の近くに、腰を下ろす。
「どうせ、どこに行っても暑くて寝れない」
「あ?寝てたんだろ?」
「ゾロのせいで起きた。足も折れたしね」
「悪かったって謝るべきか?」
「嘘よ、本気にしないで」
「おう、端から信じちゃいねェ」
「ひどい、それじゃあわたしが嘘つきみたい」
「似たようなもんだろ」
「嘘をつくのはウソップの担当よ、わたしじゃない」
「そーかよ」
わたしの言葉に、ゾロはお手上げだと言わんばかりに視線をそらした。唇を一文字に結んで、どこでもないところを見る。彼のこういうところが、好きだった。どんなに見た目が大人へと近づいても、力が強くなったとしても、やっていることがへそを曲げた子どもみたいで憎めなくて。
寝返りを打つ。みぞおちの上に乗せていた両手を顔の下に重ねて、彼の方に身体を向ける。細かい傷があるブーツの先、あぐらをかいた膝が思ったよりも目の前にあっておどろいた。上着のすき間から見える胸元、喉仏、形のいいあごへと視線を向ければ、彼の冴えた色の目と合う。ここからだととても遠くに見える。近いのに遠い。耳元で揺れる連なったピアスなんか、何万光年先で輝く星のよう。
肌に張りつく湿気のわずらわしさに弱っていたはずなのに、いつの間にかまぶたが重たくなっていた。濡れた芝生の存在も気にならない。みずみずしささえ感じる。なんだかんだ言って面倒みのいい彼が近くにいるし、このまま眠ってしまっても構わないかもと思いはじめたそのとき、節くれだった指先がわたしの髪をひと束すくった。剣を持つことで鍛えられたその指に毛先を巻きつけ、ついと引っ張るとゆるいうねりが生まれる。
一回巻いては、離して。
もう一度すくって、二回巻いて、離して。
「やだ、やめて」
「あ?」
「乙女の髪は繊細なの、変な癖つけないで」
「やわいのが悪ィんだろ」
「もう、ゾロとは違うの……あ、前髪触ったわね!」
やめてと言った瞬間、ゾロが意地悪な笑みを浮かべたのには気づいた。大きくて豆だらけの手のひらが、容赦なくわたしの頭を覆い、前髪をめくって地肌を撫でてくる。
「やめてってば、ぐちゃぐちゃになる!」
「んなこと気にすんな」
「気にするの!」
払いのけようと手を出しても、ゾロはいつまでも髪をかき混ぜてきた。わたしの手を器用に避けて、好き勝手にもてあそぶ。
いくつかの攻防をあと、ようやくしっかりした手首を掴んで止めて、身体を起こす。それでも彼はおかまいなしといったように、指先に髪をはさんだまま、にやりと口角を上げていた。
「やめてってば」
「さァな」
「……意地悪したこと怒ってるの?」
「意地悪だァ?」
「足が折れたって冗談よ」
「そうやって言うってことは、お前はわざとおれをからかったってことか?」
「そういうことじゃないけど、」
「そりゃァ、よくねェよなァ?」
人が気ィつかってやったってのに。
そう言ってゾロは笑う。いつものしかめっ面はどこにいったのかと聞きたくなるくらい、ほがらかな表情で、しまったと思った。彼は自分のペースに持ち込めると確信した瞬間、よく笑うようになるのだった。
「おい」
わたしの髪を掴んでいた指先が、耳の下を通ってうなじを這った。ぴりぴりとしびれるような感覚がして肩をすくめる。視線をそらそうにも首の後ろを押さえられて、動けなくなってしまった。
「目ェそらすな」
「い、嫌だ」
「言い訳くらい聞いてやろうかと思ったが」
「悪いことなんて、してない」
「言ったな?」
くっ、と喉の奥で笑う声が、耳を焼くほど甘く聞こえた。
「ゾロ……」
「おれは寝ぼけてねェ」
「え、」
「起きてる」
好きで触んだ。そう言われ、おでこが重なり、指先が首からあごの先へとやってくる。鼻先がかすめて、このままでは唇の先が触れると思って、あわてて彼の胸に手を置いて、押した。びくともしないけど、間近にある目をじっと見つめて、訴える。彼はやっぱり、笑う。わたしの言いたいことを見透かした上で、知らないふりをする。
ゾロ、ともう一度、彼の名前を口にしようとした瞬間、下唇の自由がなくなった。甘く食み、歯を立て、呼吸がさらわれた。
「いいか、覚えとけ」
「ん……」
「ナメた真似するとどうなるか」
「ごめ、ん」
「謝んな、そそるからよ」
「最低」
「お前にくらべりゃかわいいもんだろ」
なァ?と、それまでよりも一番といっていいほど底意地の悪い笑みを向けられて、なにも言えなくなる。
頬に血が集まるのを感じてうつむくと、彼の膝とわたしの膝がぴったりとくっつき合っているのが見えた。
ふいに乱れた前髪の先が揺れて、三つぞろいのピアスが擦れる音がして、風が出てきたことに気づく。
顔や首筋を通り抜けるそれは、頬の火照りを冷ますことのない、とてもぬるいものだった。
ワードパレット使用作品
15.寝たふり/わざとらしく/言い訳
Thanks 憂/@torinaxx